村井則夫のレビュー一覧
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この論文を読むためにだけこの本を買わなければならないというものがある。リーゼンフーバー氏の『中世における知と超越』所収のトマス・アクィナスの存在論をめぐる論文、『命題コレクション哲学』所収の神認識論はそのようなものに数えられるであろう。それらはのちに著者の大著『中世哲学の源流』に収録されることとなり、日本における中世哲学研究の結晶として今なお輝きを放つものである。相次いで刊行された『中世哲学の射程』と本書『存在と思惟』はその主著『中世哲学の源流』のハイライトともいうべきものである。本書『存在と思惟』に先んじて刊行された村井則夫編『中世哲学の射程』は中世文化を闡明し、中世哲学研究の前庭を読者に生き生きと提示する内容であり、中でも「サン=ヴィクトルのフーゴーにおける学問体系」はこの論文を読むためにだけでも手に入れる価値がある。そして引き続いて刊行された本書は、まさに中世哲学の核となる「存在と思惟」をめぐる論文で埋め尽くされている。
本書にはまさに冒頭に言及した二つの論文が採録されているのである。先に刊行された『中世哲学の射程』が中世文化の総体を読者に提示するものであるのに対し、本書『存在と思惟』はその思考の核となる存在理解を提示してくれるものである。分量としては少ないながらも本書の解説において山本芳久氏が熟読を読者に促しているように、本書はさらっと読めるものでは決してない。しかし中世哲学に興味を持つ読者にとっては「トマス・アクィナスの存在理解の展開」は他書において暗示に留まる存在理解をこれ以上にない仕方で掘り下げて探求するものであり、読者をおのずと中世的思考の核へと導いてくれる。そして「トマス・アクィナスにおける神認識の構造」はもともと『命題コレクション哲学』所収であるため、より多くの読者に開かれつつも神学における原理的な思考を提示するものである。本書を読み始めて難しいと感じる読者はぜひ最後から二番目のこの神認識論から読んでみてはいかがだろうか。
本書は小著ながらも中世的思考の核となるべきものを読者に提示する珠玉の論文集である。読みにくさを読者が感じるとすれば、それは著者が四つに組みながらテクストを判読していく思考の現場に立ち会うからなのである。それも『超越に貫かれた人間』や『超越体験』といった著作にはない深さで中世哲学の核心を読者に提示するものであり、まさに熟読に値する本なのである。思考の道行きだけでなく、本書で言及されるトマス・アクィナスを始めとした原典への指示を通して読者は中世研究の精華に触れられる、類まれな哲学書なのである。 -
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本書はリーゼンフーバー氏の待望の一巻選集である。著者であるクラウス・リーゼンフーバー氏は日本における西洋中世哲学研究を牽引し続けた碩学である。その氏の仕事は『中世における自由と超越』『中世哲学の源流』『中世における理性と霊性』『近代哲学の根本問題』など数多くの大著にまとめられており、どれもA5版ないし菊版にして700頁を超える大作である。氏の研究の道程で発表された論考をまとめたそれらの大著は、体系的な構成によって書き記されたのとは違った知の結晶を思わせる著作群である。一見周縁的な主題に思われる論考でさえ、著者の論考を読み進める読者はその認識を改めなければならないと思わされる、そういった知的喜びを抱かせる論考に満ちている。そして本書はそのことをありありと感じさせてくれる一巻選集なのである。
本書は『中世哲学の源流』と『中世における理性と霊性』という到底持ち運んで読むには困難な大著から重要論文を抜粋したものである。最初のページから最後のページまで氏への愛を感じさせる本書は、主題の緊密な構成のもとに配された論文を通して中世哲学の礎石を明らかにするものである。中でも「サン=ヴィクトルのフーゴーにおける学問体系」はそのためにだけ原本の『中世哲学の源流』を手に入れたいと思っていたものである。それだけでなく、理性的存在者としての人間の姿を見定める人格論、中世におけるボエティウスの『音楽教程』の重要性を明らかにする「ボエティウスの伝統」、能動知性をめぐる数々の論争を具体的な諸相において明らかにする知性論、ディオニュシオスの神名論を核に展開される否定神学論、強烈な印象を残す新プラトン主義者としてのフィチーノをめぐる論考。どの論文も文字通り解説を要しない、中世哲学研究の礎石となる論文である。
収録された論文もさながら、長年に亘って翻訳を通して著者に伴走した編者による解説は本書を特異なものにしている。膨大な著者の仕事の全体図を提示しつつ、本書には採録されなかった『近代哲学の根本問題』や『中世における自由と超越』に含まれる論文との関わりを含め、著者の関心が中世哲学を自体的な完結した研究としてではなく、近代や現代の思想との繋がりにおいてそれらの源流に位置付けていたことを明らかにしている。一つひとつの論文がどのように翻訳されて世に出ていったかを書き記した、余人には書き得ない編者による解説は、著者であるリーゼンフーバー氏の仕事の全貌を明らかにし、読者を中世哲学研究の沃野へといざなうものである。 -
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ドイツに頽廃をもたらした様々なものを、"生"を否定するキリスト教的価値観をキリスト教を貧者の宗教であり頽廃をもたらすものであると看破しながら、疾走感と痛快さをもって手当たり次第に切り捨て、破壊していく。"生"の否定がどこからもたらされていたかと考えていたかがはっきりと示されたニーチェの思想の到達点である。
中でも印象に残ったのが、『反時代的人間の渉猟』で指摘している無政府主義者の行動である。社会の底辺階層を代弁して「『正義』、『公平』『平等の権利』を要求」し、「私が下層民であるなら、お前もそうあるべきだ」という理論を掲げ、そして「自分の困窮ぶりを他人のせい」にして復讐そして革命を煽る。これは今まさに世界で起きていることであり、これをすでに指摘していたニーチェの視点の鋭さに驚くばかりである。
ニーチェの当時のドイツに対する忠告であるが、それは現代に対しても有効であるように思う。"生"を否定する存在、すなわち、自らの意思で行動することを否定し、変わろうとする(=豊かになろうとする)意欲を奪っていく存在から、どのようにして身を守るべきかを改めて考えていかなければならないだろう。 -
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2部構成。第1部でニーチェの文体について論じ、第2部で『ツァラトゥストラ』を読解する。
岩波文庫版の『ツァラトゥストラ』には訳注が無かったが、本書はその役割を十二分に果たしてくれた。
以下は本書無しには読み取れなかった数々の「謎」の一部。
・古代ギリシアの風刺文学のスタイル「メニッペア」を模した表現技法
・綱渡り師と道化師のエピソードが暗示する意味
・ツァラトゥストラが説く駱駝⇒獅子⇒幼子の「三様の変化」と、ヘーゲルの弁証法との違い
・全篇をとおして現れる聖書のパロディ
・自分が見た悪夢にそれらしい解釈を与える弟子を、ツァラトゥストラが一度は歓迎しながら最後は首をふって否定した理由
・「重力の魔」が語る永劫回帰と、ツァラトゥストラの永劫回帰との違い
・ツァラトゥストラが擬人化された「生」に耳元でささやいた言葉(『ツァラトゥストラ』のテキストでは明示されない)
・ツァラトゥストラを誘惑する2人の女として擬人化された「知恵」と「生」の葛藤の意味
・ツァラトゥストラが泣く泣く「生」と訣別する理由 -
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数あるニーチェの本の中でも村井則夫氏(明星大学准教授)の本を手に取ったのは新書にしては深い洞察と新しい発見が多い中公新書から出版されていたことと、帯にかかれた「血をもって書かれたものだけを私は信じる」というニーチェ自身の言葉の強烈さに圧倒されたからという理由が大きいように感じられます。
過去に自分がやったテレビゲームに、「ゼノギアス」や「ゼノサーガ」といったRPGがありました。制作者である高橋哲也氏が盛り込んでいたニーチェの思想が、テレビゲームという媒体を通じて断片的に知るだけでしたが、発狂する前にニーチェがたどり着いていた「永劫回帰」の発現のプロセスを追うことができたのもこの本から得ることのできた成果でした。
この本を読み終えても何一つ解決しませんし、すっきりともせず、ニーチェが残した思想世界の泥沼にはまりこんでいく空恐ろしい感覚を抱きながら本を閉じることになります。それは自称の理解を促す一方で、実は誤解である可能性があるという危険性と常に隣り合わせであるという緊張感にあります。ニーチェが発狂して人生の最期を迎えたように、彼がたどりついた永劫回帰の意味を知ってしまうと、自分の思考も訳が分からなくなり混乱する、つまりニーチェを体験するかのような感覚に陥る怖さがあるんですね。
そんな中であっても、悩みを笑いの題材にできるパロディを奉じる精神や、異常と正常の区別をなくしてすべてを平等として受け入れる発想をニーチェから導きだせたのは新鮮な発見でした。ニーチェそのものの人生が常人には理解できない足跡を残しており、実生活から紡ぎだされた思想故に魅力的なんですね。虜まではいきませんし、ニーチェ自身の著書を手にできるほどのレベルにさえ達していませんが、挫折せずに次へ迎える気持ちでいるのは自分に何か面白いと思えるものがこの本を通じて残ったからでしょう。
★が5つなのは、村井氏の解説がやさしくここからニーチェを読み広げていくには良書だろうと思うからです。しかし、実際に読後感として去来するのは、ニーチェの思想を理解するに私の脳が追いついていない恥ずかしさでした。私のせいで評価そのものを軽んじる理由は無いのでこうさせていただきました。 -
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ネタバレ高校の頃と大学の最初に、何の基本も知らずに読んでいたものをより深く理解するために。いくつもの全く思いもしなかったことと、あぁ自分の読み方は正しかったんだということがあり、悪くない読書だった。あの頃にどう読んでいたのか、つまびらかには思い出せないけれど、強烈に覚えていることもある。『超人思想』と「これって聖書のパロディなのかな?」ってことだ。あとは、読みながらほのかに覚えていたことをぽろぽろと思い出した。
半端な読みにも関わらず、俺が最初に読んだ頃から超人思想やいくつもの言葉に引き摺られて生きてきたのは、俺の影響されやすさだけの問題ではない。今の俺の志、考え方、行動に明らかに直結しているのだから。それだけ、ニーチェの言う『血で書かれた文章』の力は燃えている。
俺の教養不足だけでなく、この時代に生まれた凡人にはこのような地図が必要だと思う。執筆以前の必須教養とその時代にされていた思考や思想、それらを確かに掌握していなければニーチェの意図にはたどり着けない。その時の思想や本まで書いてくれているこの本は、その意味でも大きな仕事だと思う。そして以前から興味のあったゾロアスター教についての本や、ダンテの『神曲』を改めて読む気にさせてくれたという点でも、俺にとっては良かった。ツァラトゥストラ自体を読んでから、また読んでみようと思う。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
ある日「永劫回帰」の思想がニーチェを襲う。
この着想をもとに一気呵成に書き上げられた『ツァラトゥストラはこう語った』は、二〇世紀の文学者・哲学者の多くを惹きつけ、現代思想に大きな影響を与えた。
文学の伝統的手法を駆使しつつも、ときにそれを逆手にとり、文体の実験までも行うニーチェ。
一見、用意周到な筋立てや人物造形とは無縁と思われるこの物語は何を目論んでいるのか。
稀代の奇書に迫る。
[ 目次 ]
第1部 ニーチェのスタイル(世界を読み解く技法 舞踏する精神)
第2部 『ツァラトゥストラはこう語った』を読む(思想とパロディ-序説 賢者からソフィストへ-第一部 分身たち-第二部 ツァラトゥストラの帰郷-第三部 高等な人間たち-第四部)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ツァラトゥストラを自力で読んでも、何て偏屈な人なんだろう…自分には難しすぎる(涙)で終わってしまっていて
今回村井氏の解説を読むと、ゾロアスター教のシンボルの事や、
パロディの精神のことなどまるで知らず、
ニーチェは実に真っ当な事を行っている様な気がした。
むろん難解と言われるニーチェの考えを自分がしっかり理解出来ているとは思えないが、
ざっくり感じたのは、自分の生を、自分の意志でちゃんと生きる、
という当たり前のことだった。
右へ倣え精神が染み渡っている日本人である私には中々出来そうも無いけれど、
ただ闇雲に周りに合わせないこと、
妄信的な集団が出来て来たらそれを解散させることなどは、
もし勇気を持ってそれが出来れば、日本もずっと良い国になる気がするし、恥ずかしいくらい日々、自分の考えを巡らせる時間等持たずに、入ってくる情報で頭を満タンにしていたことに気付いた。
この本を読んで再度ツァラトゥストラにチャレンジしてみようと思う。 -
Posted by ブクログ
『ツァラトゥストラ』を読むための副読本。簡潔で理路整然とした解説というよりは、当時の文学や芸術などの文脈を参照しつつ、ニーチェの奔逸する観念をつぶさに追う解説という感じ。『ツァラトゥストラ』自体が、具体的で、反復・パロディによって冗長であるのと同様に、本書自体もそのスタイルを真似ており、はっきり言って読みにくい。丹念に『ツァラトゥストラ』を読み解きたい人には良いかもしれないが、ニーチェ本人の思想の要点を捉えたい人には不向き。一気に通読すれば面白かったかもしれない。いつか再読するかも。
「XでありながらXでない」というのは言うのは簡単であるのに、それが多用されるから、分量の割には得るものが少なかった。そういう反対物の一致は神秘的体験だからずべこべ言わずに感じろ、って話なら仕方ない。
事あるごとに、「〇〇は××の戯画である、パロディである、反復である、ネガである」というのは逃げているようにも見える。その表現技法が何を目指そうとしているのかがわからないし、所々根拠が薄く筆者の幻想に過ぎないような気もする箇所があった。
「メニッペア」という伝統的な文学形式があり、『ツァラトゥストラ』もそれに則っているということは知れてよかった。