林京子のレビュー一覧
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被爆の痛みを知らず、また、忘れ、日々を安らかに生きる私たちにとって、林京子の徹底した“傷を負った者”側からの描写はあまりにも痛くて重い。まるで「被爆について、誰もがあまりにも無知に日々を過ごしすぎる」と言ってるように感じられる。または「被爆者が精神的にも肉体的にも深く負った傷を、自分のものとして受け入れることが、現代に生きるすべての人間に課された宿命である」とでも言うように。
『「どこの女学生さんじゃろか。可哀そうか。」…洋子は死んでいた…膝を抱いたまま、死んでいた。女の一人が「かわいそうに、ハエのたかって」と横顔に群がるハエを、手で払った。…太陽に向って飛んで行くハエを見おくりながら、洋子は死んでしまった、と若子は思い、「だけど、あたしには関係ない」とつぶやいて、山を降りていった。』(「祭りの場」の連作のなかの「二人の墓標」より)
いま、中高生に課題図書として、この作品を薦めるべきだろうか?
“作り物”の痛みの描写と、安っぽい共感しか得られないライトノベルしか読んだことがなく、恋愛とか「自分が興味のある身近な痛み」だけを軽く受け入れて、原子爆弾による想像を超えた痛みについては、自分の日常に直接的に関係ないというだけで無関心を装うというような隙間だらけの感受性ですべてを語ろうとする勘違いした中高生やその親にいきなりこの本を読ませることに、異論もあるかもしれない。
でも、この本の物語は、60数年前に実在した女子中学生の、率直な心から生まれたことを忘れないでほしい。
血が流れ、肉をえぐるありのままの描写を、何も知らない子どもの眼前に突きつけることは、非難されるべきではない。私たちは、現実を隠し、目をそらさせて、綺麗ごとのみで覆い包む行為こそ責めるべきだ。
(2010/8/9) -
Posted by ブクログ
思えばかつて大田洋子『屍の街』『半人間』=原民喜『夏の花』=林京子『祭りの場』=中沢啓治『はだしのゲン』=『原爆の図』丸木位里・俊=峠三吉『原爆詩集』=井伏鱒二『黒い雨』に対して、何故?巨大な原爆に立ち向かうのにこんなにも数少ない作品でいいのかしらと疑問に思いながらも夢中になっていた頃、おそらく表現と告発の違いもまだ解っていなかったのでした。
それに、ほとんどの人がこういう傾向のものに何の興味も示さないことも。
「人間にハエがたかる。うじ虫がわき人間をつつく」
このとき、林京子の『祭りの場』は、私には、被爆という残虐な悲惨極まりない稀有な体験をありのままに書いている私小説としてだけでなく(それだけでも超一級の作品ですが)自立した優れた文学として揺るぎないものを感じました。
たとえエピローグが、「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、見事なセリフがある。-かくして破壊は終わりましたー」という表現がやや直截だとしても、告発で何が悪い、当たり障りのない象徴的や芸術的昇華だけが文学じゃないんだと思ったものです。
ただこのあと、例の彼女へのわが中上健次の「原爆ファシスト」呼ばわりが元で遠ざかってしまいました。彼女の被爆者としての言及に、特権意識があるだのないだのどうでもいいことでしたが、そこは党派性をわきまえた私のことですから、やむなく中上健次の方に組したというわけです。
本書は、被爆が1945年8月に終わったわけでなく、肉体を破壊し傷つけただけでなく、心も傷つけ子孫まで傷つけ、そして人間だけでなく母なる大地をも傷つけたということを、自らを全人類の一細胞のように感じ、地球と共鳴して、被爆後65年の生の一秒一秒の検証のあかしとして書かかれています。
それにしても、14歳のいたいけな少女の被爆という体験だけでもとてつもない重荷なのに、その上にまだもうひとつ原爆と対峙するという、とんでもないことを65年間もかかえて格闘してきた林京子という人の強靭な精神には、否応なしに深く敬服せざるをえません。 -
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被爆から数十年を経て、原爆症ではなく「老い」による死を間近に感じた著者は遍路に出立する。
それは行方をくらました友達カナの意志を遂行する道程であり、あるいは著者とは異なる戦後を歩んできた被爆者との出会いを想起させる旅でもあった。
「長い時間をかけた人間の経験」では、身体に放射能を抱え込んだまま生を歩むことが問題化されている。
「トリニティからトリニティへ」は、ヒロシマナガサキへの原爆投下に先立って世界ではじめての核実験が実施されたニューメキシコ州トリニティ・サイトへの旅を綴ったものである。
日本人、被爆者、被爆する前の自分、そしてまた被爆者へと著者の意識が移り変わっていく場面が印象的だった。 -
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林京子といえば原爆作家、というイメージがある。被爆体験を特権化しているとして批判も受けたという林だが、彼女の作品を悲劇の物語として受容してきた側の欲望もあったのではないか。この連作短編集を読んでそんな思いをもった。
上海の日本租界に暮らした少女時代の思い出は、運河や長屋を包む匂いと音の暖かさとともに、他方ではテロリズムと官憲による監視がもたらす緊張との間で、調停できないままに引き裂かれている。
とりわけ鮮烈なイメージを残すのは、イタリアが降伏した日、運河に横倒しになったかつて白い貴婦人のような客船の姿、そして、軍に護衛されて出かけた遠足の先で、婦人奉仕団の開墾地で、葬られることもなくさらされる骨である。
終章が示唆するように、この死と暴力のイメージは、この少女がやがて長崎に帰郷して出会う原爆と切断されているのではなく地下水脈のようにつながっていた。そしてその後の著作が示すように、今もなお、ひそかに通底音をひびかせているのである。 -
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原子爆弾が落とされた長崎の町を生き延びた筆者が、そのときに体験したことを淡々と書き記しています(「祭りの場」)。
怒りや絶望の感情を抑え、静かな文章でつづられるからこそ、原爆の悲惨さが伝わります。
体験者が語る「被害」の詳細な描写は思わず目をそむけたくなるほどの衝撃を受けます。
正直、細かな怪我の描写は凄惨で、ページを飛ばしてしまう部分もありました。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」とも言われるように、この作品からは原爆を落としたアメリカへの憎しみや戦争への怒りよりも、その犠牲を悼む要素が強いようにも感じます。
戦後80年を迎えようとしている現代の私たちが、忘れてはいけない記憶がここに残されています。 -
Posted by ブクログ
最初の「祭の場」は、芥川賞受賞作なので、(当時の純文学の大御所はかなり手厳しい人ばかりだったから)相当巧いに違いないと思って読み始めたら、意外に巧者とは言えない文章。しょっちゅう時間が飛び、主語が省略され過ぎてたり、文末が唐突だったり。そうか、「火花」みたいなことは前にもあったのだな、と。体験者にしか書けない世界は、実際あったことはインタビューや文献を読み込んで書いてきた作家にとっては凄い衝撃で、多少文章に難があっても、認めるしかないのだろう。
しかし、一番読みにくいのは「祭の場」で、どんどん読みやすくなってくる。それは、巧くなっているということでもあるのだが、巧さが勝つと、生々しさが薄くなりがちで、そこが文章の難しさなのかもしれない。
確かに、日本は加害者でもあったことを考えれば、被爆者の人生をたどり、思いを描く作品群は一面的かもしれないし、いかにも無辜の民であったという書き方もどうだろうかとは思う。(当時14歳だった作者にはもちろん何の罪もないが。)
しかし、戦後、復興第一で邁進した日本が忘れたかっただろう被爆者の真の姿を公にした功績は大きい。
個人的には、少女の微妙な友情を描いた「二人の墓標」、上海の日本人遊女との交流を描いた「黄砂」も良かった。
被爆者だって、一人一人違う、思いはそれぞれなのだという当たり前のことを、体験していない人間は忘れがち。
8月には読むべき作品だと思う。 -
Posted by ブクログ
確かに語り継ぐことを命じられた人間の魂の記録であり、戦争の記憶が完全に消えつつある現在の日本に生きる人間が確かに継承していくべき歴史。
でも何だろう、違和感ではないのだが微妙なズレみたいな感触がある。もしかしてこれが「原爆ファシスト」と呼ばれた所以なのだろうか?
どういった文脈でそのような酷い仕打ちをこの作家が受けたのか全く分からないのだが、一方で文学に必要な要素である冷徹なまでの客観視という観点に欠けているような気がするのも確か。
結局、文学という「社会体制」は生命そのものを描き出すことは出来ないということだろうか。
極めて重い命題を突き付けてくる作品かと思います。