ネタバレ
Posted by ブクログ
2013年07月11日
文庫本裏表紙の文章にもある「三国志」「西遊記」は子供時代に読んだときからかなり気に入り、ストーリーも詳細まで・・・・とはいかないまでも大筋ではしっかり頭に残っていたのに比べ、こちらの「水滸伝」はほとんど印象に残っていませんでした。 ただ、「北方水滸」を読み始めた際に強烈に感じたのは
「あれ? ...続きを読むこの水滸。 昔読んだものとかなり違うような気がする。」
ということでした。 今回、本当に久々にこの上巻を読んでみて「気がする」どころかやっぱりこの2つは似て非なるモノであることを改めて認識しています。
そもそも子供時代にどうしてこの物語がほとんど心に残らなかったのかと言えば、少なくともこの上巻に関して言うならば、登場人物の誰も彼もが気が短い(苦笑) そして酒癖が悪い。 「好漢」って何? と思わずにはいられない・・・・・。 そんな感じなんですよね~。
冒頭の「洪大尉、百八の妖魔を逃がすこと - 物語の発端」で、しょ~もない役人がしょ~もない感覚でお寺に封印されていた魔王を解き放ってしまうというお話があり、ある意味で「役人」とか「公権力」みたいなものを絶対悪として規定しているように読めちゃうんですよね。 そしてそうであるだけに役人を殺したり役人の金を奪ったりという行為が「好漢」として世に認められる必須条件みたいに読めたりもすれば、あそこで逃がした妖魔が百八ということで梁山泊に集う豪傑の人数が百八であることにより「妖魔」≒「好漢」みたいに読めちゃったりもするわけで、内容を覚えていないだけにこの先がちょっと楽しみです。
北方水滸の方では同じように腐敗しきった宋という国の国家体制とそれに抗う抵抗勢力の物語という構図の中で、「志」とか「替天行道」といったアクション・プランやプラクティル・プランには欠ける Vision Only の「理想論}が行動原理として規定されていたんだけど、それってとっても現代的(つまり理屈先行、イメージ重視)な道徳観念みたいなものに根差しているのに対し、こっちはもっと刹那的(苦笑)
「時の権力」vs.「抵抗勢力」という対立軸がベースにあるのはどちらの作品も変わらないわけだけど、こっちの物語は「話せばわかる」「問答無用」みたいな実力主義というか、すぐに腕力で解決する暴れん坊だらけという感じです。 まぁ、元々が権力闘争な~んていうのはそういう力と力のぶつかり合いの中で最後に勝ったものが正義みたいなところがあるわけで、それを痛快にデフォルメしているとも言えるわけですが・・・・・(苦笑)
それにしても、魯智深ってこんなに暴れん坊だったんですねぇ。 あっち(北方版)の魯智深はイマドキの言葉で言えば「フィクサー」だったり「メンター」だったり「プロモーター」だったり「プロデューサー」だったりともっと知的な雰囲気が漂っていたんですけど、これじゃ単なるハチャメチャな暴れん坊じゃん!
でもね、ちょっと直感的に感じたのは中国人という大陸民族のものの考え方のベースはここにあるのかもしれないなぁ・・・・・・と。 やっぱりそういう意味では「和を以って尊しとなす」という日本人とは大きく異なるものがある、そんな気がします。 それがいいとか悪いというようなことではなく、多くの王朝が建っては崩れ、その度に覇者が入れ変わり、その権力維持の背景には「天の意志」というような摩訶不思議な「絶対神」的なそれでいて得体の知れないお墨付きを欲しがるメンタリティとでも言いましょうか。
ま、いずれにしろ次は中巻です。 この上巻では梁山泊に集っているのは晁蓋、呉用、林冲、劉唐、阮三兄弟、杜遷、宋万、朱貴ぐらいしか揃っていないわけで、中巻では108人が集まってくれるのかしら??