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Posted by ブクログ
読み出してまだ十数ページだがすぐカルチャーショック。歴史てなんだっけ?と変なゲシュタルト崩壊
なんとなく歴史とはどれだけ正しく史実を再現できるか、そしてそこから人や自然の営みを通してロマンを感じたり学びを得たり、自分や周りを物語化する事だと思っていた。色々解釈は人にもよるが少なくとも歴史とは正しく事実を捉える事から始まるのだと。史実とは異なる歴史を持つ、主張する人を分析対象や「そう捉える人達がいる」と排斥するのではなく引き受ける歴史観を構築する。全く自分にない感覚なので読み進めるのが楽しみです。
六章まで読んだところで一旦チラホラ感想。
アボリジニの人の歴史観
ドリーミングやジャッキーマンガラヤの話しから思うことは紙を不道徳としている彼らは口伝を使い目に映る風景、空間に歴史や道徳を紐付けながら紡いできた(もしくはその逆)のかなと思う。ドリーミングもジャッキーの話も事実を彼らのルーツに紐づけて解釈した逸話や寓話だと思う。(アカデミックベースで解釈した場合)ただ保苅さんも書いているが彼らの歴史は事実なのだ別の次元で起きていることだと。結局我々の歴史も現代とは別次元で起きたことであり、史実すら研究により覆る。この捉え方を相対化すると我々もアボリジニの人も同じなのかもしれない。
ミノのオーラルヒストリーを読んで
著者の保苅実さんもアボリジニのカントリーの中で生活すると数ヶ月で霊的な物やドリーミングの存在を信じるようになっていた。これは認知の話なのかもしれない。何を共通基盤に生きているのかでこの事象の捉え方も考え方も異なる。いきなり友達がドリーミングが!とか言い出すと大丈夫か?と思うがアボリジニの人や共に生きた保苅さんがそう語るのは真実だと感じる。我々は我々なりの歴史の中で科学ベースの世界の中で生きており、アボリジニの人たちとは共通基盤がちがうだけなのかもしれない。そして、これはたまたま極端な例でありグラデーションにしてみれば地域、組織、国とみなそれぞれ生きている歴史に差異はある。アカデミックがマジョリティすぎるだけなのかも。
最後まで読んで
歴史とはなんなのか?という疑問は人それぞれじゃんという漠然としたものに変わりつつある。アカデミックなものを正しいと考えるのもいいけど、人の数だけ物語も捉え方もあるしそれも結局は歴史なんだよなと。査読されていない、精査されていない日々の生活の積み重ねもローカルな範囲で見れば歴史なんだよなと。とある意味当たり前の場所に帰ってきた。冒頭の自分の感想を読んでもなんか固いこと言ってんなぁとこの本を読むことで意識が変容していることに気づく。
ただこの考え方は今流行りのインクルーシブと同じくいい側面と怖い側面はあると思う。人と自分が違う歴史を生きることは良いと思うが過去の戦争や虐殺など暴力を伴った事案を捉える時はインクルーシブであってはならないと思う。と思ったがパラパラ読み返すとこれに関しても本書では触れられていた。理想論としては政治闘争や裁判の場ではきちんと史実をよりわけるべきだと。保苅さんとしては歴史はあくまで多元的に実践されるもので、普遍化しようとするのが学術的な歴史家に足りてない部分だと。なのでドリーミングの歴史をアボリジニ以外の人に押し付けることもしない。なるほど。結局お互いがお互いを尊重し合うというこれもある意味当たり前の考え方だ。(現実はなかなかそれができない)
歴史学や歴史のあり方、捉え方への主張や考えが記されたこの本だが、歴史は個人の人生と考えると人や世界、人生の捉え方に通じると感じる。これは今後もたまに読みたい本だ。ただそれなりに長くわかりにくいところもあったので最後の後書きを先に読んだ方がわかりやすくなるように思った。
あと、なんか本読むだけじゃなくて人と関わらなきゃなと思った。
Posted by ブクログ
徹底的にオーストラリアのグリンジというコミュニティの個別文脈性にこだわり、普遍性と実証主義を学問的良心とする歴史学との間に対話の空間(著者の言葉で言えば、協奏の可能性)を生みだそうとした労作。多様な歴史経験に真摯に向き合うことの重要性が一貫して主張されている。筆者がもし存命だったら、次作は(著者が批判の目を向ける)メインストリームの歴史学の手法に則って、どこまで本作の問いが深められるかを追求して欲しかったと思わせる。筆者が理想とする歴史教育のあり方——客観的な〈史実〉と主観的な〈経験〉のバランスの取り方——について、一緒に議論してみたかった。
人類学の側からはグリンジの社会の描出が粗いことや、ジミーおじさんの意見の代表性(ジミーおじさん以外の人々の声があまり聞かれない、女性が登場しない等)に関する批判が出てくるかもしれない。それは個別学問のディシプリンに(忠実に)従うならば、おそらくそうなのだろう。そうした批判に著者なら、こう答えたかもしれない。「確かにそうかもしれませんが、それは私が提示している問いの本質性を揺らがせるものではありません」と。残された時間と体力との格闘の中で、歴史学における個別と普遍の間(境界)を必死にこじ開けようと奮闘する筆者の姿には、大いに励まされるものがあった。著者の残した問いは大きいが、「難しい問いですよね」と言って巧妙に“排除”するような人間にだけはなりたくないものである。本書を等身大で受け止める度量が私たちに問われている。
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