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Posted by ブクログ
愛が、人に正しいことだけをさせるものであればいいのに。それとも自分ではどうしようもなく間違った道を歩くしかなくなったとき、私たちは愛という言葉を持ち出すのか(p114)
出会ってしまい魂が動かされれば、そのことに気づかないふりをすることはできない。気づかないふりをしながらゆるゆる生きるなんて耐えられない。(p137)
わたしの体の奥底に込み上げてくるものがあった。この男がいとしい、とわたしは思った。どうしようもない男だけれど、いとしい。いとしくてしかたがない。(p148)
道連れにはできない。わたしひとりで行くしかない。決意というよりそれは憧れに近いものだったし、文字通り、わたしの前にあらわれた道だった。(p148)
Posted by ブクログ
人は何故愛するのでしょうか?
何故妻の事をこれほど愛しているのに他の女性と関わってしまうのだろう?
何故この妻は夫の浮気を知ってもただ夫の情事を静かに眺めている事が出来るのか?
そして著者は2人の娘なのに何故この小説を書く事にしたのか?そして作中では妻の内心や葛藤や夫の心の様子は全く最後まで謎のままなのである。
更に言うならば瀬戸内寂聴と井上光晴の妻の視点で描かれた小説である事は映画を観て知っていた。
しかし小説家である「みはる」の視点では白木との関係が始まって変化してやがて終わるも何某かのものは続いていく。一方「笙子」は二人の関係をつぶさに感じ取りつつもいつも心の内にとどめておく。
不思議だと思ったのはみはるが「白木の妻は今何処でどうしているのだろう。何を考えているのだろう。白木の様な男とどんな気持ちで暮らし続けているのだろう。」と思い出家を決意して関係は終わり白木と決別できた。
笙子は「愛が、人に正しいことだけをさせるものであればいいのに。それとも自分ではどうしようもなく間違った道を歩くしかなくなったとき、私たちは愛という言葉を持ち出すのか。」と思い幻の夫の方が本物だと思えることがある。そして結局最後まで訣別しないと決めていたのである。二人の関係をもう一人の存在である「みはる」と対峙させる事により夫婦の関係を浮き上がらせたに過ぎないと思います。
作者は実際の父母を描く事によって「本物」の彼らを表現する事になると知っていたのだろうか?
Posted by ブクログ
善き。
やっと読めた。映画になった時からの積読…
瀬戸内寂聴と井上荒野のチチ、井上光晴とその妻、1人の男を巡る女達の生涯の物語。
実話?とも、小説?とも言われ、どちらで読んでも深い。娘の立場で取材し文章にし、そして解説でもあったが、そうやって初めて小説家はそのテーマとの訣別ができるのではないだろうか…と。
なんともダメ男に思えるが、常に女が周りにいるオス。どこまでも男な父と同じ職業になり、父もそれを喜びながらも病魔に襲われて亡くなる。人間らしく生きた、昭和の時代だな、とも思わされる。
ドロドロした内容だが、清々しさも感じる文章で、他作も読んでいきたい。
Posted by ブクログ
読み始めて(あれ?寂聴さんの本だったか)と思った。(解説で川上弘美さんも仰っている)
出家前の寂聴と井上光晴、その妻の関係を娘の井上荒野が書いたというこの本のことは昔から評判だったが、こんなにも深く切なく愛憎を描けるものか
出家直後の寂聴が白木に「だめだよ、来たら。何のために出家したんだ」と諌められ部屋を出る場面や、
笙子の「篤郎にはそれほどに私のことが必要なのだ。私が秦さんと寝なければならないほど、篤郎のことが必要であるように」という科白、
くも膜下出血の発作のあとで寂聴に白木が
(治らなかったら)「俺がなんとかしてやるよ。
俺があんたを殺してやる」と言うそれを「性愛に近い記憶」とよぶところなど、
胸がつまる愛のカタチのジャブの応酬だった
脳内大恋愛にへとへとである
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