レビューなどで「もともとチャリティ番組に違和感があったが、この本を読んで違和感の理由が分かった」という意見が散見される。だが私からしたら、正直に言って「そこまで言い切るほどあなたは物分かりが良かったの?」と考えてしまう。例えば「愛は地球を救う」の放映が始まったのは確か私が中学生のころの昭和50年代。
...続きを読むそのころ開催されたオリンピックの女子マラソンで競技中に体調不良に陥り足をふらつかせてゴール後に力尽きて倒れた選手に対して、世界中が拍手喝采した。さらにそのことに誰も違和感をもたなかった。順位でいえばその選手よりも1つ早く、ふらつくこと無くゴールした選手については誰も顧みることがなかったにもかかわらず、だ。
これを障害者のケースに当てはめてみよう。障害者が不器用な姿ながら困難な何かをしようとする姿(以下、「頑張る姿」と書く。)を世間一般が求める現象について、この本の著者はTVドラマ、映画やドキュメンタリー番組などの個々の素材で具体的に検証をする。
世間一般が障害者に「頑張る姿」を求めるその求め方が「過剰」なのでは?という意見は前からあった。私が冒頭にあげたチャリティ番組に違和感をもった人も、おそらくはその範疇だろう。しかしこの本を注意深く読めば、著者は「過剰さ」に対してだけに疑問を投げかけているわけではない。著者の主張は、障害者に対して頑張る姿を1ミリたりとも求めるな、という厳然たる態度に基づいている。
そう言うと、例えば「パラスポーツなどで障害者が『頑張る』シチュエーションがあるなかで、そこから感動を受けることすらも否定されなきゃいけないの?」という疑問が世間一般からは生じるだろう。だが、私はこう思う。障害者がスポーツや芸術などのあらゆる場面で「頑張る姿」は、現状では、障害者自身の思惑がほとんど考慮されず、世間一般の人々が自身の感動を肥え育てるための「エサ」に成り下がってしまっている。エサというのは私の独断的な言い方だが、それでは直接的過ぎるので、より現実的な言い方として著者が採用しているのが「感動ポルノ(Inspiration porn)」だ。
ここで少し、話を私の日常にそらす。私には全盲で普段は白い杖をもって歩く方が知り合いにいる。駅で待ち合わせをした場合、その方は時間に余裕をもって行動するので、その方が歩いているところを後ろから来た私が気づくということが多い。白杖で歩く人は(特に行き慣れない場所の場合は)壁や柱に当たったりして、前に進むのがつらそうになっているのを離れた箇所から見つけるということが多い。なのに、道行くほとんどの人はその方に声をかけようとはしない。なぜなのか?日本人はそんなに障害者に冷たいのかなどといろいろ考えたが、ある考えに行き着き、たまらなくなった。つまり多くの人は、全盲の人に『自分の力で』『努力して』歩くことを求めているのだ。極言すれば、足とかには別に障害がなく、白杖を持っているのだから、歩くことくらい自分で克服してみろよ、そのために点字ブロックがあるのだろ、と世間の人は(無意識に)思っているということだ。
世間に対してそう言うと全力で否定されるだろう。しかし障害者に感動を期待することの裏返しとして、現実として過剰かつ不必要な障害者自身への自己達成要求に結びついているというのを、世間はそろそろ気づいた方がいい。だからこそ、本来は公正な社会の姿を映す鏡ともなりうるメディアが、その役割を忘れたかのように、障害者は障害があるゆえにその克服を目指して頑張ってこそ意義ある生き方だという誤ったビジョンばかりを再生産し続け、受け手の方もそればかりを求める現状に、著者は一石を投じているのだ。
先に私は「無意識に」と書いたが、それを世間一般に広くわかってもらうことは極めて難しいのはわかる。だから著者も、学生に対して「『感動ポルノ』って知ってる?」と聞いたとき、ドヤ顔で「24時間テレビのことでしょ」と答えられた際の何とも言えないきまりの悪さについて、冒頭で紹介したのだ。つまり、障害者を見えざるもので絡めとって「障害」たらしめる主因は、何がどうだから感動ポルノなのかを個々に検証することを省略し、レッテル貼りで思考停止に陥っていることそのものだ。
私が全盲の方と知り合いになってわかったことだが、要するに障害者は「隣人」なのだ。だから隣人が頑張って何かを成し遂げれば賞賛するし、一方で障害以外はしょせん自分と変わらない隣人だとわかっているから、押し付け的なものは求めない(そもそも自分がされたら嫌なことは相手にもしない)。必要ならば手を貸すけれど、こちらからあれこれ世話を焼くおせっかいはしない。さらに言ってしまえば、障害者でもスケベな奴はいるし、頭の回転が並じゃない人もいる。その一方で障害者でも感じ悪い奴はいるから、そんなのは相手にしない…
そのように、障害者について考える時、キーワードを「隣人」とすることだけで「障害者に頑張る姿を期待する」とか「感動を求める」とか「コマーシャリズム」という言葉からは大きく離れ、カッコ書きの抽象概念でしかなかった「障害者」がぐっと自分に身近な存在になる。とにかく障害者を上にも下にも置かず、横に置けということだ。