たとえばコンビニでもいいし銀行でもいい。窓口にものすごい数の人が並んでいる場面を想像してほしい。みんながジリジリしながら少しずつ自分の番が前に行くのを待っているところへ、「私は公益の面から見ても十分な理由で急がなければならない。だから一番前に行かせてもらう」と叫んで最前列に割り込む人物がいたらどう思うだろう?列に並んでいる人はもちろん、傍から見ている人も「それは『列の順番は誰であっても同じように守るべき』というルールに反する。許す理由にもならない」と思うだろう。
だがここでもう少し仮定条件を限定してみよう。割り込み者が自分が割り込む理由を「国家の安全保障にかかわる極めて重要なことだ。だから納得してくれるだろ?」と言えば、みんなは「大事な用事らしいから、しょうがない」と考えるのだろうか? それとも「面倒に巻き込まれたくない」と目を伏せるのだろうか?
さらにもう1つ仮定を積み上げたい。もし最前列に割り込まれたとして、列に並んでいたあなたが「ちょっと、順番を守らないのはルール違反じゃないの?」と異議を割り込み者に唱えたとき、列にいた他の人たちが「そんなに目くじらを立てなくても」とか「たいしたことじゃないだろ、許してやれよ」とあなたを睨み、あなたが孤立したらどうだろう?悪いのはあなたなのだろうか?
著者の青井未帆さんは、私の勝手なたとえ話に強引に当てはめようとするのなら、列に割り込んだ人をルール違反者として許さずに声を上げ、たとえ周りから非難(これを同調圧力と言い換えてもいい)を受けようとも、自分の主張というか、言い切ってしまえば「正義」を絶対に曲げない人だ。
それは自我を押し通すというのとは違うと断っておきたい。青井さんは歴史的経緯を踏まえて先人が築き上げたルールに例外を与えることが、1匹の蟻が土手に穴を開けたことで堤防全体の決壊がもたらされるように、近代社会が大切に守り続け、いまの私たちの平和な生活の土台となっている「規範」に亀裂が入り、なおかつそれは一種の不可逆性を持つため一度崩れれば元に戻すのが困難なことを学術的に理解しているからだ。
青井さんは、日本国憲法を取り巻く状況に(この本が書かれた2016年の時点でも)かなりの危機感を持っている。この本では「憲法改正」も当然論じられているが、青井さんがより警戒するのは、憲法を改正せずに憲法改正にほぼ近い状況を政治が創出しているという現実だ。それは立憲主義を根底から覆すものとして、憲法をライフワークとして学んできた青井さんにとっては看過できないのだろう。
強引という批判を承知でたとえ話を書くが、かつて柔道の国際大会で「欧州勢が現行ルールでは日本に勝てないから、ルール自体を変えた」と言われていたのを思い出した。日本選手が努力とスポーツマンシップによって築いた柔道の本義を、小手先の勝利を得るのに目がくらんだ者たちが多数決を武器に変化させてしまったという点で同じだと思う。多くの日本人は理不尽だとして批判していたと記憶しているが、このときの屈辱を忘れ、今の日本で欧州柔道界と同様の手口で私たちの日常の根幹にかかわる重大事に変化がもたらされようとしているのなら、日本人として警鐘を鳴らすのは当然ではないだろうか。
青井さんはこの本で、およそ学者の新書らしくない「限界に達している」という章立てや、「あきらめない」という小見出しを付けている。青井さんはもう学術的なものの言い方では通じなくなっていると思うくらい危機感を持っているのか、と私は考えた。一方で青井さんはこの本で「立憲主義」や「個人の自由」という絶対的な価値観がなぜ土俵際に追いつめられるのかに関しても、感情が前面に出るのをあえて押さえ、自分なりに冷静に記述している。その一貫したスタンスは時勢に安直に流されないという意味で読んでいて心地いい。究極のところ、青井さんは今の日本に、80数年前の日本と同じような“足音”を、その感受性高い耳で聞き取り、私たちにそれを伝えようとしていると私は理解した。