<ポイント>
・アウシュビッツに行ったのも、リストラ候補リストに名前が載るのも、あらかじめ定められていたことであり、全ては偶然ではなく必然。必然だから、おかれた自分の状況を問うことはやめて、今ここからどんな人生を創っていくか、それを優先的に考える。『なぜ今こうなのか』ではなく、『では今からどうするか』に焦点を合わせていく。「WHY」から「HOW」へ、「NOW」から「FROM NOW」への転換である。
・アウシュビッツから出る自由はない。リストラ候補リストから外してもらう自由はない。生きている限り常に様々な制約があり、その制約の中を生き抜かねばならない。制約からの自由は約束されていない。しかし、その制約の中でどんな態度を取るのか、その自由は約束されている。たとえ死の直前であっても、”態度選択の自由”は保証されている。悪魔になるか天使になるかは、最後の最後、自分自身の意志であり選択である。
・彼の死は無駄だったのか、そんなことは決してない。彼のとった態度は、生においてなしうる比類なき業績である。つまり、人間の業績である。会社での業績じゃない、評価ではない、社員としての業績ではなく、一人の人間としての業績である。人間の業績とは、何も人事評価でAを取ったり、会社で重役になったりと、そんな形あるものだけではない。自分の置かれた状況でどんな態度がとるのか、その態度そのものが意味を成し人生での業績になる。
→人間がどれだけ人生に絶望しても、人生は決して人間に絶望しない。人生を投げ出すのはいつでも人間側である。人生は人を投げ出したりはしない。
・すべての人の人生に意味があること。どんなにつらい時でも人生は意味で満たせること。「創造価値」「体験価値」「態度価値」があること。人生に意味があるのか無いのかと問うことはない。人間は人生から問われている存在であり、その問いに無我夢中になってこたえていけばいい。自分のことばかり考えない、振り返らない。反省はほどほどに。自分を超えた存在からの声に耳を澄ます。「人生に何を期待できるか」ではなく、「人生から何を期待されているのか」を考える。未来で待っている人がいる。未来で待っている何かがある。その人やその何かのために今できることが必ずある。人間がどれだけ人生に絶望しても、決して人生は人間に絶望したい。この世界は意味で満ち溢れている、くだらなくて愛おしい世界である。だから、どんな時でも人生にイエスと言おう。「セイ・イエス」
<ピックアップ>
〇「ロゴセラピー」は、ユーモアを推奨する心理技法。笑うことで見えてくることがある。
〇「巨人の肩の上に立っている小人は巨人自身より最も遠くを見ることができる」というメタファーを使って表現する。巨人はフロイト、アドラーのことであり、小人はフランクルである。「小さな変なおじさん」
〇どんな時にも人生には意味がある。
〇いつも人生は意味に満ちている。
〇あなたが人生の意味を問うことはない。人生があなたに意味を問うているんだ。
〇「あなたは、この宇宙で唯一の存在。そのかけがえのなさは、あなたのとうとう差を証明している。よって、生きてきた過去もまた尊く価値がある。過去があるんだから、過去は心の資産と呼べるものである。
〇過去が今につながり、今は未来へつながる。過去から居間へ、そして未来へと光が差し込み、あなたが歩む人生を照らしている。
〇砂時計→上の砂が未来で、このくびれているところを通過する砂が現在で、下にたまっている砂が過去ということにいなる。過去とはあなたがコツコツと溜めてきた豊かな収穫物である。とても幸せとは言えない辛い日々が多かったとしても、この不条理な生活を今まで生きてきたんだ。それはすごいことである。砂時計の空っぽになったところを見て、過去なんて意味がないと嘆く人間は、収穫できたものに目を向けず、刈り取って何もなくなった畑を見ては嘆いている愚か者みたいなものだ。何かが失われるときには、何かが満たされている。人間は失ったことに気をとられると、満たされてきたものに気づけない。
〇もし今が満たされてきているなら、今のむなしさはないが、むなしさがあるとすれば、過去を再評価する必要がある。例えば、生まれた瞬間、これはとても特別で価値がある。再評価が必要である。過去にも価値がある。資産である。人間は1度にひとつのことしか考えられない。まして、嫌なことが重なって憂鬱になると、思考の幅が狭まって、そのイヤなことを繰り返し繰り返し考えてしまう。今ある嫌なことばかり考えていたら、自分を嫌になるし、人生、嫌になる。むなしくて人生に意味を感じられなくなる。だから、嫌なことの堂々巡りにストップをかける。そのためには、いまをひょうかするより、まずかこをさいひょうかし、自分の価値を思い出す。あなたのすごしてきた人生は、決してスカスカではない。無意味ではない。ぎっしりと大切なものが詰まっている。自分の生まれた瞬間が特別に感じられるように、これまでの人生も意味があったって思える。そう過去を評価し、自分の価値を再発見できれば、今ある虚しさは少しでも和らいでくる。
〇過去を否定する人=あなたを支えてくれた人たちを否定することになる。他人と比べることなく、自分なりの基準でいいからさ、キラキラしてた頃のことを思い出し再評価してみる。すると、今を、これからの未来をイキイキと生きる力がわいてくる。
〇過去を愛せる人は、未来から愛される。
〇これまでの人生で輝いていたなと思う頃の写真をカバンに入れる。そしてときどき、眺める。
〇自分の生きてきた過去が資産である。
〇「トラウマない人なんていない。」誰だって大なり小なり心に傷を負って、生きている。心に受けた傷が悪さすることは確かにある。それは否定しないことである。しかし、人が生きて日々行動する、その理由の全てを心の傷とかトラウマとか、そうした心の世界で働く仕組みだけで説明できない。父親への仕返しだとか、劣等コンプレックスを解消することが真の目的だとか、そういった分析も結構だけれども、人間って、内側の世界だけでなく、もっと外の世界からの働きかけがあって生きている。
〇傷ができる。かさぶたになる。傷を治すためにかさぶたができる。はがしたら、血が出る。誰だって心に傷を負った経験はある。時は薬なり、「時薬」である。傷が深いと、かさぶたの期間はながくなる。だから大人になっても残る。もし無理やり心に残るかさぶたを必要もないのに、無理やりにはがしたら、それは過剰解釈である。かさぶたのままにしておけば、悪さをしないのに、下手に手を付けるから心の傷が疼きだす。うまくいかないことを何でもかんでもトラウマのせいにしすぎである。私の不運はトラウマのせいだ、過去が悪いんだ、だからトラウマを何とかしないといけないと思うことが、よくない。
〇自分を中心にしてこの世界を考える。もちろん、自己分析して自分のことを知り、なりたいじぶにゃ理想の自分を思い出して、それに近づこうと努力することはいいこと。自分を知ることは、ものすごく大切である。古今東西、優れたリーダーほど自己理解能力が高い。己を深く知るものは他人を理解できるから、他人を理解できればより的確に人心掌握できるからである。
〇自分の理想が自分のむなしさを生み出していると考えられる。理想の自分になれないからむなしいということは、理想の自分がなければ、むなしさはなくなる。理想通りになっても、夢をかなえても、どれだけ成功しても、いつかまた虚しさに囚われ苦しむ。夢が叶って成功したら、単純に幸せになれるって誰だって思うという考えが違う。自己の欲求を中心に描く夢にはきりがない。線路は続くよどこまでも、人間の欲も続くよどこまでも。もっと仕事ができて、もっと尊敬されて、もっと年収上げて、もっともっと。この際限のなさが”悪無限性”という。際限なき欲の追求はいつまでも満たされることがなく、必ずいつかどこかで破綻する。だから、むなしさは成功者にも襲いかかる。
〇人生には意味があり生きる価値がある。
〇十字を書く、縦軸の上が『意味』で、意味が実現されるということである。下が『絶望』で、横軸の右が『成功』で、左が『失敗』ということ。成功しても絶望があり、失敗しても意味がある。成功したらハッピー、失敗したらアンハッピーという成功と失敗の結果に依存しる人生観、横軸だけで生きている。自分の夢とか理想の自分にこだわり、それが成功しているか失敗しているかで自分の人生を評価する。いわば自己実現欲求のモンスターである。夢に向かって生きることは素敵な生き方。自己実現欲求は必要で大事である。しかし、横軸、つまり成功と失敗だけでの人生だと挫折しやすい。
〇仕事はぼちぼちでも、とても成功しているとはいえなくても、人生に意味を感じて笑顔で生きていけたらめっちゃハッピーである。人は、「生きる意味」を求める強い欲求がある。これを意味への意志という。世界は意味に満ち溢れているのだから、どんな辛い状況にあっても、人はその意味で自分を満たすことができる。意味は自分の力で発見するものである。
〇自分が実現しようとしていることに焦点があっていて、いつでも出発点が自分。自分の欲求を満たされることを意味があるとするのではなく、人生からの求めを満たすことに意味を見出す。つまり、人生に意味があるかないかと問うことはない。なぜなら、人生が人間に意味を問うているからである。人とは問われ、その問いに答える存在である。意味を問うものから、問いに答えていくものになる。人生はいつでもあなたに問いかけている。色々と悩ましい出来事をあなたに差出し、どうしますか?と。その問いにひたすら答えていけば、人生の意味はきっと発見されるし、生きる意味を実現できる。
〇どんなに今郵つでも、未来にはまっている人がいて、すべきことが必ずある。
〇どんなときにも、できることがある。未来で待っている誰のために何かのために、今できることが必ずある。それはつまり、いつでもこの世界は意味に満ち溢れていて、どんな人のどんな人生にも意味があるということである。
〇問いかけは、現実の出来事によってなされる。例えば、今日、店長失格といわれた。それが人生からの問いかけ。その問いかけに対し、場合によっては、「何も言い返さない」という答えを人生に差し出す。上司に対して、言い返せないと考えると、自己正当化してします。言い返せないのではなく言い返さないだけである。人には意志がある。人生の問いにどう答えるかを選び取る意志がある。言い返すという選択肢もあったが、それは自分の意志で選び取らなかっただけ。
〇宿命(自由にならない生まれ持って人に宿る条件)は人は変えられない。しかし、宿命を引き受けることで、運命を変えることはできる。運命とは、命を運ぶことである、つまり自らの命を運んでいくか、つまり、生まれてからどう人生を創っていくのか、そこに自由がある。
〇辛いときに大事なのは、幸運の引き寄せでなく、宿命の引き受けである。変えられないことはそのまま引き受ける。そして変えられることに集中し全力を尽くす。それが結果的に、幸運を運んでくる。自分の宿命を恨むのではなく、引き受けた宿命から何を、どんな人生を作り出すかを考える。過去の事実は変えられないけれども、今と未来を変えれば、過去の意味は変えられるということ。
〇人生は毎日あなたに問うている。そしてあなたはその問いに具体的な行動で答えていきながら、価値あるものを創造し、人生を意味で満たしていく。
〇人が人生の意味を問うことはない、人は人生から問われている存在であるから。
〇「創造価値」→仕事を通じてだれかの役に立てたら、それはこの世界に価値あるものを創造したことになる。創造価値を世界に差し出すことで、人は人生を意味で満たし、むなしさを遠ざけていくことができる。
例として、お母さんが困っていたとき、人生はあなたに問いかけた。さあ、どうするって。あなたはその問いから逃げずに責任をもって答えた。そしてそのお母さんの幸せをこの世界に創造した。これはとても価値あることで、意味があることである。
〇パティエンス(「忍耐力」「我慢強さ」「根気」を意味する言葉です。ストレスや困難な状況でも落ち着きを保ち、焦らずに物事に取り組む力や態度)
〇働く意味や端亜紀買いを感じるには想像力が必要である。せいか、その先で起きていることに思いを馳せないから、働き甲斐を感じられない。働くことは、誰かを幸せにする物語を紡ぐこと。
〇働きがいを日々感じるには、誰かの役に立とうとする、それだけである。それだけの境地で働くことである。
〇仕事をして得られる働きがい感、やってやった感は、誰かの役に立ち、その結果として生まれてくる副産物である。”ただ、それだけの境地”、それこそ今日、あなたが例でいう、お母さんのために必死ににあり、上司に歯向かい無我夢中で街を走ったような、そうした自分中心ではなく、自分を忘れて誰かや何かのために尽くす、これを自己超越という。自己超越しているときにこそ、本当の意味での働きがいが生まれ、働く意味があなたの人生で満ちる。自己超越、自分を忘れて誰かのために無我夢中になっているとき、”ただそれだけの境地”で仕事に取り組む時、その時、人は自己を超越する。自己超越していると、自分はなんてこんなものですって、そう自虐的に想定する自分を超えて力を出すことができる。
〇人生に失敗はつきもの。失敗のたびに、むなしさを感じていたら心から生きるエネルギーが枯渇してしまう。達成感を前提として自分のモチベーションを維持していたら、常に成功し続けなくてはいけなくなる。そんなことは無理である。成功者と言われる人の本質は、成功を続けたことでなく、失敗に意味を見出し、逆境に負けなかったことである。試行錯誤の回数が誰よりも多く、それゆえ、失敗も挫折も多い。けれども、その失敗や挫折に意味があると信じて行動することをやめなかった。だから成功者と言われる。
〇成功の本質は、意味ある人生。社会的に地位があり、お金もある人たちが人生に意味を感じられず苦悩する。挙句の果てには命を絶つ。
〇働くときには、2つのモチベーションがある。ひとつは達成感。もう一つは意味感。意味感は、成功したらもちろんだけれども、失敗しても感じられる。失敗しても意味がある。そう思えば、心を折らすことなく働ける。逆境にも強くなれる。この意味を求める心の動きを、意味への意志という。意味への意志は働くときだけでなく、人生全般に言える。
〇使命圏とは、自分が果たすべき使命のある今・ここ、この瞬間の場のこと。目の前にある仕事にベストを尽くすことができなければ使命圏での意味は満ちることなく、心はスカスカになってむなしい人生になる。もちろん、命の危険を感じるような完全ブラック企業に、使命圏はない。辞めたら自分は弱い人間など、そんなことは関係ない。会社を辞める時は、いい人をやめる。会社にも仕事にもあうあわないがある。縁がなかったと思えばいい。同館げたって命の方があぢ時。生きていれば、生きてさえいれば必ずいいことでがある。自分の命、自分の人生を大切にする。
〇大切なことは、どれだけ大きな仕事をしているかではなく、どれだけ目の前の仕事にベストを尽くしているか、”ただ、それだけの境地”となって、どれだけ無我夢中になっている課である。「セイ・イエス」
〇使命とは、好き嫌いで決まるものではなく、責任をもって果たすべき重大な任務である。嫌いな仕事でも使命になりうる。使命を好き嫌いで判断するとしたら、その発想が自己中心の発想ということになる。そこで、人生からの問いかけという発想がポイント。今している仕事が人生からのオーダーだと考えてみる。
〇大切なことは、どれだけ大きな仕事をしているかではない。どれだけ目の前の仕事にベストを尽くしているかである。
〇体験価値→自然に心を打たれたとき。愛する人と一緒にいる時。子供を授かったときなどなど。感動している。体験価値は、つまり「愛」である。
〇愛という支えがあるこの世界を信頼しているか→イエスという。
〇人生、投げたものが返ってくる。憎しみを向けたら憎しみが変えてくる。怒りを向けたら怒りが返ってくる。世界を信頼しないから、世界から信頼されない。だから、あなたの人生はうまくいかない。
〇信頼できる人を増やす。信頼できる人と出来ない人を紙に書く。
〇信頼できるようになるカギは、体験価値である。創造価値が世界に差し出す価値であれば、体験価値はこの世界から受け取る価値である。
〇地球は真善美に満ちている。
〇自己超越する瞬間=無我夢中=無我夢中の最初の2文字は、「我が無い」ということ=無我の境地である。『自分が、自分が』になると、無我の境地にならず、ボクの境地になる。『自分が、自分が』は世界観、人生観が自己を中心にして構成されているということである。世界を信頼できていない人間が自分を守っている状態をえがいたら、防衛の姿勢を取る人が中心にいて、周りは敵だらけみたいになる。それが自己を中心にすえる”ボクのコト”を考えすぎる。
〇真善美に向かう(自然や音楽を勤しむなど)、無になる、我を忘れる、自己超越の度合いが高くなればなるほど、自分を忘れれば忘れるほど、それに応じてより質の高い価値を世界から受け取ることになる。それが生きていてよかった体験と言える。すると人生はますます意味に満ち、生きがいを感じられ、むなしさは消え、そして世界を信頼できるようになる。
〇ひとつひとつ小さいことでも、生きててよかった体験を積み重ねていく。この世界から真善美を受け取っていく。いかれぽんちな上司もいるし、つっかかってくる部下もいるが、この世界ってそんな捨てたもんじゃないって、めちゃめちゃ素晴らしいとは言わないまでも、そこそこイケてる生きるに値する世界ではないかと信頼できるようになる。
〇自分のことばかり考えて自分を閉じて逃げていては、生きててよかった体験に巡り合う可能性が低くなる。でも、世界に向かって自分を開き、様々な体験をしていくと、傷つくこともあるが、生きていてよかった体験もする。そうして、世界への信頼感が育まれていく。こうした世界への信頼感を標準装備できれば、心はしなやかで、ちょっとやそっとじゃ心の折れない人になる。
〇罰するのではなく、この世界に許しを与える。kの世界を許すことは、罰し続けてきた自分を許すことである。罰するのはもうやめて和解する。自分を許し自分を和解すれば、自分を信頼できるようになる。自分を信頼できるようになれば、他人を信頼できるようになる。自分と和解し、他人と和解する。それはこの世界と和解すること。これが体験価値による信頼回復のプロセスである。
〇会社員として評価される自分ではなく、人間としての自分は、ひとりの人間としてはどうか。あれこれ証拠をあげて自分のダメさ加減を叫ぶ。その一方で、他人からいい評価をもらいたがっている。もっと大切にされたいと思っている。そうされて当たり前だと思っている。この状態は、車に乗ってアクセル踏みながらブレーキを踏んで、「なんで車が進まないんだ、この車は悪い、この車を作った人間が悪い、この車の会社が悪い、車のある社会が悪い」と叫んでいる。自分自身に対し、理不尽な要求をするモンスタークレーマーになっている。
〇会社での評価はあくまで社員としての評価である。あなたという人間すべてが評価されているわけではない。しかもその時点での評価に過ぎない。一年、半という時間を切り取った、期間限定の評価である。会社人評価とひとりの人間評価は分けて考えたほうがいい。
〇人生は仕事だけじゃない。仕事は人生の大きな部分を占める。しかし、全てではない。創造価値を生み出すことができなくても、世界から体験価値を受け取ることができれば、意味ある人生になる。何らかの理由により働くことがままならない人、リストラされ職を探している人、こうした人々の人生に意味は満ちていないのかと言えば、答えはノーである。
〇体験価値という考え、「愛」が大事だということである。たとえ、仕事で評価されなくても、誰かがそばにいてくれるだけでも、人生に意味が満ちてくる。
〇創造価値を奪われ、体験価値を損なわれ、何も価値を生み出せない。そんな生きがいを徹底的に奪われた最悪の状況であっても、自分たちは自分たちの価値を見出す、その価値を態度価値と呼ぶ。アウシュビッツの中で、多くのものが自分のことだけを考え、仲間のスープを奪ったり衣服を盗んだりして魔に落ちる人がいる。悲しく恐ろしい目をそむけたくなる現実がある。その一方、身体の弱った者に自らスープを分け与えたり、極寒の日に熱を出して苦しむ仲間に自らの毛布を掛けたりするものがいる。こうした態度を持つ人は決して少なくなかった。
〇態度価値とは、宿命を自ら引き受け、人間がとる態度によって実現される価値のことを言う。宿命は変えられないけれども、運命は変えられる。アウシュビッツに収容されたのは宿命だった。この事実を引き受けるとは、これも宿命だと諦めること。”あきらめの境地”。あきらめるとは、自分の人生や運命を、仕方ないと投げ出すのではない。「諦める」ではない。「明らめる」のほうである。「明らめる」とは自分の置かれている状況を明らかにしてはっきりと見定めることである。決して避けられない『宿命』だとその事態を引き受け、生まれる前からこうなることは決まっていたんだと覚悟を決める。これが、”明らめの境地”である。
〇”明らめの境地”になれば、今、ここに置かれた自分の状況について問いを発しなくなる。どうしてこうなんだと。何か避けられる方法があったんじゃないかと。なぜ僕だけが。そんな自分に不毛な問いが消えていく。
〇アウシュビッツに行ったのも、リストラ候補リストに名前が載るのも、あらかじめ定められていたことであり、全ては偶然ではなく必然。必然だから、おかれた自分の状況を問うことはやめて、今ここからどんな人生を創っていくか、それを優先的に考える。『なぜ今こうなのか』ではなく、『では今からどうするか』に焦点を合わせていく。「WHY」から「HOW」へ、「NOW」から「FROM NOW」への転換である。
〇なぜアウシュビッツに入れられたのか、問い続ける。なぜ、なぜ、こんなことに。どうして自分がこんな目に合うのか。そう自分にベクトルを向けて、今を問いただす質問に囚われると、問いが刃となり生きる力を奪っていく。最初は小さくて軽かったむなしさが、ますます大きく重くなっていく。自分に向けて問いを発することは、明らかに逆効果になる。なぜなら、答えなどないからである。確かに、アウシュビッツ、ヒトラーがいなければ、こうした惨劇は起きなかった。こうした答えは存在する。この答えは論理的に正しい。そうした答えがどれだけ論理的に正しくても、いやむしろ論理的に正しければ正しいほど、生きる気力はますます失われていく。正しさは時に、悲しいまでに人を傷つける。
〇アウシュビッツで、まさに死が近づいている人が、「いざというときのため、みんなで分けてほしい。みんなで食べてくれ、みんなありがとう」と死の直前にあって、自分のことではなく、仲間のことを想う。これは衝撃であった。
→意味はこの世界に満ち溢れている。いついかなる時でも、どんな状況にあっても生きる意味はある。生きる意味があるかないかと問う必要はない。我々は問われている。その問いかけにひたすら答えていけばいい。答えていけば生きる意味は発見され、生は必ず意味で満たされる。だから、どんな時でも我が生にイエスと言おう。
→「セイ・イエス」
〇あまりにも酷い(むごい)運命からの問いかけがある。しかし、どれだけつらい状況になっても、その状況にたいしてとる態度によってイエスと肯定できるような価値を生み出せる。それを「態度価値」と名付ける。
〇アウシュビッツから出る自由はない。リストラ候補リストから外してもらう自由はない。生きている限り常に様々な制約があり、その制約の中を生き抜かねばならない。制約からの自由は約束されていない。しかし、その制約の中でどんな態度を取るのか、その自由は約束されている。たとえ死の直前であっても、”態度選択の自由”は保証されている。悪魔になるか天使になるかは、最後の最後、自分自身の意志であり選択である。
〇アウシュビッツの仕事はそもそも意味がないため、創造価値を世界に差し出せない。やがてベットから起き上がれず、仲間との会話も困難となり、体験価値の質も劣化していき、人生から受け取るものは何もない。だとしたら、息を引き取ったほうがいいのではないか。彼は最悪の制約を超越し、死に直前に選択した自身の態度、仲間を想い感謝するという、その高潔な態度によって、自らの生をより意味深いものにした。仲間に食べ物の場所を教え、仲間に生きる勇気を与えた。
〇彼の死は無駄だったのか、そんなことは決してない。彼のとった態度は、生においてなしうる比類なき業績である。つまり、人間の業績である。会社での業績じゃない、評価ではない、社員としての業績ではなく、一人の人間としての業績である。人間の業績とは、何も人事評価でAを取ったり、会社で重役になったりと、そんな形あるものだけではない。自分の置かれた状況でどんな態度がとるのか、その態度そのものが意味を成し人生での業績になる。
→人間がどれだけ人生に絶望しても、人生は決して人間に絶望しない。人生を投げ出すのはいつでも人間側である。人生は人を投げ出したりはしない。
〇今はダメでも、この先に何かいいことがあるって思っていること。自らの人生に希望を見失わず楽観的であること。つまり、発見的楽観主義であること。人生には、不運はつきもの。リストラ候補リストに掲載されていることは、確かにきつい。きついけれども、そのきついことにも意味がある、決して無駄にはならない。そう思えば、何とかなる。自分を中心にして人生を眺めれば、リストラ=失敗=絶望である。思考が短絡的、悲観的になる。しかし、楽観的になり、広い視野で人生を眺めれば、自分の存在を未来で待っている人がいる、何かすべきことがきっとある、そんな風に、時間的にも空間的にも子悪露の視野を拡大させて、もっと人生に可能性を感じながら生きる。発見的楽天主義は、”世界を信頼する”という話時通じ、逆境にあってもへこたれねぇ人って、『人生何とかなるよ』ってよく言う。
〇人生の側になって、人生は今の自分に何を期待しているだろうと問いかけてみる。
〇人生からの問いかけに耳を澄ませ。人生が期待していることを実行せよ。そうすれば、人生に意味は満ちる。
〇逆境という海に溺れたら、すぐに浮き上がろうとせず、そこまで潜って、底を足で蹴って浮き上がれ、そうすればうまくいく。ここでいう底に僕の足がついたということ。溺れる溺れるってパニックになっていたら、誰かに「立てるよ」と言われたて、足を付けたら、浅瀬だったと。一人でもがいていたのがバカみたい。本当に笑える話である。笑えるということは自分が自分に適度な距離を取れるようになった証である。
〇自分のことを考える時間が長くなればなるほど、自分が自分でいっぱいいっぱいになり笑いも出てこなくなる。割ること、さらに自分をも笑えること。それは心に余裕があること。笑うことは大事である。アウシュビッツでも笑いはあった。くだらない自分の失敗談を仲間に披露して、自分で自分を笑い者にする。そうすると、心にゆとりがある。自分自身を空から眺めるような不思議な感覚が訪れたんだ。
〇世界はいつでもくだらなくていつでも愛おしい。
〇自分を笑い者にするって、自分を捨てること。つまり、自分に囚われず、自分を忘れて誰かのために必死になるということ。誰かの思い、何かのために、心は外の世界へ開かれる。これは、”ボクの境地”とは正反対の境地。そう言った自己を超えている心の状態。自己超越。
〇自己を省みる、反省は大事であるが、反省しすぎると、過度の自己観察になり、自己に囚われてうまくいかなくなる。反省して自分を見つめすぎると、自己執着となって、自己超越から遠ざかってしまう。完璧主義なところがあるから、反省が逆効果になる。自分の思い描く理想と現実にギャップがあると、すぐに否定的な感情がわく。怒り妬み嫉み悲しみ嘆き虚しさなどがわく。よって、反省はほどほどにし、反省しない方が元気になれる。これを反省除去という。
〇創造価値、体験価値、そして態度価値を知り、人生から期待され散ることが何かを考える。人生から期待されていることに思いを巡らせること自体が、世界に開かれた意識であり、そこに自己超越の大いなる可能性が秘められている。
〇仕事の本質とは、その時そのアで与えられるすべき事に自分を捧げ仕えることである。
〇過去を許す。自分を許す。
〇人間がどれだけ人生に絶望しても、人生は決して人間に絶望しない。どんなときにも、どんな人生にも意味がある。大丈夫。今からこれからの人生が大事。どんな時でも人生にイエスと言おう。
〇どんな人の人生にも意味はある。どんな時でも人生にイエスと言おう。
〇すべてのことに意味がある。今これからを変えれば、過去さえ変えられる。
〇この世界のどこかに見てくれている人がいる。待っている人がいる。だから今、できることが必ずある。そのできることを無我夢中でやっていけば、人生は意味で満たされる。どんな出来事にも、どんなときにも、人生に意味がある。
〇悩んで苦しみ、苦しみ悩む。苦悩に対得て、そしてつかみ取る教訓が最高の知恵。ホモ・パティエンスとは、人間は苦悩し耐える存在。
〇苦悩に耐えれば耐えた分、それは人間の業績となる。苦しみことを意味あることだととらえる。意味豊かに悩み苦しみぬくことが大切であり、悩むこと自体が尊い人間の業績と考える。そうすると、悩んでいるときでも、今の苦しみにも意味があると思えば少しは楽になる。これが生きる知恵である。
〇唯一性と一回性。人はこの世界にたった一人しかいない尊い存在。一回性は人生がたったの1度しかない。よって、人生を生き抜くことは人生の使命。
〇(人間の唯一性)×(人生の一回性)=生きる意味→使命→責任 使命だから責任がある。
〇自由とは、生きることを前提として、自分の人生において、どんな態度を取るのか、その”態度選択の自由”があるということである。責任は、人生を全うすること、どんなにつらい状況にあっても自ら命を投げ出さないこと、つまり人生を生き抜く責任があるということである。人生を生き抜くことには責任があり、その責任の範囲内でどのような態度を取るのか、そこに自由がある。
〇苦悩する人とは、日本大乗みたいに選ばれた人。深く悩み苦しんだことにも意味が感じられる。選ばれた人だから苦悩に向き合う乗り越える責任がある。そこでつかみとった「生きた知恵」を後世に伝えていく責任がある。
〇悩んで手にした知恵があるからと、誰かと比べて自分が人間としてワンランク上田みたいな鼻もちならない考えを持たない。知恵の習得は時に人を傲慢にする。
〇悟りを開く前と後で、生活は何ら変わらないということである。普通を認める。平凡は奇跡である。普通でもよいと認めあえる世界である。
〇悟りを得ようと悟りに囚われていると、むしろ悟りから遠ざかっていく。高尚な知恵に頼っていては、悟りはおぼつかない。悟った人は、何ものにも囚われず、普通でいられる。普通であること、普通の生活を最も尊いこととして受け入れる。特別な人間になろうとするな。賢らに高邁な知識を振りかざすな。そうするば、人生を謳歌できる。あなたは向上心があり深く考える癖がある。素晴らしいことである。そのため、特別な存在になろうとしている。さらに問題なのは、特別に存在にならなければ人生は失敗だと考えていることである。その思考パターンがあなたの人生を息苦しくしていく。なぜか。特別な存在になろうと知るのは、自分の欲を中心とした自己実現欲求だからである。大切なことは、どんな時でも、たとえ逆境に放り込まれても心折れることなく人生を送る、そのための生きる知恵がこの本である。
〇本当に自己実現した人たちに共通する性格は、自分の問題に関心が集中するのではなく、自分の外、つまり他人や会社や社会にある課題に没頭し自分自身を忘れるという性格的傾向である。つまり、自己中心ではなく、問題中心、課題中心に生きているということである。
〇仕事の完成より人間の感性である。誰かと比べて上か下かではなく、もし、自分のもつ『最善の自己』を実現できたら、それが宇宙一、世界一。最善の自己を形作るポイントが、自分中心にならないこと。他人であったり、会社であったり社会であったり自然であったりこの世界であったり宇宙であったり、自己を超越した存在を中心にして物事を考え、我を忘れて行動していくこと。自分を忘れれば忘れるほど、最善の自己がじつげんされていく。これが自己形成の秘密である。
〇与えられた仕事が目の前にあるならば、それがどのようなものであっても、まず、一生懸命無我夢中でやってみる。いずれ、最善の自己が形創られる。
〇自己を超越とは、自分のためではなく、みんなのため。
〇大事なことは、あなたが無我夢中になれることである。
〇すべての人の人生に意味があること。どんなにつらい時でも人生は意味で満たせること。「創造価値」「体験価値」「態度価値」があること。人生に意味があるのか無いのかと問うことはない。人間は人生から問われている存在であり、その問いに無我夢中になってこたえていけばいい。自分のことばかり考えない、振り返らない。反省はほどほどに。自分を超えた存在からの声に耳を澄ます。「人生に何を期待できるか」ではなく、「人生から何を期待されているのか」を考える。未来で待っている人がいる。未来で待っている何かがある。その人やその何かのために今できることが必ずある。人間がどれだけ人生に絶望しても、決して人生は人間に絶望したい。この世界は意味で満ち溢れている、くだらなくて愛おしい世界である。だから、どんな時でも人生にイエスと言おう。「セイ・イエス」
〇みんなのために生きる。無我夢中になれ。我をなくせば夢は手中に。
〇ロゴセラピーは「ソクラテス的対話」「ソクラテス的産婆術」である。実存的な空虚感を抱えた人が、自己を内省し、生きる意味の発見に至るのを援助するのが、ロゴセラピーである。
〇「人生は、私に、今、何を全うすることをもとめているのだろう」「人生は、何を私に、問いかけてきているのだろう」「私は、どうすれば、私の人生に与えられている使命を全うすることができるだろうか」。このように「人生からの問い」という立脚点を立てることで、「自分の人生全体」というより大きな視点で、人生全体を俯瞰するような仕方で、モノを考えることができるようになっている。「自分の人生の全体」という少し離れたところから、今起きていることを眺めることができるようになってくる。すると、これまでとはまったく異なる視点から考えることができる。
〇私たちはまた、たとえばリストラ、大病などの苦しい出来事があったとき、「こんなことが次々と起こるのは、いったいどんないみがあるというのか」と自問することがあります。この問いは、ロゴセラピーの観点からすると、「自分(人間)から人生に」向けて発せられた問いである。ロゴセラピーは、このような時、その問いを発する立脚点そのものを変更するように提案している。つまり、「あなたの人生でこの時、このタイミングで、このような出来事が運ばれてきたのには、いったい、どのような意味があるのでしょうか。」「あなたの人生で、こういった出会いが次々と起きてくるのは、それを通じて、あなたは、どのようなことを人生から問われているのでしょうか。」このように、立脚点を「自分自身」から、「人生」「出来事」「人生の流れ」などに移します。そして、「人生」や出来事」の方から自分自身を見つめ、それらのことが自分にとって持つ「意味」を考えていく。
〇人生から問われていることということは、言葉を変えれば、「人生の使命」ということである。
〇フランクルのロゴセラピーは、「運命の中に自分の使命を見出す」ことで精神性を高めていく方法である。つまり、リストラ、大病という、人生で否応なく起きてくる出来事のつらなり=「運命」に直面することを通じて、その中に、「意味」を見出し、「人生からの問いかけ」(使命)を感知していくのを援助するものである。
〇自分の人生の意味と使命を見出した時、人間の精神は最も高く引き上げられる。そして何事にも耐えていくことのできる強さを発揮し始める。
〇意味が分かれば、たいていのことは耐えていけるものである。