荒井献の作品一覧
「荒井献」の「イエスとその時代」「ひろさちやが聞く新約聖書」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「荒井献」の「イエスとその時代」「ひろさちやが聞く新約聖書」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
イスカリオテのユダに関する語源から芸術まで、ユダづくしの一冊。キリスト教におけるユダの位置付けの原理的な難しさを感じる。ユダはイエスを引渡した者であるという意味では確かに悪人であるが、そのユダの罪悪なかりせば死をもってみせたイエスの十字架の贖いも、その後の復活もないわけで…。
時代が下るにつれて、ユダの評価が厳しくなるという事実はおもしろい。当初はユダの行為を含めて、イエスの辿った奇跡の一部とみていた可能性がある。後世の解釈次第でユダのポジションは大きく変わる。
でも、歴史の中のイエスはやはり正直に思ったのだろう。こいつ「生まれてこなければよかったのに」と。
Posted by ブクログ
新約聖書学者荒井献の代表作のひとつ。聖書批評学的見地から新約聖書を検証し、イエスとイエスが生きた時代を論じている。我が国新約聖書学者の重鎮の書だけあって、文体は高貴で揺るぎがないが、やや著者の主観により過ぎる感も否めない。まあ、これはこれで荒井ファンには面白く読めるのであろうと思ったが、一方では、福音派のクリスチャンなどは本書を読んでもあまり賛意は示さないであろうとも考えた。新約聖書の史料的意味や記述の信憑性はともあれ、イエスの視座が常に社会の底辺にいる弱者の立場にあったという指摘だけで、自分はイエスが神の子であるとの信念をさらに強めた。
あまり読みたがらないとは思うが、とりわけ福音派のクリスチャンは本書を読むべきと思う。
Posted by ブクログ
救世主イエスを裏切ったとされるイスカリオテのユダ、その原始キリスト教におけるイメージの変遷を解説した書。正典四福音書およびそれに続く諸文書(使徒教父文書・新約聖書外典)、および『ユダの福音書』におけるユダ像を考察、それぞれの資料がユダにいかなる意味を与えたか、それらから逆算される史実上のユダ(「歴史のユダ」)の姿を説く。
本書は、原始キリスト教の諸文献におけるユダの描かれ方を追い、その変容と実情を解説したものである。キリスト教における「裏切者」「背教者」の代名詞として有名なイスカリオテのユダではあるが、その描かれ方は正典四福音書内においても差異がある。著者は各文書におけるユダの描写を丹念に抽出し、それぞれの作者(ひいては、それらを聖典とした初期教会)がユダをどう捉えていたのかを考察している。また、本書の巻末には石原綱成氏による『ユダの図像学』を収録し、古代~中世の美術作品におけるユダ像の実態を紹介している。
著者は四福音書のユダ記述を突き合わせることによって、時代が下るにつれて(他の使徒たちが理想的に描写される一方)ユダが「悪魔視」されていく傾向にある点を指摘、逆に成立が最も早いと考えられている『マルコによる福音書』においては、復活後イエスと再会する"十二"使徒の内にユダが含まれている(=ユダの裏切りの罪はイエスを見捨てた他の使徒の罪同様許されている)可能性が示唆されていると主張する。各福音書におけるユダ描写の差に着目したこの主張はなるほどと思い、イメージの時代的な変遷という意味でも面白く感じられた。ただ他の論点については(資料が元々限られていることもあり)憶測を投げっぱなしにしている箇所がいささか目立ち、それらを踏まえた「歴史のユダ」の復元像についても根拠に乏しいのではないかと思うのが正直な点であった(特にユダのイエスに対する「愛憎関係」、裏切りに対するイエスの「(呪詛を伴うような)憎悪」など)。また著者は総論として「正統的教会は自らの罪をもユダに負わせ、彼をスケープゴートとして教会から追放した」としているが、この「自らの罪」というのもいささか唐突に出てきた論点のように感じられた(恐らくは使徒の内から背教者を出したという「負の遺産」のことを指しているのであろうが、だとしてもそれがそのまま「教会の罪」となるかと言われると疑問である)。
Posted by ブクログ
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に加え、トマス福音書、ピリポ福音書などの史料を比較対照させながら批判的に読み取り、「各福音書記者の編集作業と、編集の視座に見られる固有な思想」(p.15)を存分に考慮に入れた上で、イエスが宗教(=政治)にどのように関わってきたか、イエス自身の「視座」がどこにあるのかを推定したもの。
いくつかのポイントが明示されているが、どの点も新鮮で、興味深いものばかりだった。おれ自身が聖書を読んだことないので、元になる知識が不十分であるだけ、難しく感じられるところも少なからずあったが、それでも面白い。まず伝統主義・保守主義の「サドカイ派」と、律法の「合理化」を行い、「天使論や復活信仰を積極的に受けいれた」(p.34)「パリサイ派」について。パリサイ派の律法主義に陥る傾向が「前景で出てくるのは紀元後七〇年以後に、ユダヤ教正統派の位置についた以後のことであって、イエスの時代にこの傾向を読みとることについては慎重でなければならない」(p.35)という部分が新鮮だった。また、イエスがいわゆる「奇跡行為」を振る舞ったという事実がイエスの視座を示すものである、という部分(pp.80-1)。つまり、イエスの力そのものではなく、イエスが民衆の希求に即応するような「功利的」、「御利益宗教的」な振る舞いをしたことが、社会の最下層に所属していた価値理念に応える姿勢を見せていた、という主張が理解できた。ついついどんな奇跡をどうやって起こしたのだろう、と思ってしまうが、そういうことではない、ということが分かる。また、聖書の読解について述べた部分で、「譬話の本文は、私の解釈の対象としてのものから私に自己理解を迫るひとの性格を帯びて迫りくる。―これをより一般的に言えば、聖書の本文は、それが解釈主体の認識のあり方に変革を齎した時にこそ、解釈主体によって了解されたということになる」(pp.136-7)ということは、重要な問題であると思う。これが聖書の魅力の究極的な部分なのではないだろうか。ところで、「良きサマリア人」、「失われた一匹の羊」の話の解釈が、そんなに単純なものではないということが分かった。同じように、「神のものは神に」の話や、処刑前の「あなたがユダヤ人の王であるか」のくだりも、一般的な解釈と異なる部分で、著者のロジックを辿ることは興味深い。最後に、pp.180-1の「祈るイエス」に対する解釈は、「人間イエス」を描くものとして、興味深かった。マルコの想像力への間接的な裏付け、という部分であるが、こういったイエスの苦悩が、最期の「アラム語で叫んだといわれる言葉『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』、―訳すれば「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(p.189)という絶叫に象徴されるのだとすれば、一人の人間の歴史として、イエスや聖書を捉えることができると思う。
とても古い本で、学校の文化祭の古本市で手に入れたが、有益な本だった。(15/09/23)