今年(2024)のGWの大掃除で発掘された本のレビューは大方終わりましたが、その前に娘夫婦が宿泊した時に大慌てでスースケースにしまい込んだ本があり、それらの本のレビュー書きを終了させたく思っています。記録によれば、日本ではコロナ緊急体制が出された4年程前(2020.7)に読み終えた本です。
この頃は、基本在宅勤務で通勤時間は無くなった反面、週に2回は、3極なので仕方ないのですが米国・英国との電話会議(夜9時開始)があって、夕方から数時間は読書タイムを確保していました。様々な観点からの歴史に興味がありますが、現在の私たちにも馴染みのある「元号」に焦点を当てたこの本も興味があって読んだのだと思います。レビューを書きながら内容を振り返りたいです。
以下は気になったポイントです。
・天皇の代替わりによる改元を「代始改元」吉事による改元を「祥瑞(しょうずい)改元」凶事による改元を「災異改元」それ以外では、甲子(こうし)辛酉(かのととり)には混乱の起きやすい年と考えられていてそれが理由で改元される「甲子革命」「辛酉(しんゆう)革命」という。(p4)西暦は天正10年(1582)にユリウス歴から、グレゴリオ歴に切り替わっている(p6)日本の元号の出展は9つの個展(四書五経:大学、中庸、論語、孟子、詩經、書経、礼経、易経、春秋経)である(p9)
・乙巳の変において、中大兄皇子を中心とする身体性が当時の中国王朝の国家制度の導入を進め、その一環として元号も採用された、変の後に、孝徳天皇は難波宮に遷都し皇居を築いた(p21)白村江の戦い(史上初の本格的な対外戦争)の後、唐と新羅の侵攻に備えて九州の防備を強化、667年には近江の大津に遷都し、天智天皇として即位した、日本初の法典とされる、近江令、全国的な戸籍(庚午(こうご)年籍を作らせて律令制の基礎を固めた(p26)
・天智天皇の弟である大海人皇子は、息子の大友皇子に壬申の乱で勝利して、天武天皇となる。その崩御後には、後継者とされた草壁皇子が急死したので、皇后が政務を司り、690年に持統天皇として即位して藤原京に遷都した(p27)
・701(大宝元年)前後には天武天皇の時代から進められていた律令がほぼ完成し、大宝律令として制定され「日本」という国号が定着、702年には対外的に初めて日本の名を使用した(p28)
・和銅3年(710)には唐の長安をモデルとする奈良の平城京への遷都が行われ、和銅元年(708)には日本最初の流通貨幣である和銅開珎(銅銭、銀銭)が発行された(p30)
・聖武天皇は仏教の普及によって民心の安定を図った、地方各国に、国分寺と国分尼寺を設置する詔を出した、天平15(743)には、大仏建立の詔が出され、墾田永年私財法が出され田畑の私有が認められて律令制が揺らぎ出す(p36)
・桓武天皇の即位に伴い「延暦」へ改元され、延暦3年(784)には、平城京から長岡京へ遷都した、さらには延暦13年(794)に再び平安京へ遷都となった(p45)
・天長2(825)には桓武天皇の孫である、高棟王が「平」の姓を贈与され、平高棟となった、以降同じく桓武天皇の子孫を中心とする様々な皇族が平姓を得て、平安時代後期に台頭する平氏の祖となった(p50)清和天皇の即位により改元された「貞観:859-877」、清和天皇の子孫で皇族を離れた「源」の姓を贈与されて清和源氏の家系から有力な武士が現れた(p56)
・延喜(えんぎ)の改元は、日本初の「辛酉革命」による改元、甲子の年、戊辰の年は、甲子革命・戊辰革運という政変が起こるとされ、以上で「3革」という(p62)
・正暦(しょうりゃく)4年(993)には、天台宗において教義解釈の対立により、5世座主の円珍を支持した勢力は、延暦寺を離れて滋賀県大津市の園城寺(おんじょうじ)を拠点とするようになる、比叡山側を山門派、園城寺は寺門派と名乗るようになった(p81)
・康平8年(1065)は陰陽道で「三合」の厄年とされたため「治暦(じりゃく)」へ改元された、治略3年(1067)に藤原頼通が引退、翌年に御三条天皇が即位し、170年ぶりに藤原氏と姻戚関係がない天皇となり、これ以降、藤原氏の政治力は衰えていく(p97)
・寛治元年(1087)に「後三年の役」が集結、清原清衡(きよひら)は、奥州藤原氏を創始する(p103)
・元亨(げんこう)元年(1321)後宇多法皇の院政を離れて、後醍醐天皇の親政が始まった、天皇による直接統治は平安時代の御三条天皇まで遡る250年ぶりだった(p193)
・元中3年(南朝)至得(北朝)(1386)に足利義満が相国寺を建立すると、禅宗の寺格を定める五山制度を制定した。京都と鎌倉の両方に五山を定め、上位に南禅寺を置いた(p225)
・足利義満は将軍家の権力を盤石にして、元中9・明徳3(1392)に、正平一統で南朝に引き渡された三種の神器を北朝に返還、後亀山天皇は後小松天皇(北朝)の皇位を認めて退位、元中も9年で廃止されて明徳の元号が残った。56年にわたって続いた南北朝分裂は、完全統合された。以後の天皇は北朝の流れで続くが、明治時代に南朝を政党とする決議が議会でされている、南朝を支えた楠木正成を英雄し、足利尊氏を逆賊とする風潮にもつながった(p229)
・明治への改元が行われたのは旧暦の慶応4年9月8日、西暦(グレゴリオ)では1868年10月23日のこと、改元の際には、法的には慶応4年1月1日(1868.1.25)まで遡って明示とすることも定められた、西暦が導入されたのは、明治6年のこと、旧例の明治5年12月3日の翌日を、明治6年1月1日とした(p321)
2020年7月10日読破
2024年7月30日作成