土井健司の作品一覧

「土井健司」の「神認識とエペクタシス ニュッサのグレゴリオスによるキリスト教的神認識論の形成」「救貧看護とフィランスロピア(関西学院大学研究叢書) 古代キリスト教におけるフィランスロピア論の生成」ほか、ユーザーレビューをお届けします!

作品一覧

  • コロナ禍とトリアージを問う 社会が命を選別するということ
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    1巻2,640円 (税込)
    コロナ禍では医療従事者が不眠不休で治療にあたってもなお医療資源が不足している。どのような理由で医療資源を配分して、誰を、どの命を優先するのかを判断するトリアージをおこなうことの是非が、医療現場でも社会全体でも議論されている。 「助かる命を優先する」という効率的な医療の必要と「その選別から漏れる患者の命と尊厳を守るべきだ」という考えのはざまにある現在の日本社会で、トリアージをおこなう根拠や倫理的な責任を、医療や宗教、哲学の視点から多角的に考え、問題点を提起する。 「自宅待機」などの政府方針や医療界での議論など、日本の事例はもちろん、台湾やイタリア、ドイツなどの実情にも目を向け、「命の選別とその基準」をめぐる課題と正面から向き合い、検証した貴重な成果。2021年8月に開催した日本学術会議のシンポジウムでの報告に書き下ろし原稿を加えた論集。
  • 神認識とエペクタシス ニュッサのグレゴリオスによるキリスト教的神認識論の形成
    値引きあり
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    1巻3,795円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 【内容紹介・目次・著者略歴】 ニュッサのグレゴリオスによるキリスト教的神認識論の形成〈エペクタシス〉という人間存在の根本態勢からグレゴリオスの神認識論を説く。中村元賞受賞。 【目次より】 まえがき 序論 第一節 問題の所在、及び本研究の目的と方法 第二節 ニュッサのグレゴリオスの生涯 序論 注 第一章 グレゴリオス以前の神認識論 第一節 ギリシャ哲学における神認識論 第二節 グレゴリオス以前のキリスト教における神認識論 第一章 注 第二章 働きからの神認識 第一節 「働きからの神認識」 第二節 「働きからの神認識」とエペクタシス 第三節 結び 第二章 注 第三章 鏡における神認識 第一節 グレゴリオスにおける「鏡」の概念 第二節 「鏡における神認識」の存否について 第三節 『至福論』第六講話の解釈 第三章 注 第四章 暗闇における神認 第一節 「暗闇」という概念 第二節 テキスト分析 第三節 「暗闇」のテキストの解釈 第四節 エクスタシス 第四章 注 補遺 神秘主義的解釈について 第五章 エペクタシス 第一節 『モーセの生涯』第二部二―九節~二五五節 第二節 人間存在としてのエペクタシス 第三節 「完全な生」としてのエペクタシス 第四節 神認識とエペクタシス 第五節 結び 第五章 注 結論 補遺 パレーシア:「自由に語ること」 ニュッサのグレゴリオスにおけるその転換 あとがき ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、タブレットサイズの端末での閲読を推奨します。また、文字列のハイライトや検索、辞書の参照、引用などの機能も使用できません。 土井 健司 1962年生まれ。神学者。関西学院大学教授。 関西学院大学神学部卒業。同大学院神学研究科修士課程聖書神学専攻修了、京都大学大学院文学研究科博士後期課程(キリスト教学)中退。文学博士。 著書に『神認識とエペクタシス』『「わたし」は如何にして「わたし」であるのか』『キリスト教を問いなおす』『古代キリスト教探訪』『愛と意志と生成の神」』『司教と貧者』『キリスト教は戦争好きか』『救貧看護とフィランスロピア』『現代を生きるキリスト教 』(共著) 『宗教と生命倫理』(共編)など、 訳書に、R.A.マーカス『アウグスティヌス神学における歴史と社会』(共訳)C.マルクシース『天を仰ぎ、地を歩む』 C.マルクシース『グノーシス』などがある。
  • 救貧看護とフィランスロピア(関西学院大学研究叢書) 古代キリスト教におけるフィランスロピア論の生成
    値引きあり
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    1巻4,015円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 【内容紹介・目次・著者略歴】 人間とは何か。キリスト教の発展とともに人間観に大きな変化が生じた。本書は、フィランスロピア(人間愛)という概念が二世紀以降どのように展開したのかを跡付け、ギリシア・ローマ世界に対して、受肉論をもとにレプラの病貧者を含む「貧者」を人間とする思想と実践がカッパドキア教父において展開したことを論じる労作。 【目次より】 まえがき 序論 問題としてのフィランスロピア 古代ギリシア・ローマ、古代ユダヤ思想、初期キリスト教 第一部 カッパドキア教父以前のフィランスロピア論の生成 第一章 使徒教父と弁証家におけるフィランスロビアの用法と救貧思想 第二章 アレクサンドリアのクレメンスにおけるフィランスロビア論の形成 第三章 疫病とフィランスロピア トゥキュディデス、ディオニュシオス、エウセビオス 第二部 カッパドキア教父における救貧とフィランスロピア 第四章 どうすれば貧者の苦しみがあなたには見えるのか 飢饉とカイサレアのバシレイオス 第五章 カイサレアのバシレイオスと「バシレイアス」 古代キリスト教における病院施設の一考察 第六章 ナジアンゾスのグレゴリオスとレプラの病伝貧者 第一四講話における救貧思想 第七章 フィランスロピアと終末論 ニュッサのグレゴリオスにおける救貧の思想 第八章 ニュッサのグレゴリオスにおける救貧と否定神学 第九章 なぜ神は人間になったのか 受肉論・フィランスロビア・救貧 結論 補遺一 新約外典文書におけるフィランスロピアの用例 補遺二 「キュプリアヌスの疫病」考 補遺三 ニュッサのグレゴリオスにおける「レプラ」の用法と意味 付録 バシレイオス説教「飢饉と旱魃の時期に」 あとがき エウセビオス『教会史』におけるをフィランスロピア注合ならびに関連語の用例一覧 文献表 文献略号表 ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、タブレットサイズの端末での閲読を推奨します。また、文字列のハイライトや検索、辞書の参照、引用などの機能も使用できません。 土井 健司 1962年生まれ。神学者。関西学院大学教授。 関西学院大学神学部卒業。同大学院神学研究科修士課程聖書神学専攻修了、京都大学大学院文学研究科博士後期課程(キリスト教学)中退。文学博士。 著書に『神認識とエペクタシス』『「わたし」は如何にして「わたし」であるのか』『キリスト教を問いなおす』『古代キリスト教探訪』『愛と意志と生成の神」』『司教と貧者』『キリスト教は戦争好きか』『救貧看護とフィランスロピア』『現代を生きるキリスト教 』(共著) 『宗教と生命倫理』(共編)など、 訳書に、R.A.マーカス『アウグスティヌス神学における歴史と社会』(共訳)C.マルクシース『天を仰ぎ、地を歩む』 C.マルクシース『グノーシス』などがある。
  • キリスト教を問いなおす
    3.6
    平和を説くキリスト教が、なぜ十字軍など戦争を起こしてきたのか? キリスト教信者には偽善者が多いのではないか? 信仰心に篤い人が、不幸な目に遭ったりするのはなぜか? キリスト教徒によるユダヤ人迫害などの事例から、神とは何かを真摯に問うラディカルなキリスト教思想の入門書。

ユーザーレビュー

  • キリスト教を問いなおす

    Posted by ブクログ

    キリスト教に対して人びとが抱く素朴な疑問を手がかりとして、著者の考えるキリスト教の根幹的な発想が、わかりやすく解説されています。

    著者はまず、平和を説くキリスト教がなぜ十字軍などの戦争を起こしてきたのかという疑問をとりあげます。そして、社会を特定の教義によってまとめあげる力ではなく、社会をまとめるために引かれた境界線を乗り越えることこそが、キリスト教を特徴づけていると論じています。またこれに続いて、「善きサマリア人」のたとえを参照し、キリスト教の説く「愛」についての考察も展開されています。

    さらに著者は、一神教とは何かという疑問を取り上げ、一神教と多神教を対立させる見方に疑問を投げかけます

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    2017年12月03日
  • キリスト教を問いなおす

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    キリスト教は、「何者か」であることでなく「人間同士の出逢い」として向き合うこと。

    上記の表現について、しっくりきた。
    どうしても「何者か」「肩書きは何か」というところで人を判断する場合が多く、その場合にはやっぱり個別性というところは欠落してしまう。

    しかしその個別性のなかにこそ「その人」たらしめるものがあり、そのゾーンに入っていくことがキリストの行った隣人愛である。

    こうして人間が「わたしーあなた」の関係を作る場を提供するのが、「神」である。それを可視化したのがイエスだ、という説明にも納得がいった。

    一応、ミッション系の大学だったので講義はあったが、個別の教義をどう解釈して何を伝えてい

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    2017年03月04日
  • キリスト教を問いなおす

    Posted by ブクログ

    キリスト教への疑問を真正面から受け止め、誠実に答えようとしてその姿勢は高く評価せねばならない。
    例えば、十字軍のようにキリスト教の名前で幾多の戦争や残虐行為がなされたのはなぜか?
    神の説く愛とは何か?
    善人なのに不幸になるのは何故か?
    祈っても通じないのはどうしてか?
    一神教はどうして他の宗教に対して不寛容なのか?
    何で神は見えないのか?
    などなど・・・

    これらの疑問に対して、聖書からはもちろんのこと、古今の書物を参照して説明している。
    だけれども、説明すればするほど、こういう説明が必要なこと自体おかしいことに気付く。
    そもそも宗教なんて、理屈じゃないんだ。
    疑問を挟まず頭から信じてりゃいい

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    2013年01月06日
  • キリスト教を問いなおす

    Posted by ブクログ

    キリスト教徒でない人が理解の及ばない(認識しにくい)点を、キリスト教徒として真面目に論じた好著。
    主体性をもたずには、隣人愛も神も祈りも理解出来ない。だからこれまで私にはキリスト教を知ろうとしても常にいいようのない違和感(気持ち悪さといってもいいかもしれない)が付き纏っていた。おそらくこれからもそうなのだろう。

    でも、主体的でない立場にいるという事を自覚したのは、大事な一歩だったように思う。「あなたーわたし」のまさに主体的な関係から隣人愛、神、祈りが機能し、領域を超越する。そのことを認識することができたから。

    しかしながら、一般論で語る以上、あるキリスト教徒個人の問題をすべて議論できないこ

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    2011年03月02日
  • キリスト教を問いなおす

    Posted by ブクログ

    2年ほど前に読み、再度読んだ。キリスト教とは何か?筆者の真摯な問いかけと答え。「あなたとわたし」の根本がキリストであるという結論。読んでいるときは理解できるようで、でも、きちんとは納得できない。ただ、理解したいと常に心に引っかかっている。おそらく、また読むだろう。

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    2009年10月04日

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