安本美典の作品一覧
「安本美典」の「データサイエンスで解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない」「説得の科学」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
- 作者をフォローする
- フォローすると、この作者の新刊が配信された際に、お知らせします。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで201万冊以上配信中!
「安本美典」の「データサイエンスで解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない」「説得の科学」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
ビジネス・実用
Posted by ブクログ
いやはや。痛快まるかじり。科学的立場で、邪馬台国を論じるべきだ。
考古学の中には、いまだに権威者がいう説がまかり通っている。だから、捏造事件も起きるのだという。邪馬台国は、データサイエンスで解けば、明らかに福岡であり、朝倉市周辺なのだという。
著者は、「文章心理学」の研究から始まっている。文章心理学とは、文学作品の文章を統計的に分析し、それによって、文体の特徴と作品の傾向や、作家の性格との関連を調べる。「計量国語学会」があり、文の長さが「対数正規分布」に従うという。このような手法により、『源氏物語』は54帖あるが、最後の『宇治十帖』は、作者が違うという。『宇治十帖』は、和歌の引用が少なく、用言の使用度が大きい。心理描写が豊富で、センテンスの長さが長く、ページ数が多い。このような違いは、偶然とは言えない。おもしろいなぁ。こう言うことを研究するのだ。作家によって文体の違いというのは、明らかにある。今なら、AIで、夏目漱石風小説もできてしまう時代だ。それは、文章心理学や計量国語学会が貢献しているのだろう。因子分析法による現代作家の分類もおもしろい。こんなふうにパターン分けができるのだ。日本語の起源についても、興味深い研究をしている。日本語は、いろんな言葉が流入して形成されている。ヨーロッパでは、ラテン語から派生している。『日本語の誕生』『日本語の成立』に詳しく展開されているようだ。
その著者が、データサイエンスとして、邪馬台国の謎に取り組んだ。
この本を読みながら、卑弥呼の時代は文字がなかった。そのため、中国の『魏志倭人伝』などの文献がベースになっている。『魏志倭人伝』の解釈を中心にして、畿内説と九州説の論争がある。それに振り回されている感じがした。重要なのは、卑弥呼のいた弥生中期時代、183年から248年の間に、どれだけの科学的根拠があるのか?ということだ。邪馬台国の畿内説の第一候補の纏向遺跡の規模は貧弱。直接的な対外交流を示すような中国の遺物、特に中国製青銅器、銅鏡の存在が確認されない。卑弥呼に与えた銅鏡100枚が見つからない。また、巨大なムラや墓が見られない。確かに、古墳時代になって、巨大墓が造られるようになった。倭人の武器に矛や鉄鏃があるが、機内では見つかっていない。鉄の鏃は、福岡県からは398個、奈良県は4個だけである。卑弥呼に下賜した銅鏡が畿内で出土する「三角縁神獣鏡」であるなら、中国にもあるはずだが、現在見つかっていない。
畿内説と九州説で、優勢か劣勢かを論じること自体がおかしい。科学は「確実な根拠が提出されているか」「きちんとした証明が行われているのか」を第一に考えるべきだ。
ゴッドハンドの捏造事件は、慣習と前例に頼り、職人芸的な調査(私の眼で確認したという権威者)や推論に次ぐ推論に頼ってきた、日本考古学会が陥った大きな落とし穴だという。恣意的な解釈や強引な主張が平然と行われ、マスコミがそれに追随する。あぁ。日本の権威主義が蔓延っている。
著者はいう「日本では、人々を直接批判することは難しい。なぜなら、批判は、個人攻撃と受け取られるからである」権威者の「直感が、ときおり、事実を超えて評価される」。「考古学の世界では、権威者、制度、組織のエスタブリュシュメントの組織の論理の方が、科学や学問の論理よりも強い。これでは、組織は守られても、学問や科学は守られないと著者はいう。
科学や学問はゲームではない。自説にとって有利に見える事実だけを取り上げて主張する議論では、科学は成り立たない。考古学では、肉眼観察主義と属人主義で成り立っていた。なんでも鑑定団は、鑑定人の肉眼観察主義で、番組が成り立っている。科学的根拠を示すべきでもある。肉眼鑑定主義には、偽物が紛れ込む可能性はいくらでもある。
京都大学教授の考古学の権威者の梅原末治は、「勾玉のいい悪いを決めるのは私です」と言っちゃうんだよね。専門家って、テレビにもよく出てくるか、一体何の専門家かよくわからない。コロナにしても、原発にしても、専門家が、言いたいホーダイで、何らかの意図を持ってマスコミ操縦をしている。
著者は、日本および中国の実例をたくさん挙げて、どうだ。福岡、北九州に邪馬台国があったと説明する。なるほど。だいぶ、ちまたの説に惑わされていたなぁと思った。著者は、いい仕事している。
母親が短歌を読んでいて、尊敬していた著者は、母親の歌を共著として出版している。ふーむ。親孝行な著者である。
Posted by ブクログ
タイトルに惹かれて購入。邪馬台国が九州にあったのか、それとも畿内にあったのかが長らく議論になっていることはなんとなく知っていたが、それをデータサイエンス的手法で解明できるという主張に興味がわいた。著者は京都大学文学部出身の考古学者。
邪馬台国の問題のみならず考古学的問題の解明には、発掘物を詳細に観察、記述するのみでは十分でなく、それら発掘物の数量、発掘物の記録をできるだけ多く集めそこに統計学的手法を用いて問題を解明する「科学」的方法論が重要であると主張する。
しかし、著者の本当の主張はそこではなく、発掘物を詳細に観察、記述するが、そこから自らの主張(ここでは邪馬台国畿内説)に都合のいい側面のみを取り上げていく従来の考古学への強い批判にあると感じた。観察、記述は「技術」であり「科学」ではないと、何度も繰り返し主張する。
はたして、そうだろうか?「科学」の始まりは観察、記述にあるのではないだろうか?実際、筆者のいうデータサイエンスで考古学的問題を解決するのも、そういう観察、記述があってこそなのだろうから。ただ、都合のいい側面のみをとりあげていくというのは確かに科学的ではないと思うが。
著者はデータサイエンス的手法で考古学的問題を解明することを数十年前から行ってきたという。その先見性には感銘を受けた。しばらくしたらまた読んでもいいと思う。