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硬水しかないバルセロナで軟水で作る豆腐屋をやってる苦労話の部分凄いなと思った。たしかに日本帰ったら豆腐と納豆ばかり食べてる。
清水建宇(しみず・たてお)
1947年生まれ.
神戸大学経営学部卒.1971年,朝日新聞社入社.東京社会部で警視庁,宮内庁などを担当.出版局へ異動し,『週刊朝日』副編集長,『論座』編集長.2000年1月から2003年3月までテレビ朝日「ニュースステーション」でコメンテーター.2007年,論説委員を最後に定年退職.この間,『大学ランキング』創刊の1995年版から2008年版まで13冊の編集長を務めた.
これまでたずさわった本に『ふぐ』『世界名画の旅 1~3』...続きを読む (いずれも朝日新聞社),『就職お悩み相談室』(森永卓郎氏との共著,講談社)などがある.
「住んだことのない国で、やったことのない仕事をする。バルセロナで豆腐屋になると決意はしたものの、ぼんやりとした夢想のままだった。この企てに太い心棒が入って、ぐらつかないようになったのは、伊能忠敬の生涯に触れてからである。 私は四五歳のときに新聞をつくる編集局から出版局の週刊朝日編集部に異動した。同じ活字媒体であるけれど、新聞は一日に何回も締め切りがあるのに対し、週刊誌は週に一回しかない。仕事の段取りや進め方がまったく違った。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「佐藤さんは一九七〇年代に月刊誌『面白半分』を創刊し、吉行淳之介、開高健、遠藤周作氏ら著名な作家を交代で編集長に迎えて注目を集めた人である。野坂昭如氏が編集長のときに載せた永井荷風作とされる小説「四畳半襖の下張」がわいせつ文書に問われ、野坂氏とともに最高裁まで争ったことでも知られる。私より四つ年上で、ご本人も熟年の真っ盛りだった。 その佐藤さんから特集の原稿を受け取った。巻頭の記事は「遅咲きの大輪──伊能忠敬」。前文に「伊能忠敬は〝超高齢化社会の星〟」とある。伊能忠敬が日本地図をつくった偉人であることはもちろん知っていたが、生い立ちや、地図をつくり始めるまでの半生はまったく知らなかった。佐藤さんの原稿を食い入るように読んだ。 ──忠敬は一七四五年二月、千葉県の九十九里町で生まれた。八代将軍吉宗の最後の年にあたる。六歳のときに母を失い、入り婿だった父親が兄と姉を連れて家を出たため、末っ子の忠敬だけが祖父母のもとに残されて、海辺の納屋で寝起きした。 一〇歳になって、ようやく父親に引き取られた。向学心が強かったのだろう。一二歳のときに茨城の某寺で僧侶から数学を習い、その後、医師について経学や医学も学んだ。 一七歳のとき、佐原村の大地主であり、酒やみそ、しょうゆの醸造、米・薪問屋、廻船業などを営む伊能家に見込まれて婿養子になった。伊能家の一人娘であるミチは数年前に婿を迎えていたが死別したため、忠敬は後添えの跡取りとして婿入りしたのだった。 忠敬は江戸に薪問屋を出すなど家業を拡大し、名主を命じられて村の行政にもかかわる。浅間山の大噴火や利根川の洪水で村は大きな被害に見舞われたが、忠敬は住民に米を配り、堤防修復にも力を注いだ。そうした功績を認められ、のちに名字帯刀を許された。 家業の業績を上げ、四九歳で隠居するときの伊能家の財産は一説によると三〇万両、いまの貨幣価値でおよそ七五億円にのぼったといわれる。有能な事業家として前半生を終えた。 この豊富な資産が、第二の人生に有利に働いたことは間違いないだろう。忠敬は江戸に移り、暦学の権威とされていた高橋至時のもとで勉学に打ち込んだ。その学費や生活費、天体観測や測量に使う機器にも莫大な費用がかかったはずだが、何の心配もなかった。 そればかりか、地図づくりのための測量旅行の費用も、奥州と蝦夷地を調べた一八〇〇年の第一回から一八〇三年の第四回まで、ほとんどを忠敬が自腹を切って負担した。地図作成が幕府の直轄事業となり、正式な予算が計上されるのは五回目からである。 忠敬は一六年間に通算一〇回の測量を行い、全国を徒歩で調べた。歩いた距離は四万三七〇七キロ。地球一周分にあたる。当時の平均寿命は四〇代半ばとみられるが、七三歳まで生きた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「しかし、井上ひさしさんが伊能忠敬を評して書いた「一身にして二生を経る」は意味が違う。忠敬は時代の激変という奔流にもまれて二つの人生を生きたわけではない。前半生と後半生の生き方は、あくまでも自分で選んだものであり、それぞれを生き切って、みごとに夢を成し遂げた。だから、高齢化社会にあって、忠敬が輝くのだ。 熟年誌は次の「秋号」で休刊にした。試行プロジェクトの役割は終えたと判断した。ただ、伊能忠敬はほどなくブームになった。江戸東京博物館で大がかりな「忠敬と伊能図」展が開かれ、一一万人が訪れた。用意した図録は売り切れた。さらに、忠敬が自分の歩幅で測量した道を二年がかりで歩く「伊能ウォーク」が全国で多くの参加者を集めた。記事を書いた佐藤嘉尚さんは展覧会の図録の再出版、伊能ウォークの世話役や記録の編集など、たくさんの仕事を抱え込んで、しばらく多忙をきわめた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「私の中でも忠敬の「一身二生」がずっと頭に突き刺さったままだった。折に触れて思い出し、自分と引き比べた。 日本の地図をつくるという大事業に比べれば、バルセロナで豆腐屋をやることなど、なんとちっぽけで、ささやかな企てだろう。忠敬ほどの資産は到底持てそうにないが、そのかわり江戸時代にはなかった年金という制度がある。豆腐屋が失敗しても、日本に戻ってつつましく暮らすことはできる。墜落したときの安全ネットが、ちゃんと張られている。それなのに突拍子もない冒険などと思い込み、ぐずぐずと無為を続けてきたことが恥ずかしくもあった。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「父親は仕事一途で近寄りがたく、私たち四人のきょうだいは母の影響を受けて育った。母は函館市にあるキリスト教系の遺愛女学校で学び、音楽や美術など芸術はなんでも好きだった。それらに関する本や雑誌がいつも家の中にあった。 父は警察官を定年退職した後、自動車学校の仕事をした。それも終えると、生まれ故郷の木更津に戻り、自宅を建てた。しばらくは母との穏やかな暮らしが続いたが、母が転んで脚を骨折する事故を繰り返し、父ひとりでは世話をすることができなくなった。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「バルセロナで豆腐屋をやる計画は伝えてあった。「一緒にバルセロナへ行くんだよ」と話すと、父は「そうか」というだけで、それ以上の会話に進むことはなかった。 私はバルセロナに父を連れていくことにあまり不安を感じなかった。父は幼いころに六キロ離れた小学校に毎日駆け足で通い、雪が積もった日は竹馬で走ったことが自慢だった。そのおかげで足腰が強く、自分でトイレに行けたし、風呂にも入ることができた。バルセロナで自宅の留守番をすることはできるだろう。休日には街を散歩することもできるだろう。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「父の葬儀を終えると、私はまた会社に通った。有給休暇が六〇日以上は残っているはずであり、定年まで休むこともできたが、仕事を続けた。退職する前日、コラムの原稿を書き、退職当日はそのゲラに目を通した。 夕方、会議室で送別会が開かれ、私は覚えたてのスペイン語で「テンゴ・セセンタ・アニョス(私は六〇歳です)」とあいさつし、温かい拍手をもらった。最後の原稿のゲラをポケットに入れて帰宅した。 会社を辞めたら時間がゆっくり流れるように感じた。朝寝坊も夜更かしも思いのままだ。一日中、家の中でごろごろしてもいい。自宅の窓から見るありふれた風景も、新鮮に思える。穏やかな日常にひたりながら、あらためて豆腐屋になることを考えた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「私は「一身一生」の生き方を否定するつもりはまったくない。磨き続けたスキルや蓄積した知識は、同じ仕事を続けてこそ役立つ。若い人たちにそれを伝授することもできる。美しく、気高い生き方だと、心から思う。でも、私はそれとは違う道を歩もうとしている。 「後ろ髪を引かれる思い」という言葉がある。未練や心残りがあるときに使う。書くことが好きであっても、スキルや才能に恵まれていたわけではないので、私には未練がましい気持ちはないはずだが、退職する前日まで原稿を書き続けた自分の中に、何か吹っ切れないものがあるのかもしれないと思った。もやもやした気持ちをわずかでも抱えたままバルセロナへ行きたくない。「後ろ髪」の一本も残らないように始末しておきたかった。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「新聞やテレビは情報を流すだけの一方向メディアだが、ネットニュースは情報の送り手と受け手を対等に結ぶ「双方向メディア」になっている。 私がいた間に、 J-CASTニュースのページビューは増え続け、ついに大手通信社のニュースサイトを抜いた。その急成長ぶりそのものがニュースになった。 しかし、私自身はパソコン音痴でネットもよく知らない。録音はカセットテープ、携帯電話は通話するだけのガラケーだ。ワープロソフトも日本発の「一太郎」しか使えない。調べものはもっぱら新聞社の調査部で切り抜きのファイルに頼っていた。 自分という人間は、紙とアナログにひたり切った「旧世代」だなと痛感した。ネットメディアの大きな将来性を十分に理解したが、そこに私の居場所はないと判断せざるを得なかった。 「後ろ髪」の最後の一本が抜けたように感じた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「 当面の生活に必要なものは、習志野市の公団住宅で借りた 2 DKに運び込んだ。洗濯機、炊飯器、テレビ、食卓などがあれば、なんとか暮らせる。三人の子どもたちは独立していたので、二〇年近く飼っているオス猫と、新参のチワワ二匹を連れて夫婦で移り住んだ。 マンションには五年間しか住まなかったが、思い出はたくさんある。入居してすぐ管理組合の役員を引き受け、副理事長になった。二〇階建ての高層建築で、五一一世帯が入居し、一〇〇〇人を超える住人がいる。住民だけで新たに町内会を創設し、私が町会長になった。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「次に、申請に際して豆腐屋を開く物件の賃貸契約書、物件を改装するための設計図、その設計図をバルセロナ市役所が受け取ったという証明書、改装工事をする建築業者との請負契約書を提出しなければならない。法人への出資金が「見せ金」のままで終わることがなく、資金がスペイン国内で実際に投資されることを求めているのだろう。 幸いなことに、私はすでにスペインの銀行に口座を持っていた。前述したように、伊能忠敬の生涯に触れて「一身二生」を知ったとき、預貯金のすべてをスペインの銀行の東京支店に預けた。最初に預けたサンタンデール銀行は日本から撤退したので、もう一つの BBVAに預金を移したが、その BBVAも撤退した。ただし、日本で営業していた最後のスペインの銀行だったため、「希望者はスペインの当銀行に非居住者口座を開けます」と告げられた。 スペイン国内で銀行口座を開くことは容易でない。居住許可をもらい、納税者番号を取得する必要がある。「非居住者口座」は例外として特別な場合にのみ認められるのだ。私はもちろん希望し、バルセロナの中心部の支店に口座をつくってもらった。 預金したのは一九九六年だったので。もう一二年近く経過している。この間、スペインの一年ものの定期預金金利はおおむね五%前後で推移していた。複利で運用すると一二年間で一・八倍になる計算だ。しかもスペイン・ペセタでの預金が、二〇〇〇年からユーロに切り替わり、ユーロが強くなったので、為替差益を加えると二倍近くに増えただろう。 BBVAのバルセロナ支店の預金は約二七万ユーロにふくらんでいた。法人の出資金を振り込んでも、おつりがくる。伊能忠敬のご利益だなと思った。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「スペイン語学校に通い始めたとき、担任の先生は最初の授業で三〇人ほどの生徒全員に「なぜスペイン語を学ぶのですか?」と質問した。私は「バルセロナで豆腐屋を開くので」と答えたところ、後で同級生の矢部聡さんが「一緒に行きたい」と話しかけてきた。 矢部さんは東京でイタリア料理のレストランの経営を任されていたが、イタリアかスペインで自分の店を持ちたいと考え、語学の勉強をしていた。私はバルセロナの人たちに日本の豆腐の食べ方を知ってもらう方法を模索していたので、ありがたい申し出だった。 矢部さんと話し合った結果、弁当を売ることにした。フランスでは弁当がブームになっており、国境を接するカタルーニャでも受け入れられるだろう。矢部さんは豆腐ステーキなどのレシピを工夫し、私とカミさんは試食させてもらった。おいしかった。 矢部さんの妻の照美さんはグラフィックデザイナーである。豆腐をパック詰めするフィルムは製作に時間がかかるので、早めにデザインを決めておかねばならない。スペインの法令で記載を義務付けられている原材料、冷蔵の温度などの表記を法律事務所に確かめ、データを渡してデザインしてもらった。照美さんは「自然の色を生かしましょう」といって、木綿豆腐はグリーン系を、絹豆腐は柑橘類を思わせるオレンジ系を使い、二色のフィルム図案をつくった。そのデジタルデータを関根さんに送り、専門業者に注文してもらった。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「 私たちは宿泊費を節約するため、郊外にある日本人経営のオスタルに泊まっていた。オスタルとは家族経営の小さな宿で、日本の民宿に近い。ある日宿に戻ると、若い日本人男性を紹介された。谷口達平さんは、ガウディ建築の美しい曲線を可能にした独特のレンガ積み技法に憧れて移住し、近郊の建築会社で働いていたが、不況で解雇されたという。 建築の専門家で、しかもスペイン語を話せる。私たちにとって願ってもない人材だ。豆腐屋を開く計画を伝え、仕事として物件探しに同行してほしいとお願いした。「交渉するにはぼくよりスペイン語の上手な人がいたほうがいい。ぼくの婚約者はすごく上手なので、彼女も加わっていいですか?」と達平さん。私は「もちろん」と答えた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「豆腐の作業場には「秘密兵器」があった。ボイラーには配管が詰まらないように水道水のカルシウムを除去する装置を取り付けるが、そのカルシウム除去水をボイラーだけでなく作業場でも使えるように壁に埋め込んだ配管である。 ピレネー山脈を水源とするバルセロナは、水道水に含まれるカルシウム分がきわめて多く、硬度が高い。東京都の水道水と比べるとカルシウムの濃度が六倍という調査結果もある。豆腐づくりにはカルシウムが少ない軟水が良いとされ、おいしいと定評のある京都の豆腐も軟水が支えているという。私も軟水で豆腐をつくりたかった。 大豆を浸けたり、すりつぶして呉をつくるときにカルシウム除去水を使う。その作業を思い浮かべながら除去水の蛇口の位置を決めた。製氷機や温水機も除去水を使うと寿命が延びるというので、機械のそばにも蛇口をつけてもらった。 ある日、州政府の建築規制が変わったのでボイラーを単独の防火区画に置かねばならなくなったと連絡があり、書き換えた設計図が添付されていた。弁当用の厨房が削られて狭くなっている。矢部さんと相談し、ボイラー室を最小限にして厨房を確保するように頼んだ。 工事期間中も店の宣伝をしなくてはと思い、店の幅いっぱいの大きな横断幕を入り口の上に張ってもらった。「日本からカタルーニャへ 初の日本式豆腐店 二〇一〇年二月開業予定」と日本語、カタルーニャ語の両方で大書した。カタルーニャの州旗と日の丸も並べた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「バルセロナの食習慣は、スペインのほかの地域とかなり違っている。たとえば、フランス人が好むバターを受け入れる度合が高い。 地中海に面したポルトガル、スペイン、イタリア、ギリシャなどは主にオリーブオイルを使う。さまざまな研究により、不飽和脂肪酸を多く含むオリーブオイルをたくさんとる食事が健康に良いとされ、「地中海食」として広く知られるようになった。 スペインでもマドリードや南部のアンダルシアなどでは、パンに生ハムを載せてオリーブオイルを垂らした「トスターダ・デ・ハモン」や、植物性の油で揚げた細長いドーナツのような「チュロス」などが朝食の定番である。しかし、カタルーニャでは、バゲットにトマトをこすりつけた「パン・コン・トマテ」とともに、クロワッサンとミルク入りコーヒーが朝食の定番なのだ。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「バルセロナでクロワッサンが好まれるようになったのは、スペイン継承戦争と無縁ではないだろう。一八世紀の初め、病弱だったスペイン王カルロス二世の次の王を、フランス・ブルボン朝のフィリップ公にするか、ハプスブルク家が推すカール大公にするか、各国も介入して争った。曲折の末にフィリップ公が王位を継ぐが、フランスはのちに最後までカール大公側に立ち続けたカタルーニャに二万の大軍を派遣して陥落させた。一七一四年のことだ。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「その背景に、日本そのものに対する高い評価があったことを見過ごすことはできない。 年配のスペイン人は「キヤノン」「ニコン」「ソニー」「パナソニック」などの名をあげて、日本製品の良さを讃える。改装工事を監督したセラーノさんは大のバイク好きだが、「ホンダ、カワサキ、ヤマハ、スズキ」と続け、「日本製が最高だ」という。 三〇代より若いスペイン人は「漫画やアニメのファンだから日本が好き」という人がほとんどだ。スペインには子ども向けにアニメを放送するチャンネルがあり、「ドラえもん」「ドラゴンボール」「キャプテン翼」などを見て育った世代が社会の中堅になりつつある。 また、宮崎駿さんの作品は世代を超えて高く評価されている。ときどき豆腐を仕入れに来るベジタリアン向けのレストランを訪れたら、壁の一面が「となりのトトロ」の絵で飾られていた。コースターの図柄も「トトロ」だった。 バルセロナには一九九〇年代から続く「 SALON DE MANGA(漫画サロン)」という催しがある。一八回目の二〇一二年は「食べ物漫画」のコーナーがつくられ、日本の有名な「京料理」の店が実演をすることになって、豆腐二〇丁の注文を受けた。開幕当日、私はカートに豆腐を積んで配達に行き、会場の大きさに驚いた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「仕事を探して最初に訪れた和食レストラン「天ぷら屋」で自分の夢を話し、すぐに採用された。学生ビザで就労するには雇用主が面倒な手続きをする必要があるが、その手続きもしてもらって労働契約を結んだ。働きながらラーメンの研究を続け、店のまかない料理に出して仕事仲間の感想を聞いた。やがて、店長から土曜日の昼だけお客に出してもよいと許可をもらった。「今日はラーメンがありますよ」と声をかけて希望する客に出す「裏メニュー」だ。お客の声を聞いて、さらに自分が求める味を追求した。 スペインでは学生ビザで三年間滞在すると一般の労働居住許可に変更できる。さらに一年滞在すると自営業の登録ができる。四年間の努力が実ってラーメン屋を開く日が近づいた。 店にする物件は、店長の奥さんが見つけてくれた。中心部の地下鉄の駅から徒歩三分の場所にあり、以前はバルだった。スペインでは、前の経営者から営業許可を買い取って飲食店を開く方法がある。「トラスパソ」と呼ばれるこの権利は三万ユーロ(約四〇〇万円)、家賃は月額九〇〇ユーロ(約一二万円)だった。相場よりもかなり安い。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「 「農業一本で暮らしていけないだろうか」。二人で相談し、スペインへ行くことを決めた。英典さんが卒業旅行でヨーロッパを回ったときに、バルセロナは冬も温暖なこと、人びとが親切なことを実感していたので、バルセロナを移住先に選んだ。 野菜の販売を安定させるにはレストランの固定客をつかむ必要がある。食べられる花や料理に添えるミニ野菜などレストラン向けの特殊な野菜を専門につくる農家が千葉県にあり、英典さんはそこで研修を受けた。二〇一四年、二人はバルセロナを訪れ、ヴィリャ法律事務所で労働許可の取得方法を相談した。 農業の場合は法人の出資金が七万ユーロ(約九五〇万円)あれば初年度に一人の労働許可が下り、次年度には二人目の許可が下りると説明を受けた。弁護士夫人の土屋順子さんは「お豆腐屋さんでも話を聞いたほうがいい」と助言し、二見さん夫妻は私の店にやってきた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「入り口に「ガウディ ×井上雄彦──シンクロする創造の源泉」とある。会場にはサグラダファミリアの資料とともに、井上さんが描いたさまざまなガウディの肖像が飾られていた。思索する姿、子どものころ、壮年期、晩年など。ガウディの写真はわずかしか残されていないが、井上さんの筆によって、私たちはガウディの生涯を思い描くことができた。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「毎年七月末になると日本から来て豆腐を買ってくれる人がいた。法政大学国際文化学部の田澤耕教授。カタルーニャ語の研究者で、夏休みをカタルーニャの別荘で過ごすのだという。 来店するたびに著書をくださった。『物語 カタルーニャの歴史』(中公新書)、『カタルーニャ語辞典』(大学書林)、『カタルーニャを知る事典』(平凡社新書)、『ガウディ伝』(中公新書)などなど。すでに読んでいた本も少なくない。 『物語 カタルーニャの歴史』は、まえがきの冒頭でこう書かれている。──「世界で一番美しい村」とこの村を形容したカタルーニャ人の友人がいた。〔……〕私を含めて、この村で夏を過ごしている人の多くにとって、これはとても素直に受け入れられることばだと思う。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「国外から訪れる人だけでなく、地元バルセロナで出会った人たちからも励まされ、支えられた。地元の人たちは歴史や風土を教えてくれ、知らない世界へ導いてくれた。 ピレネー山脈の中腹にあるボイ渓谷には、一〇〇〇年ほど前に建てられた教会がたくさん残っている。いずれも「ロマネスク様式」で、壁が厚く、窓や入り口などの開口部は小さい。 フレスコ画のキリストや信徒たちは写実性を排して描かれ、まるで子どもが描いたかのような素朴さ、稚拙ささえ感じさせる。 人里離れた山奥にあって、知る人も少なかったが、ロマネスク様式の教会がヨーロッパでもほかに例がないほど集中していることから、「世界遺産」に登録された。 バルセロナの街を見下ろす丘に建てられたカタルーニャ美術館は、ボイ渓谷の教会の壁画を展示していることで知られている。壁をフレスコ画もろとも引きはがして運び、美術館の壁に貼り付けた。ロマネスク様式については世界でも有数の美術館と言われている。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「カルメさんはミロ美術館にも連れていってくれた。ジョアン・ミロは、ダリやマグリットらとともに「シュルレアリズム」の画家として知られる。ミロもダリもピカソも、ロマネスク美術を学んだという。一〇〇〇年前の美術が地下水脈のように流れ続けているのだと思った。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「バルセロナに住んで驚いたことの一つは、「田舎の別荘」を持っている人がものすごく多いことだ。日本の木造の家と違って、欧州の石造りやレンガ造りの家は一〇〇年後も二〇〇年後も壊れない。何世代も住み続け、相続人が結婚して都市部へ移った場合は、その家が新しい家庭の別荘になる。休日は別荘で過ごす人が多い。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「私たちの自宅がある建物は有名な建築家サイラッチが家族のために建てたもので、いまもサイラッチの子孫たちが各戸を所有している。入居した二〇一〇年のクリスマスに、子孫たちが手製の料理を持ち寄り、エントランスでパーティーを開いた。毎年の恒例行事だという。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「二年後、今度は「鍼灸師の国家資格」を取ると言い出した。がん治療に関する本を手当たり次第に読んでいたが、終末治療でモルヒネ系の鎮痛剤を使わず、鍼で痛みをコントロールする研究が進んでいるという。「モルヒネ漬けで死にたくないわ、鍼灸師になれば自分で鍼を打って痛みを減らせる」と言った。 国家資格を取るには鍼灸学校へ三年間通わねばならない。授業料などは新聞配達で貯めたおカネを使うから通わせてほしいという。私は事件取材を離れて少しはふつうに近い生活ができるようになっていたので、子どもたちの世話は心配するなと約束した。 鍼灸の本だけでなく、『臨床医学各論』『解剖学』などの分厚い教科書を積み上げ、赤線を引きながら読み込んだ。鍼灸では全身の「ツボ」を重視し、一〇〇近くある難解な名前を覚えねばならない。ツボの全身図をトイレの壁にも貼り、しょっちゅうツボの名前をつぶやいた。 幸い国家試験に合格し、卒業した。大きな鍼灸院に午前だけ勤めた後、自分の鍼灸院を開いた。私たちが住んでいた習志野市の公団住宅が、空き家のままだった数戸を居住者に格安で貸すというので、低層階の小さな区画を借りた。看板も出さず、口コミだけに頼っていたが、それでも週に一〇人くらいの患者が来るようになった。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著
「まったく違う後半生を生きようとする「一身二生」は、この心穏やかな日常を手放すということだ。不案内な土地で、不慣れなことに挑戦すれば、次々と問題に見舞われる。乗り越えられそうにない壁にぶつかり、途方に暮れることもある。 そのかわり、退屈とは無縁だ。何もかも自分の責任であり、自分で決める。後半生の定年は規則でなく、自分の判断で決める。続けられると思えば、いつまでも続けられる。 私とカミさんの試みを、長女は「豆腐アドベンチャー」と名付けたが、前半生と違う後半生を生きようとする人は、みんな冒険者なのだと思う。危険を承知のうえで挑戦するという意味では、ヒマラヤをめざす登山家や急流を下るカヌー操者と同じだ。」
—『バルセロナで豆腐屋になった 定年後の「一身二生」奮闘記 (岩波新書)』清水 建宇著