いちむらみさこさんは、わたしにとってはいちむら先生だ。20年ほども昔、わたしは会社帰りに絵画教室に通っており、そこで出会ったのがイチムラ先生だった。とても自由でindependentでpositiveな人で、わたしの描く絵に対しても詩的な言葉でアドバイスをくれて、アーティストってこういう人なんだなぁ、素敵だなぁと思っていた。
わたしが友人と発行していた『SOY POCKET』というZINE(フリーペーパー)についてもとても興味を示してくださり、励ましてくださった。京都で置かせてもらえそうなお店なんかを教えてもらったりもした。
そんないちむら先生がホームレスとして暮らしておられる。そのことはどこかで読んだ。
この本を読み先生の思いがよくわかった。なぜ自分が生きていたくない社会で苦しい生き方を強いられなければならないのかという叫びが聞こえてくるようだ。
p89
「復帰」する先の「社会」とはどういったところなのだろうか。会社に労働者として雇われ、かせいだお金で生きていくことが前提となっている社会。そこではひとりひとりの個人が生産性によって測られてしまう。そして肩書や地位、年収、成績や能力などによって価値づけられ、序列化されてしまう。
彼女は土地や物をもつということにも疑問を抱く。
p98
この地球の地面を誰かが「所有する」とはどういうことだろうか。土地の所有意識は、街に寝ているホームレスを、勝手に占拠していると見る意識につながり、ホームレスの存在を不安定にする。
惑星の上に眠る、その体のそばに食べ物、鍋、茶碗、箸を置いて生活をする。仲間を迎えて座るための敷物を広げる。体の存在によって占める面積は、生活を営むことによって広がり、誰かと共有する場所につながる。わたしがいるこの地面には、ここは誰のものでもない場所だという反発力と、だからこそ誰のものでもある場所だという引力が生じていて、共に生きていくために、どこにどのように軸足を置くのかを問いかけ、わたしたちの視界を広げている。
そして彼女はアーティストである。
高架下の段ボール小屋の周辺で火事が起こると真っ黒に焼けた壁と地面を何度も見に行き、そこにあった生活を思い浮かべる。そしてそこで野宿することにするが、通行人たちの襲撃にあう。
p123
わたしは、銀紙で星をたくさんつくり、黒く焼けた壁や地面、そして段ボールにも貼りつけて、キラキラさせることで防衛を試みた。蹴りたくなる衝動を星のキラキラで煙に巻く作戦。
なんて素敵、なんてクリエイティブなのでしょう。
最後の文章がまた素敵なのだ。
「ひとりでいる」ということは、さまざまな人や物、草木や山や海、そして、記憶や時間など、あらゆるものと自分との距離や違いを感じて、ひとりの自分を確認することです。それぞれのものとの「あいだ」には、いろんなかたちがあります。やわらかくて伸びちぢみするようなものでつながっていたり、霧がかかっていたり、固い岩のようなものがあったり。わたしは友人とけんかした時は、深い溝を感じますが、ある日突然そこに橋が現れたりすることもありました。毎日見かける木と葉そして自分のあいだに吹く風、そこにある光。また、思いだしたくないこととのあいだには、キーンと音が鳴るような闇があります。
そのように、わたしとさまざまなものとのあいだにさまざまな関係があり、その空間に気づくことによって、誰とも決して混ざることのないひとりの自分を感じます。
(略)
生きることの中で価値を決めるのは自分でありたい。生きさせられるなんて、もうこりごりだと思いませんか。
雨があがったら、乾いた落ち葉を集めて、地面に敷いて、スケッチをして過ごそうと思います。
あなたには何が見えますか?
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正直わたしにはホームレスとして生きたいという気持ちに共感はできない。安定した暮らしを求めてしまうし、そこでわたしなりに楽しく生きていける。
だけど夫に指摘されて気づいたのだけど、わたしも安定した職を辞したり、建売の家を買わずに建築家を家を建てるという選択をしたり、程度の差こそあれ、自分らしく自由に生きるための選択をしているのだと思う。
いちむらさんにとって、ホームレスでいることが彼女らしい生き方なのであり、であればそれはやはり尊重されるべきなのだと思う。
とても大変な生き方であることは間違いないけれど、そのくらい彼女がこの社会でいわゆる普通に生きることに、また福祉の力を利用して生きることにも向いていない、ということなんだろうと思う。