目から鱗の内容!確かに、大人が言う「聞く」、「読む」、「見直し」と子供の思うそれらは違うかもしれない。それらの言葉のかけ違いからうまれる学力の差、ひいては人間力の差を考えさせられた。親や教員は自分が発した言葉が発した意味通りに子供に届いているかを確かめる必要があるな。
p.73 はじめの三つの発言(話を聞かなくて叱られるのが嫌、聞き逃したら損をする、聞かなかったらわからないことが増える)は、すべて自分自身に関わるかどうかが問題になります。話を聞く総準にあくまでも「自分」です。でも、最後の発言は、話を聞く基準が「相手」にあります。「相手の存在そのもの」が聞くことの理由となっています。
内在する「相手意識」が、その子の聞く行為をうながしているのです。長年教育現場にいると、成長の伸びが顕著に見られるのは明らかに後者です。なぜなら常に意識が話し手に向いているということは、話の内容に興味があるかどうかは問題にはならないからです。
反対に、聞く理由が自分自身の損得にあるということは、自分との接点を話の中に見出せなければ、聞く意味はないと判断することになります。関心がなければ聞こうとはしないでしょう。だって、自分には関係がないのですから。
子どもたちは、最後に発言した子の「聞かなかったらかわいそう」という意見から新たな価値観を手に入れることができました。
ここであらためて、子どもたちが挙げた聞く理由の一つひとつに目を向けてみてください。はじめに抱いていた「聞く」ということばの意味と価値をふまえると、いかにことばの理解が成長に大事なものかがわかるはずです。
p.111 ひらがな復習が教えてくれる学習への姿勢
ひらがなを書いているときに学んでいるのは、字そのものだけではありません。字を昔く練習を通じて、学習に向き合う姿勢を育んでいます。
だから、字がていねいな子で落ち着かない子は、あまり見られません。じっくりと物事に向き合う学習習慣がある子は、基本的にはどんな学習でも注意深く取り組むようになります。
一般的に「学ぶ」の話源は、「真似ぶ」とされています。昔から「まねをすること」は学びの基本なのです。技術の上達のためには、弟子は師匠と同じようにまずはやってみる姿勢が父かせないということですね。
スポーツでも武道でも基礎・基本が大事であることはいうまでもありません。応川は基礎・基本の積み重ねで成り立っています。体操でも、いきなりバク転の練習からはじめないでしょう。体の使い方を少しずつ学んだ結果が、大きな技の習得につながるのです。
p.129 まれに書かれた名前が雑であっても、いい点数をとることはあります。でも、何らかの生活上の課題を抱えていることもあるのです。
日々、名前をていねいに書く習慣がついていない子は、漢字でも計算でも間違いなく取り組みがいい加減になりがちです。自分が取り組んだものは提出するものであり、必ず誰かが目を通すものだという感覚があれば、多少の気は遣うでしょう。提出物に書かれた名前を見ると、子どもがさきをみているかどうかもわかるものです。…
伝わるものです。
一方、大人になると、自分の名前を手で書く場面は子ども時代よりも少なくなるものです。仕事の場合は、押印で対応することもあります。
一般的に署名をするのは契約書や婚姻届、出生届など重要な節目が多いでしょう。そのとき、自分の名前を書くことの責任と怖さを痛感するはずです。今から行おうとすることを「私自身が認める」という意味なのですから。だから、本来「名前を書く」行為は、一定の緊張感がいる作業なのです。
この感覚の素地を養うために、関わったものに責任をもつことを子どもに教える必要があります。宿題やプリントなどの提出物であれば、それは自分の責任のもとに提出をするのです。そのための記名なのです。
名前は子ども自身が書くことばの中で、特別大事にしなければならないものです。何より自分自身をあらわしているのですから。子どもに名前をていねいに書かせることは、ことばの学びの土台となるものです。
これまで確認をしてきた通り、子どもの「書く」という行為には、さまざまなことばの理解が関係しています。子どものノートやプリント、テストには学びの足跡が見えるものです。
「もう書けたよ」ではなく「まだ書けていません」という子の方が、実は多くを学んでいることがあるのです。
p.141
気持ちが落ち込む場面の台詞であれば、明るい声では読まないですよね。物語の流れが分かっていれば、時間や空間の移動をともなう場面の区切り目では、少し間をとることもあるかもしれません。内容や形式の理解が読むことに必ず反映されるはずです。
けれども、ただ音声を聞いただけでは、本人がどのように理解を深めているかは正確にわからないものです。…
とばの理解が一つの原因にもなっています。
すらすら読めるということは、裏を返せばそこにひっかかりがないということです。
なぜなら、声に出して読むこと自体が目的になっているからです。
しかし、ことばの意味を慎重に吟味しようとすれば、「この台詞は、もう少し声の大きさを抑えて言った方がいいかな」、「場面の雰囲気を出すためにも、ここはゆっくり読もう」などと読み方を考えるはずです。だから、むしろつっかかった方が読めているということもあるはずです。
慎重に子どもの「読む」という行為を解釈すれば、音読が上手な子は「文字を読めてはいる。でも、内容はわかっていないかもしれない子」とも言い換えられるのです。
p.163 では対応できるはずがないのです。
一方、「読む」という行為を支えている土台は、ことばだけではありません。
「どうやってみをまもるのかな」という説明文では、具体例の順序について考えました。順序の理由を思い描くためには、ことばを手がかりにして筆者の考え方に近づく必要があります。これは相手意識がないとできるものではありません。
「聞くこと」をとり上げた第2章でも相手意識の重要性について話をしました。人に対する興味や関心の高まりが「聞くこと」を促進させるのでしたね。だから、本来「聞く」という行為は、受動的ではなく、能動的なのです。
書き手の立場に立って、思考をなぞりながら考える「読むこと」は、「聞くこと」にも通じています。読みながら、見えない筆者に聞いているのです。これは話しかけていると言ってもいいでしょう。読者がやっていることは筆者との対話なのです。
さらにいえば、順序の理由をイメージできる子は、自分自身が文章を書くときにも、どのような文章構成にすれば読者が理解しやすく、自分の主張が届きやすいかを考えられる子です。だから、筆者について考えることは、自分自身をふり返ることにもなるのです。
p.172 から、1年生の散室であれば、①は「がったい算」、②は「おっかけ算」なんて勝手に名称をつけながら、その違いを動きで理解をさせることがあります。
①のときには両手をバンザイするように掲げて、くっつける動作をします。②であれは、片方の手を挙げ、あとからもう片方の手をくっつけるのです。動きは違うけれど、結果として同じことになるね、と。だから、「+」を使っていいんだね・・・・・といった感じです。
p.178 計算方法を手順として知っている子は、商(わり算の答えのこと)が「2.125」であることがわかるでしょう。トリルなどで計算問題をある程度こなしている子にとっては、難なく解けるかもしれませんね。
Aくんは、習った手順通りに計算をしました。最後に、見直しをするべく筆算に書いた数字と解答用紙に記入した数字を見くらべています。二つの数字が合っていることを確認すると、すぐに鉛筆を置きました。
「できましたー答えは 2.125です!」自信満々な様子です。
Bくんは、筆算が終わって次のように考えました。
「えっと、これって大体7小大体3になるから、答えは2に近くなるっていうことだよね。うん、2125なら、やっぱり合っていそうだな・・・・・・」
はじめに答えの見通しをもつことを「見積もり」と言いますが、Bくんは解いた後に若えを真集でたしかめたようです。
Cくんは、筆算が終わって水のように考えたようです。
「よし、答えは2.125だった!・・••でも、合っているかな。…・念のため、たしかめもしておこう。2125✕32・よし、68になった」
慎重派のCくんは、着実に検算(たしかめのためにもう一度する計算のこと)もしています。二回くり返し同じ答えになったことで、安心して計算を終えることができたようです。
三人の男の子たちの計算は全員答えが「2125」であっています。だから子どもたちは口々にこのように言います。
「見直ししたよ!」
しいかがでしたか。明らかに「見直し」ということばの意味はずれています。
あらためて、それぞれの「見直し」の意味を確認してみましょう。
Aくんであれば「記入漏れをチェックすること」になりますね。これは最低限の見直しともいえるでしょう。
p.182 「うん、兄直したよ」
「どれどれ…・・・・これ提出するのよね。だったら、もう少していねいに書いた方がよくない?これを見て、先生はあなたのことをどういう人だと感じるかしら。どこを直したら、もっとよくなると思う?」
普段から子どもに一見直し」が誰か(何か)につなかか行動だと具体的に教えていれば、「見直し」という意味は「自分や誰かのために、万全を期して確認をする」という内容になるはずです。当然、先はどの例よりも高い基準で見直しをするようになります。
すでに紹介した通り、子どもの成長には「相手意識」が関わっているのでしたね。
生活の中で学んでいる「見直し」の基準に照らし合わせて、子どもは計算練習で実践をしています。先はど「学校に行く準備を自分ですること」が「計算が正しくできること」と関係していると伝えました。細心の注意をはらって持ち物の確認をしている子は、計算の場面でもミスがないかをくり返し見直すでしょう。
こうした一見関係のない習慣が、テストにも響いてくるものです。「生活」も「学習」も「見直し」という観点から見れば、深いつながりがあるのです。
p.197 もちろん、はじめに「\+!」で解いた子もいるでしょうし、「ムーA」のほうが思いつかなかった子もいることと思います。ここで押さえておきたいのは、「一つの解き方しかできなかった子」と「二つの解き方ができた子」が、ともに同じ「できた」という感覚を抱いているという事実です。「一つの解き方しかできなかった子」は、むしろコできなかった」という感覚」を抱かなければいけない場面ともいえるでしょう。