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三浦準司
ジャーナリスト。1948年東京生まれ。1972年東京大学経済学部卒業。同年、共同通信社に入社。京都支局、社会部、外信部。85-88年ナイロビ支局長、91-01年ロンドン支局長、08-11年記事審査室長、11-16年「英語子ども新聞」編集長などを務める。
ジャーナリストは10を聞いて1を書けといわれている。取材テーマについて幅広く、そして深く知れば、それだけ自信を持って原稿を書くことができる。記事になっているのは氷山の一角、書かれなかった9割がそれを支え、厚みある記事になる。 逆に1を聞いて10を書いたりするのはもってのほか、上げ底の誤った記事(「誤報」)になってしまう。記者が何よりも避けなければならないことだ。
さらに、匿名で情報が飛び交うネット空間では、無責任な陰謀論も好まれがちだ。「受ける」話は増幅していく……。都市伝説もネット空間では人気トピックス。ネット情報を頼りすぎて、ウソまでマコトと信じてしまわないよう気をつけよう。
有名な作家、芥川龍之介の短編小説に『藪の中』がある。盗人に殺された武士とその妻の話だけど、登場人物3人の話が食い違っていて、どれが真実かわからないという小説だ。この小説から、関係者の言うことが食い違っていて真相がわからないことを「藪の中」というようになった。 この小説を読むと、人はそれぞれが自分の保身のためにウソをつくことがあるのがわかる。世の中にはこういうことはよくあるね。ウソとまでは言わなくても、自分に都合の悪いことは言わなかったり、誤った情報がまぎれこんだりする。主観が入り、目撃者がみんなそれぞれの「事実」を持っていることもある。 だから「1に確認、2に確認、3、4がなくて5に確認」がジャーナリストの合言葉なのだ。
朝日新聞が1982年9月2日に報じた「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」という従軍慰安婦問題の記事は、証言者が話をでっち上げていたために起こった誤報だった。ウソの話にだまされて1980~90年代に何回か大きく取り上げていた。途中で信ぴょう性がないことがわかったにもかかわらず、正式な訂正記事の掲載は2014年だった。ずるずると引き延ばした結果、大きな非難を浴びることになった。
行くことによって、その国を肌で知ることができるからだ。一度でもその国に行って、3日でも4日でも人に話を聞いて、街をうろついて、原稿を書くために必死で取材すると、その国が少しずつわかってくるのだ。
ぼくらは旅行などでテレビや写真で見た場所に行ったとき、想像していたイメージ、情景と全然違っていて、その意外感に驚く経験をする。その驚きが旅行のおもしろさかもしれない。 一度訪れた土地の本を読むと、不思議と吸収力が違う。まさに百聞は一見にしかず。「現場を踏む」と、自分はその土地の一部となり、知識を100倍増やす。 やはりジャーナリズムの神髄は「行って、見て、書く」だ。
しかし、客観的に報道することは簡単ではない。まったくかたよりのない人間、先入観を持たない人間なんていないし、興味や関心の方向もまちまちだ。 だから、どんな記事も、それを取材して書いた記者のフィルターがかかっていると思った方がよい。どういう記事にするか、どう書くか、何をポイントに書くかは、記者個人によって変わる。 そもそも、テーマを選ぶ段階から主観が入っている。どちらかに肩入れしているのがにじみ出たり、その考え方が記事の切り口に反映されたりしているものも見かける。
朝日、毎日、東京の3紙がまだ審議を尽くされていないのに強引に採決をした、という主張を込めているのに対し、読売、産経、日経は、採決されたという事実だけを淡々と伝え、批判的なニュアンスが入らないようにしている。 また、その3カ月後の12月19日に各地で行われた安保関連法反対デモについての報道を見ると、朝日、毎日、東京は伝えたが、読売、産経、日経は、記事そのものを載せなかった。 出来事を、ニュース価値のあるものとして伝えるかどうかの選択にさえ、送り手の判断が入っているということだ。どちらの側もぼくらを(世論を)誘導しようとしているように思えてくる。でも、どちらかだけしか見ていなかったら、書かれなかった情報は知らないまま、「これが客観だ」と誤解してしまうかもしれない。
客観報道に対しては、別の側面からも批判がある。それはあまり「客観、客観」といっていると、ジャーナリストが考えることをやめて、発表者のいいなりの記事を書くだけのロボット記者になるという心配だ。
問題は一般人の犯罪の場合だ。残酷な犯罪をこれでもかこれでもかと報道されては、気がめいったり、人間不信に陥ったりするからニュースを見たくないという人もいる。 一般市民の犯罪も報道するのは、新聞などで名前が出るのを心配して人びとが罪を犯すときのブレーキになるからだというという「抑止理論」もある。でも、犯行の瞬間、理性が失われていると考えると、その理論にも無理がある。
ネット情報は玉と石が混じり合っている。素晴らしい玉もあれば、取るに足らない石もある。一般市民が情報を発信するのだから、信頼の置けない情報が混じるのは当然といえば当然だ。でも発信できるようになったことは悪いことではない。自分の考えを外へ向けて、より広く表明することができるようになったのだから。表現の自由の可能性がふくらんでいるといえるね。では受けとる側はどう防衛したらいいのか。ぼくらは整然と組まれた文字でネットに載っていると、うっかり信用しやすい。でもよく考えるとここで発信された情報は、何の裏付けもなかったり、うわさや憶測、個人的な意見を事実かのように出したりしているだけという場合もあるかもしれないのだ。そういう情報に接するときは、100%信用はできないかもしれないという心構えを常に持っておこう。どういう情報であれ、接するときには、その情報がネットに「載っている」こと自体は事実だとしても、その情報自体が事実とは限らないという前提で受け止める姿勢が必要だ。鵜呑みにしないことだ。このようなネットリテラシーを磨いていかないと、誤った情報におどらされ、それをぼくらが助長してしまうことにもなりかねない。だからといって、新聞、テレビを頼りにしなさいとは言わない。新聞だってすべて信用ができるわけではない。ネットより遅かったり、古くさい考えに縛られたりしているかもしれない。しかしマスメデイアの場合は、少なくともギリギリまで「ウラ取り」した上で発信している。両方のメディアの特性を考えながら自覚的に情報と接し、発信していこう。
何でも調べられるので、ついついネット依存になり、逆に検索に振り回され、じっくりものを考える時間もなくなってきてしまった。 それに、時間をかけて調べないので、すぐ忘れてしまう。記憶するというと、ただ知識を詰め込むだけというイメージだが、応用力を働かせるのには、自分が努力して獲得し、身体にしみこませた知識が絶対に必要だ。そのために記憶力は重要な役割を果たしている。
ここが重要な点なのだが、ステレオタイプは複雑なことを簡略化しているので、思考を停止させてしまう。本当にしっかり考える際には邪魔になるという点だ。 世の中はそんなに単純ではない。集団ではなく個人として人を見ればそれぞれ違うのに、ひとくくりにしてしまったら、本当のその人が見えなくなってしまう。差別や偏見にもつながる。
2016年、イギリスのEU(欧州連合)離脱をめぐる国民投票や、トランプ氏が勝利した米大統領選の選挙運動の中でウソが堂々とまかり通り、それを多くの人が信じるという、驚くべき事態が発生した。
次に「ぼくはこういう考え方が正しい」という信念を持ったときに、異なった意見に耳を傾けるのを避けていないかも確認しよう。ぜひ実行してほしいのは、自分が思っているのとは違う意見にも耳を傾けることだ。意見というのは、どちらかが完全に正しくてどちらかが完全に間違っている、というものではない。それぞれにそれぞれなりの言い分があるはずだ。いろいろな考え方に触れる中で、より考える力をつけることになるだろう。
ポピュリズムが広がった理由
アメリカではグローバル化で職を失った人々の怒り、ヨーロッパでは中東などから移民が大量に流入したことへの不満がその根っこにある。
最後に、世論に関連してもう一言。ぼくら市民が、ソーシャルメディアの普及で発信力を持つようになって、ジャーナリズムは大きな転換点に立たされていることに触れておこう。 これまでは、わずかなプロのジャーナリストの手に握られていた発信力をぼくらみんなが持つようになったのだ。だから「問題あり」の報道があれば、「これは問題だ」「わたしはこの情報はまちがっていると思う」といった異議申し立てや修正のコメントがツイッターなどを通じて発信され、あっという間に世間の知るところとなるはずだ。 これは大変いいことだ。情報のプロの目をぼくらの視点、目線に近づかせ、ジャーナリズムをもっと信頼あるものにするのはぼくらの肩にかかっているといえる。