大まかな要約です。
①「いつ頃から?」ではなく、直接「なぜ?」とたずねてみる
なぜ?は完結に話が終わってしまいます。
けれど、いつ頃?とたずねれば、更に深く、その当時を振り返りながら話してもらえるので、具体的、かつ印象的なストーリーに感動し、共感できる言葉を引き出せます。
②「文字数」と「時間」の制限をかける
SNSの投稿や、時間問題などが分かりやすい例であるように、140文字以内といった制限があれば、要約をしやすくなります。
また、時間制限は、納得のいかない成果をしっかり見つめることで、改善点をむしろ素直に認められるようになり、更に向上していけます。
③自分自身を客観視する
このとき大切なのは、自分が欠点だと思い込んでいたことを、無理に克服する必要はないということ。
短所も長所も、いわば「特徴」「個性」です。
これは決して、綺麗事ではなく事実です。
例をあげますと、
先行きがいつも不安になる人は、
だからこそ精緻に物事を調べられる
とも言えるはずですから。
根拠のない自信のように、
そんな自分に出来ることは?
と、視点を変えるだけでいいのです。
④書いて、減らして、まとめる
読んでの通りです。
初めから器用にまとめようとせず、
とにかく書いて、
必要なものを選びとって、
それ以外を減らして、
最後にまとめる。
単純な結論だけに見落としがちですが、
実は一番大切なポイントかもしれません。
⑤『年齢層』『男女』『学生』『社会人』そうした売り込みのターゲットの思い込みをあえて外してみる
これは全くその通りだと思いました。
〜なら、〜だ。という前提は、それしか選択肢がなかった頃の考え方です。私は縄文時代が大好きですし、『お金の向こうに人がいる』田内学 を読んだ後ですと、他の人が働いてくれるから私が休めるのだと、はたをらくにするから、はたらくなのだと、理解しています。なので、仕事は自信を持って好きだと言えます。
一方、仕事だけが生き甲斐と思われがちな、池田勇人総理の当時の人々に比べ、今は他にもさまざまな生きがいがあることは事実ですし、そうした気持ちで生きていらっしゃる方も大勢いるであろうと、私以外の感性をあらかじめ受け入れる用意もまた、つつがなくしております。
つまり、大切なのは、仕事をするからには〜、といった条件に囚われた先入観ではなく、そもそも時代も条件も、ときの流れとともに変わるものですから、
《あらゆる時代や条件に関わらず、人が幸福を感じられる「知的好奇心」にこそ、販売価値を見出す方が良いということ》
これはまったくその通りだと思うのです。
誰かに喜んで欲しい、
互いの気持ちを分かち合いたい、
大切に思うことをよりよく発展させたい、
今あることを変わらず守り続けたい、
さまざまですが、結局は、その人が幸福を感じられるための知的好奇心、知的財産を助けるということに変わりありません。どれだけAIが発展しても、人間がそこに必要とされるのは、おそらくきっと、こうした幸福の王道を人の目線で見つけられるのは、やはり同じ人間しかいないからなのだろうと思います。
願わくばその幸福を見つめる眼差しが、人間の暮らしだけのひとりよがりではなく、戦後焼け野原になっても木を植えてくれた陛下やご先祖様の努力があるように、砂漠となった異国の地に緑を戻そうとする人々がいるように———あらゆる生命にとってのやさしいものでありますように。
(ここでは詳しくは述べませんが、地球温暖化も、そのデータの信憑性はあまり高くないとする説もあります。実際、地上、海水、気温を管理する調停役として最も器用に働いてくれるのは、草木、樹木です。それらを、クリーンエネルギーのために切り倒し、無意味に捨てている事実は、果たして本当にクリーンエネルギーなのでしょうか?温度を人にとって、生き物にとって住みよく管理してくれる緑を破壊し、微生物を死滅させることが、むしろ故意に温暖化を引き起こし、環境問題を訴える人々の利権に都合がよい疑いはないでしょうか?
前後関係から意味を類推する訓練も大切だと本書では語られました。こうした環境問題の美辞麗句の裏にある大きな思惑もまた、初めからあり得ないとせず、データに基づいて考えてみて欲しいです。
どうかよろしくお願いいたします)
以下、個人的な雑記です。
興味があるお方はどうぞ。
貴重なお時間をいただき、
ありがとうございます
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目に浮かぶような臨場感で言葉にすることができると、今そこに居合わせている、実際に自分で体験、実現できたものだと脳は錯覚する___この機能を使って、相手の共感と俯瞰したメタ認知を使い分けながら、共に協力して目的達成へと向かう。
こうした工夫が学べると思います。
そして、本作はノウハウ本ですし、筆者もまたそうしたノウハウ本を要約する職業に就いてらっしゃるので当然なのですが、小説はこうしたことの例外とされていました。
とはいえ私はむしろ、「脳は実際に体験したと錯覚する」ことは、小説にこそ最も役立つ感覚だと確信しました。私が尊敬する本居宣長先生は、感情を喚き散らしたところで大人は聞いてはくれないから、だから詞を工夫して、和歌を上手にさせてきた一方_____本当の和歌の由来とは、まさに前述にある通り、喚き散らさずにはいられない、誰かに分かち合えずにはいられない、持て余した感情をただ、歌いたい、詠みたい、書き記したいという気持ちがカタチになったものだと教えてくれています。だから彼は、漢文のノウハウを多く取り込み、教養的価値が高いとされる万葉集よりも、より感情的で情緒的な古今和歌集や源氏物語に影響され、好ましいものとしていました。
なので、私にとって小説とは、まさに本居先生の和歌と同じなのです。どうして小説家などという、先行きの約束されていない不安定な職業に就いたのでしょうか?ベストセラーのヒットが予言者によって約束されていたのでしょうか?それともそのような大賞を取らせるよう裏で資本家と司法取引をしていたのでしょうか?(※オバマ元米国大統領のノーベル賞は金融資産家・ジョージソロス氏による金銭的援助が大きな要因であったとされる説は実際にありますし、これに関しては証拠の数の多さから信憑性は高いかもしれません)
それこそ現実は小説より奇なりといったことは滅多にございませんものでして・・・、ただ、かきたい、ただ伝えたいことがあったのみ、それだけの理由で小説家になったのだと思うのです。それは脚本家も、アニメーターも、漫画家も、芸術家も同じです。そうして彼ら、彼女らが情熱一つで志して、命を懸けて作った作品から、キャラクターから、セリフから、私たちが受け取った感覚や感動、考え方というのは、まさに「脳が実際に体験したと錯覚した」からこそ、奥深く刻まれ、架空だから、他人事だから、とあえて言い訳じみて退けることなく、我がこととして大切に学び、現実に生きるノウハウとしてしっかりと持ち帰ることが出来るのだと思います。