退職してから半年が過ぎましたが、本の整理をまだ続けています、目処が立ってきたのは嬉しく思っています。
記録がないので記憶を辿ると、この本2年ほど前に読み終えた本です。版籍奉還、廃藩置県を経た後の統合、そして分裂(統合された県からの独立)について興味深い内容が満載です。
以下は気になったポイントです。
・新政府が樹立した翌年の1868年4月、まず地方組織としての「府藩県三治制」の地方統治制度を取り入れた、旧幕府の領地を没収して政府の直轄地としてそこに3つの「府」と41の「県」を置いた。しかしこれで国土の全てをカバーしたわけではく、全国には依然として多くの藩が割拠し、藩主は絶対的な権限を有していた。しかし新政府の方針に従わない藩も少なくなかったため、このままでは中央集権国家の構想も絵に描いた餅になりかねず、早急に諸藩を解体する必要に迫られた、そこで1869年6月に、薩長土肥の主導で、各藩が版(土地)と籍(領民)を朝廷に返上する「版籍奉還」が行われる(p18)
・1871年7月には、天皇は在京の56知藩事を皇居の大広間に集めて、廃藩置県の詔を申し渡し、在藩の知藩事には上京を命じた、武力を背景(薩長肥)に断行されたので抵抗はほとんどなかった。諸般の財政が困窮していたこともスムーズに行われた理由である。これにより全ての藩が消滅し、261の藩は県となり、先に置かれた3府41県と合わせて、日本の行政区分は3府302県になった(p19)
・1875年琉球処分を命じたが琉球政府はそれを拒否し続けたため、1879年に琉球藩を廃して沖縄県を設置、国王尚泰を追放し、これにより琉球王国は滅亡した、しかし清国は受け入れず、琉球の帰属をめぐって両国の対立は続いたが、1894年に勃発した日清戦争が日本が勝利したことにより正式に琉球諸島全域の日本帰属が確定した(p24)
・廃藩置県後、3府302県という自治体数は多すぎる(江戸時代の4倍以上)ので、1871年11月に大規模な統廃合が行われた、その際に重要視されたのが、旧国の境界である、そして3府72県に統合した。この中で現在も存続している府県は32ある(p26)1876年の統廃合では3府35県まで激減した、財政基盤の弱い県を隣県に併合した(p29)
・県庁所在地の横浜と神戸が所属する郡名から取ったわけではない、件名は都市名に由来している。神奈川県の県庁所在地の横浜市は、江戸末期に港町神奈川のはずれにある横浜村、兵庫県の神戸市も港町兵庫の外れにある神戸村に開港場が設置されてから発展した。両都市のルーツは、神奈川であり、兵庫であった、なので横浜には神奈川区、神戸に兵庫区がある(p33)
・戊辰戦争などで官軍(新政府軍)についた藩は城下町の地名をそのまま県名とさせた、旧幕府軍側についた藩は、たとえ大きな都市でも城下町名を名乗らせなかったというのが理由と伝えられているが、それは俗説に過ぎないとも言われていて、本当のところはよくわからない(p33)
・現在の日本の人口は太平洋ベルト地帯に集中していて日本海側は人口が希薄な地域であるが、かつて日本一人口が多い県が北陸地方にあった、石川県である。当時の石川県は、越中(富山)越前(福井)も管轄し、1880年(明治13)の人口は183万人で、東京や大阪よりもはるかに人口の多い日本一の大圏である(p41)
・宮崎県が鹿児島県に併合された翌年の1877年2月、西南戦争が勃発した、新政府の改革に不満を持つ鹿児島県の士族らが蜂起した反乱である。宮崎県が他県に比べて大きく立ち遅れている姿勢を見た参事官は宮崎県を独立させた方が発展するとして、政府は宮崎県の分県を容認、1883年5月に宮崎県は鹿児島県から独立した(p50)
・1869年9月に北海道を11カ国(渡島、後志、胆振、日高、十勝、石狩、天塩、釧路、北見、根室、千島)に区分し、1882年7月に、函館県・札幌県・根室県を設置、1897年10月に19市長に設置した(p59)
・1868年7月に成立した東京府の面積は驚くほどの狭さであった、江戸町奉行の管轄地域であった「朱引き」が東京府だったので。現在の東京23区の20%にも満たない範囲であった、東京府に隣接する地域は武蔵県と呼ばれ、翌年には、小菅・品川・大宮県などに分割された、品川県・小菅県などが1871年11月に組み込まれ、東京23区の範囲が東京府となった、1943年に都制が敷かれて東京都となり、東京市は消滅、戦後1947年3月には35区が22区に統合、同年8月には練馬区が板橋区から分区して23区となった(p62)
・淡路島は廃藩置県当時は、阿波国と淡路島の南半分を領域とする徳島県が誕生、同年11月には全域が徳島県の管轄となり件名は、名東県と改められた、1873年には香川県を併合したが1875年9月には香川県が独立、1876年8月に名東県は高知県に併合されて淡路島は兵庫県に編入された、大きな理由として1870年5月に発生した稲田騒動が最大の原因と言われている。稲田家は分藩行動を起こした罪として北海道移住開拓を命じられ、開拓費用は徳島藩が負担するものとしたが、財政難なので政府は稲田家全高を兵庫県に管轄させて開拓費用も払わせた、江戸時代から古い繋がりのあった阿波と淡路島が切り離された(p68)
・三多摩が東京都に加えられた理由は、三多摩には緑地帯が多く、東京が理想的な都市を目指す上で欠かせない存在、首都防衛の面から見て三多摩は軍事施設の移設地として適している、災害時において避難地になり得るなど、メリットが大きかったから(p85)
・殆どの県は1国、あるいは2国で構成されている、兵庫県は6つの国から成る、但馬・丹波・淡路・摂津・播磨・備前である。1963年に福浦地区(備前の一部)が赤穂市に編入された(p111)
・県興未確定地は23都県にある、未確定の面積は岩手県レベルの広さで日本総面積の4%を占める、県境・市町村境も100%確定しているのは、栃木・福井・奈良・島根・山口・徳島・愛媛・高知・長崎の9県のみ(p180)
2022年10月20日読破(推定)
2024年10月23日作成