さらっと読めて、勇気が出る。とても元気になれる書でした。大阪のきもったまかあちゃんが、自分の過去も弱みも全部を綴っている。なかなかできることではない。
p.126 なんで自分は歩かれへんのに、つかさは歩けてるのかって思ってる?そうやな。この家族で歩かれへんのはあんただけや。亮夏、義足ってわかる?それもさぁ、その人の悪やろ?例えば海外では足が欠損していて、スケートボードを使って、手手こぎながら歩いてる人も居るな。それもその人の歩くやんか。じゃぁ亮さんの歩くってなんや?車椅子…確かに義足で歩く人も、スケートボードで歩く人も、車椅子で歩く人も、自分の足で歩く人より少ないかもしれん。でも少なかったらあかんのか?少ないからあかんとか、多いからいいとか、そんな関係ないのと違うか。やろう?ある方なんか人それぞれやん。ママは足。亮夏は車椅子。それだけのことや。でもなぁ、ママはこう思うねん。人と違う亮夏やからこそ見える景色があるんじゃないかな。人と違う両家やからこそできることがあるんじゃないかな。それは今何かと言われても、ママにもわからん。すぐに見つかるかどうかもわからん。でもきっとある。それは何か、一緒に探していかへんか?
p.146 綾さんさぁ、小学校の時から生徒会やってみたいと思ってたん?…思ってない。へーそうなん?なんで?…自分にできると思わなかった…中学生になったらできると思うようになったん?…なった。…笑、なんで?…役に立ちたい。…役に立ちたい?誰の?…友達。
そういうことか…。小学校時代、彼はできない亮さんで守ってもらう立場だった。だが、支援学校では彼よりもっともっと重度障害があって、生徒の間で生きている子供たちも在籍している。クラスメイトと言う環境が変わったことで、いつの間にか良さは守られる側から守る側に変わっていたのだ。その変化が彼の心を強くさせ、チャレンジ精神を刺激したのだとわかった。人は置かれた環境次第でこんなにも変わり、成長できると言うことを初めて目の当たりにした。
・どのような環境に身を置くのか(選択)様々な理由で選択ができなかったとしても、
・置かれた環境をどう理解し、その中で何を行うのか(解釈・行動)、私たちの日常には成長できるチャンスがいくらでもあるのかもしれない。きっかけさえあり、やってみたいと言う気持ちに応援してくれる人さえいれば、人は180度も変われる力を持っているのだ。
p.185 自分は人と違う。なぜ僕は車椅子なのか。なぜ僕は尿瓶なのか。なぜ僕はしゃべれないのか。なぜ僕は歩けないのか。なぜ僕は障害者なのか。
「あんた、腐りなや。人と自分は何で違うねんて、なんで俺は障害者やねんて思ってる?そんなんな、誰かと同じ人間なんかどこにもおらんねん。ママはずっと自分に自信なかって。だって今まで何一つ自分で決めてきてないから。全部お父さんとお母さんが喜ぶことだけを考えて行動してきたから。ママの中身は空っぽやって。でもやっとこの年で自分のやりたいこと見つけた。今まで経験してきて嫌やったことも嬉しかったことも全部含めてママやん?そんなままだからこそできることをやっと今見つけられて。亮さんも同じやで。車椅子に乗ってるとか、障害があるとか、そんなん全部含めて亮さんやん。嫌や言うても、それが良さや。でもだからこそ亮夏にしかわからんことがあるねん。亮さんにしか言われへん言葉があるねん。亮さんにしかできないことがあるねん。車椅子や障害あるとか、大事なのはそこじゃないね。亮さんにしかできないことを見つけ。焦らんでいいから。必ず何かあるはずや。良さはまだその旅の途中。だから、あんた腐りなや」
人と比べて、落ち込んでしまう事は誰にだってある。この間まで何とも思っていなかったのに、急に気になる出すことだってある。家庭や生活環境、外見、能力、学力、考え方、友達、人脈、認知度、いいねの数。比べ出したらキリがない。でも、比べてもそこを幸せなんて1つも落ちていない。だって比べる相手は他人ではなく、自分なのだから。昨日の自分と比べて、去年の自分と比べて、今の自分はどうか。少しでも成長できていたら、それって素晴らしいんじゃないか。人と自分は違う。自分らしさは自分の中にある。誰かと比べて落ち込んで腐るなんて、もったいないじゃない。
p.198 あんた、またびびってんの?よし。君の不安を聞いたろう。ダラララララ…ダン!第一位は?…先生。先生?なんでや?誰か嫌いなん?ほんならなんや?あ、わかった!うまくやってもらわれへんかも、とか?あ。それはなぁ。それは無理やで。やってもらおうとか思ってる。うちは無理やで。あのさぁ。高校の先生は支援学校の先生じゃないから。勉強してるのが専門やから、ちゃんと抱いて欲しいとか、ちゃんとやってほしいとか、そんな思っても無理やで。やってほしい。わかってほしい。そう思ってるはしんどいね。あのなぁ。1個聞くけど、あんたはどうするねん?相手にやってやってって。あんたは何するねん?もしかしてあんたは何もせんつもりか?あんたはまってるだけか?あの人が悪いとかあの人がわかってないとか、そうやって人のせいにする時ってな、大体自分がなんもしてやってない時や。人に任せきりやからな。その人のせいにしてしまうやん。あんたは?あんたには何ができるの?ちょっとでも抱きやすいように、足を曲げるとか、力入らんようにリラックスする努力するとか。自分でできる事は何かをその時考えて、やってごらん。そしたらな、誰かのせいにせんで済むわ。待ってばっかりおらんと、自分でやることやっておいで。待ってる時が1番しんどいんやで。友達もそう。誰とでもそう。何もできないわけじゃない。亮さんだからできることがある。全ては亮さんの心1つやで。キャンプ行けたやん!大丈夫。笑って帰っておいで」
p.226 自立は依存先を増やすこと。
例えば、障害のある子供たちにとって、依存先が親しかいない状態だと、親が亡き後どうやって生きていくんだと不安になる。だからこそ、親しかダメだと言う環境をどれだけ早い段階で手放し、親が生きていようが死んでいようが、誰でも困った時は力になってくれる環境、もしくは状態を作っておくことができるかが大事なのだ。だが、これは、障害の有無にかかわらず、すべての人に当てはまると思う。その点から言えば、今回の一人旅も、まさに、旅先で出会えたたくさんの皆さんに助けられながら達成できた。自立とは、決して1人で何かができるようになることではなく、きっと多くの人とともに実現できることなのだ。
子供を守るって何かが起きないように体を守ること。でもそっちじゃなくてこっちがいいよと。一応用意しておくことでもない。子供を守るっていうことは、子供の気持ちを守ることなのだと私は思う。勇気を出したり、チャレンジしたり、、1歩前に踏み出そうとするその心を。踏み出した結果、折れそうになったり、自分を褒めたいと思っている。その心。そんな子供の心を守る。それが私理の守るだ。親なんて結局、信じて待つことしかできないのかもしれない。それにしても信じるって疲れるわぁ。
p.254 「僕たちは涼太さんと出会って、まだ間もないので、綾香さんの言葉や、伝えたい気持ちが正直それほどわかるわけではありません。でも堀江さんはおそらく誰よりも岡さんのことをわかっていらっしゃると思います。そんな堀江さんでも、涼香さんの気持ちや言葉がわからない時はありますか?」わかるわけがない、と思った。全部わかるなんてありえない。自分の子供だから、何でもわかるなんて、そう思うことだけは絶対避けたいし、してはいけないと思う。「だから聞くんです。何度も何度も考えがわかるまで聞くんです」そう答えた。
彼がまだ幼かった頃、彼の言葉がわからなかったけど、何度も言わせるのはかわいそうだと決めつけて、適当にわかったふりをしたことがあった。そしたら、「わかったふりをされることが1番嫌なんだ」
で彼から言われてしまった。だからやめた。表面だけでわかった。ふりは絶対にしないって決めた。わかり合いたくて、何度も2人で喧嘩した。わかりたいのにわからない。伝えたいのに伝わらない。たった1つのくだらない質問なのに、冗談から始まったたわいもない。会話のつもりだったのに、夜だけ言葉を変えても、どれだけカードや文字盤を使っても、言葉答えが見つからない。気がつけば笑顔もなくなり、真冬なのに2人とも汗だくになってた。怒って、怒鳴って、それでもわかり合いたくて、向き合った夜は何度もあったし、今もほんの時々、油断したらある。
理由は一つ。
「わかり合いたいから」
私は親だけど、彼ではない。だから彼のすべてなんてわかるはずがない。話したい。
わかり合いたい。私は彼の心の奥にある本心や考えを知りたい。彼は自分の心の奥にある本心や考えを伝えたい。お互いの本気がぶつかり合う。それが彼との会話だ。
私がもしも彼のことを全部わかっている、と思ってしまったら、そこでおしまい。
言葉がうまく話せるとか、話せないとかじゃない。「相手のことを全部自分は知っている」そう思ってしまった時点で、相手が誰であろうときっとコミュニケーションに手を抜いてしまう。自分勝手な思い込みや決めつけが入ってしまう。
だから「私はいつまでも彼のすべてはわからない」と思っているままがいい、そう思っている。
それは彼だけじゃない。たとえどんなに近しい人でも、たとえどんなにスラスラと会話し合える人でも、すべてはわからない。だからコミュニケーションするんだ。
でもまぁ、わかり合うまでにはすごく疲れるけどな。だからこそ、くだらないことも時間がかかった分、わかり合えたときの達成感は半端ない。
「わかり合えるまでに時間かかったほうが、わかり合えたとき嬉しいやん」
「まあそうですけど」
のんびり笑う亮さんと苦笑いする母であった。
しかし、人生最大のピンチを亮さんはこの後迎えることとなる。
p.267 そこまでして、大学講師の仕事になんでこだわるの?
学生が好き。働く楽しさを伝えたい。行ける事は働くことやねん、お母さん。
p.284 「お父さん、これおいしいよ」「そうか?変な味やけどな」「お父さん、このテレビ面白いよ」
「そんなしょーもないテレビなんか見るな。あほになるぞ」「お父さん、見て。頑張ったよ」「お姉ちゃんなんやから、できて当たり前やろ」
何か大きなことがあったわけじゃない。ただ、毎日ほんの少しずつ、共感してもらえない、理解されない経験がオブラートのようにペラペラと、何年もかけて、私の上に積み重なって、ずっしりと頭をもたげていた。だから、この日、父が何気なく口にした「オリエちゃんは、服のセンスがいいな」この言葉には、私の心を照らすには、十分な効果だったのだ。他者から評価され、認められたと言う経験は自己有用感となっていく。その人が自分らしく生きていくために必要な自己肯定感となる。センスが良い自分であること、それは当時、私が私らしく荒れる唯一の表現として私を支え、勇気をくれた。自分らしさを他者に伝える手段として、その日からファッションは私の代名詞となった。この日から30年以上経った。今もなお、父の一言は金ピカの表彰状の額に入って、私の胸の中、光を放っている。
p.321 44/誰も悪くない
私は書き出したものを眺めながら、父について伝え聞いたことと合わせて想像してみた。
父は幼いころ、父親を亡くしたことで、子ども心に「強くなくてはいけない、楽しんでいる暇なんてない。家族を守らなければならない」そうやって生きてきたのではないか。
母も早くに父親を亡くしている。二人ともそもそも父親とのエピソードがあまりないのではなかったのか。実在モデルがおらず、かつ家庭環境によって「強く威厳のある父親像」に極端に振りすぎたのではないか。
なーんや。だったら、そんな二人に育てられた私が「私」になったんも、しゃーないやん。誰も悪くないやん。
それに気がついたときの衝撃といったらなかった。憑き物が落ちた。そんな感じだった。
「人がそうなるには、そうなる理由があって、人がそうするにはそうする理由がその人なりにはあるんです。たとえ私たちにはそうしている意味がわからなかったとしても、その人にはあるんです」
先生の言葉がストンと、落ちた。
絶対的な存在だと思っていた両親も、実は一人の不器用な人間だった。そう思えたとたん、心のどこかで恨んでいた両親のことも、ダメダメだと思っていた自分のことも、初めて私は許し認めることができたのだった。