九月生まれのセプテンバーと七月生まれのジュライ。十ヶ月違いの姉妹である二人は、母親すら入り込めないほど互いに強く結ばれていた。学校で起こしたある事件がきっかけで母娘は海辺に立つ〈セトルハウス〉に引っ越してきたが、塞ぎ込んで部屋に籠る母をよそに姉妹は遊ぶ。だが、なにもかも二人一緒の季節は終わりを迎えようとしていた。姉妹の絆と共依存、母と娘たちの物語。
ブッ刺さった。読みながら言葉が全身に突き刺さってきて、その痛みで読むのを何度か中断したくらい。いきなり結末の話をしてしまうが、この小説はジュライにセプテンバーの喪失を克服させない。「これは現実じゃない」とくり返すパートが挟まれるので、現実には大学に行って心機一転新しい人生を歩き始めたのかもしれないが、ジュライの魂はセトルハウスにとどまったまま、セプテンバーに囚われ自己否定し続けている。この終わり方に震えて、ラスト5ページくらいを3回読み返してしまった。
まず巻頭の詩から心奪われたのだが、独特の比喩表現による言い切り型の文体がとにかく魅力的。「わたしは宇宙から切り抜かれた影で、死につつある星々の色に染まっている」「言葉が乳歯だとしたら、セプテンバーはそれを収めた箱」「日々は赤い針で縫われ、血によって綴り合わされている」。破滅的で廃墟のようなイメージを喚起させるのに、セプテンバーを語るジュライの言葉はどれも屈服の甘い陶酔感に満ちていて、その暴力性に読者も引きずり込まれる。
姉妹はいつも「セプテンバーは言う」という、姉が言ったことをなんでも言ったとおりにジュライが実行する遊びをしている。ジュライの言葉はいつもセプテンバーに遮られ、誕生日すら姉と一緒にさせられている。けれどジュライ視点で語られるこの小説を読んでいて、セプテンバーを嫌いになることはない。セプテンバーはいつでもジュライを自殺に追い込むことができる恐ろしい支配力を持っていたが、悪質なイジメに遭ったジュライのために憤って復讐を試みたのもセプテンバーだった。たとえそれが所有物を壊された怒りだったとしても。
姉妹の歪で危険な結びつきの裏には、シングルで二人を育ててきた母・シーラとの没交渉がある。セトルハウスに向かう車中の冒頭から、「母さんが言いたいのはもちろん、わたしたちが生まれてこなかったら、ということ。わたしたちがそもそも生まれてこなかったら」とジュライは考えるのだ。シーラは二人の父親だった男を激しく憎んでおり、その憎しみを感受した姉妹は依存関係から母を締めだした。「自分を必要としない子供たちの母親でいるのは、どういう気分だろう」とジュライが言うとき、本当は自分たちが母から必要とされていないという不安のなかで手を繋いできた姉妹の深い孤独を感じずにいられない。
第一部だけを見れば、セプテンバーの怒りをフォローできず、ジュライの苦しみにも寄り添うことなく黙らせて終わりにしようとしたシーラは毒親である。だが、第二部で語られる彼女の妊娠、出産、子育ては壮絶すぎる。かつての夫・ピーターとはちょうど姉妹と鏡像のような支配関係にあり、彼女はそこを抜けだすのに力を使い果たして疲れ切ってしまったのだと思う。ピーターがどういうクズだったか具体的には語られないのだが、姉妹の歳が十ヶ月しか離れていないことからもドクズであることはわかる。そしてシーラは、容姿も性格もどんどんピーターに似てくるセプテンバーのことを恐れているのだ。
シーラが語るパートは、母親目線でありながら一人っ子から見たきょうだいというものの不可解さ、不気味さ、羨ましさが表現されていて、同じく一人っ子としてとても共感した。そして、「自分の娘が怖い」という感情をこんなにも生々しく描いている小説は稀有なのではないかとも思った。疎ましいのとは違う。この家庭はセプテンバーとその背後にいるピーターの影に恐怖で支配されている。絵本作家のシーラは姉妹をモデルにしたシリーズを描いており、彼女にとってそれは二人を受け入れて愛するための一種のセラピーになっているのだが、姉妹にとっては観察され公に晒されているというストレスの種でしかないというすれ違いも、親子間で生じる地獄としてグサッと刺される部分である。
そして第三部。私はこういう、自分が憧憬や執着を抱く相手になり変わってしまう二重人格者の話が大好きなのだが、今回は本当に痛みしかなくて、しかもジュライはその痛みを母親と上手く共有できていなくてしんどかった。ジュライにとってセプテンバーはシーラ以上に母親だったのだと思う。鬼子母神のように怒り、束縛する存在だったが、ジュライが愛を疑わないでいられた人は唯一セプテンバーだけだった。愛とは支配であるとジュライはセプテンバーに教えられた。それを否定してはジュライも生きていかれないのだ。
ここで話は冒頭に戻るわけだが、普通この手の話は何かしらの癒しや救済を描いて終わるものだ。セプテンバーの喪失を埋めるようにジュライとシーラの絆が深まるとか、新天地での出会いとか。だが、この作品はセプテンバーに魂を乗っ取られ、家に縛りつけられて生きるジュライの慟哭で終わる。これが凄すぎる。母娘にとってあまりにも残酷で救いのない結末だが、セプテンバーをジュライの〈通過儀礼〉にせず、暴力的な支配関係で結ばれていた姉妹をある意味で肯定してくれる閉じ方だと思った。二重人格化を克服しない物語。二重に折り重なった一つの魂。セプテンバーは永久にジュライを縛り続ける。
DVにまで発展した支配関係、現代的なイジメ、ティーンのセックス、自傷などが描かれるので、もしかすると読む人によっては露悪的に感じるかもしれないが、私にはすべてが自然にそうあるように描かれていると感じられた。強固な文体が崇高美(サブライム)の世界観を作り上げていて、とにかく凄いのである。シングルマザー家庭で育った娘特効みたいな物語だとも思っていて、その意味でキャサリン・ハリスンの『キス』やジュディ・バドニッツの「母たちの島」と同じ場所を刺されたのだと思う。女しかいない家で育った人間には、さまざまな過去のトラウマがフラッシュバックする強烈な読書体験である。それでも心のどこかで、私にもセプテンバーがいてほしかったと思ってしまう。お父さんはいなくていいから、セプテンバーがほしかった。