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これ資本主義とは何か的な本の中でめちゃくちゃ面白くて分かりやすかった。いかに自分が資本主義の中で洗脳されて価値観もそれに縛られて生きているかというのが分かった。ほんと感動した。
ジェイソン・ヒッケル
経済人類学者。英国王立芸術家協会のフェローで、フルブライト・ヘイズ・プログラムから研究
...続きを読む資金を提供されている。エスワティニ(旧スワジランド)出身で、数年間、南アフリカで出稼ぎ労働者と共に暮らし、アパルトヘイト後の搾取と政治的抵抗について研究してきた。近著The Divide: A Brief Guide to Global Inequality and its Solutions(『分断:グローバルな不平等とその解決策』、未訳)を含む3冊の著書がある。『ガーディアン』紙、アルジャジーラ、『フォーリン・ポリシー』誌に定期的に寄稿し、欧州グリーン・ニューディールの諮問委員を務め、「ランセット 賠償および再分配正義に関する委員会」のメンバーでもある。
野中 香方子(ノナカ キョウコ)
お茶の水女子大学文教育学部卒業。主な訳書にアイザックソン『コード・ブレーカー(上下)』(共訳、文藝春秋)、サイクス『ネアンデルタール』(筑摩書房)、ヴィンス『進化を超える進化』(文藝春秋)、ウィルミア/トーランド『脳メンテナンス大全』(日経BP)、ブレグマン『Humankind 希望の歴史(上下)』(文藝春秋)、シボニー『賢い人がなぜ決断を誤るのか?』(日経BP)、ズボフ『監視資本主義』(東洋経済新報社)、イヤール/リー『最強の集中力』(日経BP)、メディナ『ブレイン・ルール 健康な脳が最強の資産である』(東洋経済新報社)ほか多数。
こうした暴力的な時期を、資本主義の歴史における一時的な逸脱として片づけることができれば、気は楽だ。だが、そうではなかった。植民地化と囲い込みは資本主義の基盤だったのだ。資本主義のもとでは成長は常に、対価を支払うことなく利益を抽出できる新たなフロンティアを必要とする。資本主義は本質的に、植民地支配的な性質を備えているのだ。
人類学者はこの世界観を精霊信仰と呼ぶ。アニミズムでは、すべての生物は互いとつながっていて、同じ精神あるいは霊的本質を共有するとされる。アニミズムを信仰する人々は、基本的に人間と自然を区別しない。両者は根本的につながっていると考えており、動物を親類と見なすことさえある。そのため、他の生物システムからの搾取を抑制する強力な道徳律を持っている。現代のアニミズムの文化圏では、人々は当然ながら漁業や狩猟、植物採集、畜産を行うが、根底にあるのは抽出ではなく「互恵」の精神だ。人と人が贈り物を交換するように、他の生物との取引においても敬意と礼儀が重んじられる。わたしたちが親類から搾取しないのと同様に、アニミズムを信仰する人々は、生態系が再生できる量より多くは取らないよう注意を払い、土地を守り修復することで生態系にお返しをしている。 近年、人類学者は、これは単なる文化の違いではないと考えるようになった。もっと根深い違いだ。
アニミズムの人間観は、二元論とは根本的に異なる。アニミズムはインター・ビーイング(相互依存)の存在論なのだ。 アニミズムの存在論は、帝国が台頭するに従って攻撃を受けるようになった。次第に世界は二つに分かれたものと見なされるようになり、神は生物から切り離され、それらの上に位置づけられた。
この新たな秩序において、人間は神の写し身と見なされ、特権、すなわち他の生物を支配する権利を与えられた。この「支配」という原則は、枢軸時代(紀元前500年頃)に、ユーラシア大陸の主要な地域で超越的な哲学や宗教──中国では儒教、インドではヒンドゥー教、ペルシャではゾロアスター教、レヴァントではユダヤ教、ギリシャではソフィズム(詭弁)──が生まれるに従って、より確固になっていった。人間を自然界の支配者と見なす考え方は3000年前の古代メソポタミアの文献にすでに詳述されている。おそらく最もはっきり記しているのは、創世記そのものだ。
その一つは教会だ。物質世界に精霊が満ちているという考え方は、自らが神に通じる唯一のパイプであり神の正当な代理人である、という聖職者の主張を脅かした。聖職者だけでなく、聖職者による信任を権威の根拠とする王や貴族にとっても由々しき問題だった。彼らから見れば、アニミズム的思想は反体制的であり、打破しなければならなかった。もし精霊が至るところに存在するのであれば、神は存在しない。神が存在しなければ、司祭も王も存在しない。そのような世界では、「神から授かった王権」はデタラメと見なされる★32。
アニミズム的思想を問題視する強力なグループがもう一つあった。資本家たちだ。1500年以降、優勢になったその新しい経済システムは、土地、土壌、地中の鉱物との新しい関係を必要とした。その関係は、所有、抽出、商品化、成長し続ける生産性(当時の言葉では「向上」)を原則として築かれた。しかし、何かを所有したり搾取したりするには、まず、その何かをモノと見なさなくてはならない。あらゆるものが生きていて精霊や主体性を内包する世界では、万物は権利を持つ存在と見なされ、所有および搾取──すなわち、財産化──は倫理的に許されない。
しかし、資本主義の長い歴史を振り返ると、この物語には欠落があることがわかる。囲い込み、植民地化、強奪、奴隷貿易……この物語に欠落しているのは、資本主義の歴史において、成長は常に強奪のプロセスであったことだ。自然と(ある種の)人間からの、エネルギーと労働の強奪である。確かに、資本主義はいくつかの驚くべき技術革新をもたらし、それらは驚異的なまでに成長を加速させた。しかし、テクノロジーが成長のために果たした最大の貢献は、無からお金を生み出すことではなく、資本家が強奪のプロセスを拡大・強化できるようにしたことだった★1。
もちろん、人口についても考える必要がある。世界人口が増えれば増えるほど、転換は難しくなる。この問題に取り組むにあたって、重要なのは──常にそうだが──土台になっている構造的動因に目を向けることだ。世界の女性の多くは、自らの身体と子供の数を自分ではコントロールできない。リベラルな国でさえ女性は子供を産むことへの社会的プレッシャーを受けており、子供の数が少なかったり産まなかったりすると、理由を詮索されたり非難されたりする。貧しい国では、こうした問題はさらに深刻だ。そしてもちろん資本主義自体が、人口を増やせというプレッシャーを生み出している。人口が増えれば労働者が増え、労働が安価になる一方、消費が増えるからだ。このプレッシャーはわたしたちの文化に浸透し、国の政策にまで影響している。フランスや日本などは自国の経済成長を維持するために、より多くの子供を産むことを女性に奨励している。
この傾向が最も明らかなのは計画的陳腐化という慣習である。売上を伸ばしたくてたまらない企業は、比較的短期間で故障して買い替えが必要になる製品を作ろうとする。この手法が最初に実行されたのは1920年代のことだった。アメリカのゼネラル・エレクトリック社を中心とする電球メーカーがカルテルを組み、平均で約2500時間だった白熱電球の寿命を1000時間以下に短縮したのだ★4。効果は抜群で、売上と利益は急増した。このアイデアはたちまち他の産業に広がり、現在、計画的陳腐化は資本主義的生産の特徴として広く普及している。
わたしたちが毎日使っているハイテク機器についても同じことが言える。アップル製品を所有したことのある人なら、よくご存じだろう。アップルの成長戦略は、次の三つの戦術に依存しているようだ。1・使い始めてから数年経つと、動作が遅すぎて役に立たなくなる。2・修理は不可能か、あり得ないほど高額。3・広告キャンペーンによって、自分が使っている製品は時代遅れだと人々に思わせる。もちろんそれはアップルだけではない。
時として広告は、計画的陳腐化と一体化して毒入りカクテルをつくる。ファッション業界を例にとってみよう。衣料品小売業者は、飽和状態の市場で売上を伸ばすために、捨てられるための服をデザインするようになった。数回着ただけでだめになり、数か月で「流行遅れ」になるペラペラの安っぽい服だ。加えて広告は人々に、自分の服はださくて、時代遅れで、ふさわしくないと思わせる(この戦術は「認知的陳腐化」と呼ばれることがある)。
計画的陳腐化
広告の力を抑制する方法はたくさんある。たとえば、総広告費を削減するために、割当額(クォータ)を導入する。あるいは、心理的に操作する広告手法を規制する。また、人々が見るものを選択できない公共空間から──オンラインのものもオフラインのものも──広告を締め出すのも一手だ。人口2000万のサンパウロは、すでに都市の主要な場所でこれを実施している。パリもこの方向へ動き、屋外広告を削減し、学校周辺では全面的に禁止した。結果は? 人々はより幸福になった。より安全だと感じ、自らの生活により満足できるようになった。
広告の削減は、人々の幸福にプラスの影響を直接与えるのだ★12。これらの措置は、無駄な消費を抑えるだけでなく、わたしたちの心を解放し、常に干渉されるのではなく、自分の考え、想像力、創造性に集中できるようにする。広告が消えた空間は、絵画や詩、それに、コミュニティを築き本質的価値を構築するためのメッセージで埋めることができる。
この件についてオープンで民主的な話し合いをする必要がある。すべての部門は成長し続けなければならないと決めつけるのはやめて、わたしたちが経済に何を求めているかについて話し合おう。すでに十分大きくなっていて、これ以上成長すべきでないのは、どの産業か。規模を縮小したほうがよいのは、どの産業か。まだ拡大する必要があるのは、どの産業か。これまで、こうした質問がなされたことはなかった。しかし、2020年のコロナウイルスのパンデミックで、誰もが必要不可欠な産業と、不必要な産業の違いを知った。どの産業が使用価値を中心に組織され、どの産業が交換価値を中心に組織されているかが、たちまち明らかになったのだ。わたしたちはこの教訓を踏まえて、前進することができる。
広告は自分と比較して劣等感を植え付け消費活動に持ち込むためのものらしい。
ある意味、これは当たり前のことのように思える。しかし、わたしたちはそれを容易に忘れてしまう。特に都市で暮らしていると、他の種と出会うことはめったになく、出会ったとしても飾りものにすぎないので、なおさらだ。農村や農場でも、野生生物はしばしば有害生物と見なされ、可能な限り駆除される。この状況では、人間以外の存在を──それらについて考えることがあったとしても、──主体ではなく客体と見なしやすい。あるいは、もしかしたら、わたしたちは忘れたり、誤解したりしているのではなく、心の奥底で真実だとわかっていることから無意識のうちに目を背けているのかもしれない。なぜなら、自分たちの経済システムが、他の生物を組織的に搾取することに依存していることを認めるのは、耐えがたいからだ。
細菌を例にとってみよう。わたしたちは何世代にもわたって細菌は悪いものだと教わり、それを信じきっていた。抗菌せっけんや化学的な消毒液で武装し、身体、家、それに食べ物から、わたしたちが「病原菌」と呼ぶ、目に見えない小さな敵を取り除いていった。しかし、近年、科学者たちはそうした考えを覆し始めた。
最近の科学者たちは、微生物を除去されたマウスは反社会的な行動をとることを発見し、人間も同様である可能性が高いと予想している★11。
木はわたしたちの行動にも影響を与える。研究者たちは、人は木の近くで過ごすと、より協力的で、親切で、寛大になることを発見した。また、世界に対する畏怖や驚きは増し、その結果、他者との関わり方が変わり、攻撃性や非礼な行為が減る。シカゴ、ボルチモア、バンクーバーでの研究により、樹木が多い地域では、暴行、強盗、薬物使用などの犯罪が著しく少ないことが明らかになった。社会経済的地位や他の交絡因子を調整しても同様だった★22。まるで、木と共に過ごすことで、より人間らしくなるようだ。
なぜそうなるのか、理由はよくわかっていない。緑が多い環境は快適で落ち着くというだけのことなのだろうか? ポーランドで行われた研究は、そうではないことを示している。その研究では、被験者は冬の都会の森で15分間立たされた。葉も、緑も、低木の植え込みもなく、ただまっすぐ伸びた裸の木々があるだけだ。そのような環境では、気分へのプラスの影響はほとんどないと予想されたが、結果は違った。裸の森で立って過ごした被験者には、都市景観の中で15分間過ごした対照群に比べて、心理的・感情的状態の大幅な向上が認められたのだ★23。
気分と行動だけではない。木は身体の健康にも影響を与え、その影響は具体的で、計測可能なのだ。樹木の近くに住むと、心血管疾患のリスクが下がることが明らかになった★24。森林を散歩すると、血圧、コルチゾールレベル、心拍、その他、ストレスや不安の指標が下がることがわかっている★25。さらに興味深いことに、中国の科学者チームは、慢性疾患を持つ高齢の患者が森林で過ごすと、免疫機能が大幅に改善することを発見した★26。確かなことはわからないが、これは木が放出する化学物質と関係があるのかもしれない。たとえば、ヒノキが放出する香りの良い成分(フィトンチッド)は、免疫細胞を活性化し、ストレスホルモンのレベルを下げることがわかっている★27。