ピエール・バイヤールの作品一覧
「ピエール・バイヤール」の「シャーロック・ホームズの誤謬 『バスカヴィル家の犬』再考」「読んでいない本について堂々と語る方法」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「ピエール・バイヤール」の「シャーロック・ホームズの誤謬 『バスカヴィル家の犬』再考」「読んでいない本について堂々と語る方法」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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小説・文芸
Posted by ブクログ
「本について語るのに本を読んでいる必要はないどころか、むしろ読んでいることがしばしばその妨げとなる」という大胆不敵な読書論。これは、マジメな読者からは不遜ともとられるであろう挑発的な主張だ。著者は、エーコやバルザック、漱石の読解を通して、「いかに読んだふりをして本について語るか」を例証する。彼によれば、全くその本を読んでいなくてもその本について自分の考えを堂々と相手に押しつけることすらできる。
しかし、この一見不誠実にもとれるハウツー構造はこの本の浅層に過ぎない。その深層には、人間の認識論として、「書物のテクストそのものを人は語ることができない」という緻密な理論が運動している。だいたい人間は読んだ本のテクストを一字一句覚えたりもしないし認識すらもしない。そのうえ自分のフィルターで内容を理解したつもりになり(または理解できないという記憶となり)、その認識も社会的なイメージの影響で大幅に変化し、しかも片っ端から忘れていく。しかも、それは自分以外の他者も同様なのだ。つまり、人間同士が書物について語るとき、その書物はもはや「現実の」書物ではない。個人的・社会的なイメージが織りなすその代替物(「遮蔽幕としての書物」)なのだ。
さらに彼の主張が痛快ですらあるのは、本について語る(つまり「批評する」)とき、書物そのものはネタでしかないと喝破する点にある。画家にとってモデルがモチーフでしかないように、批評は現実の書物からは「独立した」芸術であり、書物は「口実/主題に過ぎない」。つまり、批評家は対象をネタに、創造的に自分自身を表現する芸術家なのだ。彼が引用するオスカー・ワイルドの「批評家くらい創造的な芸術家にとって、主題などに何の意味がある?(中略)それをどう扱うかが大事なんだ」という文章にはすがすがしさすら感じてちょっと吹き出してしまう。
本書は、「本は隅から隅まで目を皿にして読み通さなければ読んだことにならない」と考えがちなマジメな読者(かく言う自分もそう)の肩の力を緩め、本を読むことを楽にしてくれる。本書を読んだら、気が大きくなってもっと本をじゃんじゃん読みたくなることは間違いない(自分もそう)。何しろ、読まなくたって、内容を覚えてなくたって、あるいは勘違いして覚えていたって関係ないのだ。あなたには、その本について語る資格がある。本読みにとって、こんな楽しいことがあるだろうか。
Posted by ブクログ
#ヨンデルホン
#読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫) / #ピエール・バイヤール、#大浦康介(#筑摩書房)
#ドクリョウ #ヨミオワリ
おもしろかった。
本を読んでいない状況でコメントしなければならない場面というのが幾つか書かれていて、それぞれに小説や映画などの実例(?笑)が書かれている。文章が良く、すんなりと読めるので、どれも説得力に満ちていて、納得せざるを得ない、笑。(途中で、読んでいるのが滑稽に思えるほど。何のために読んでるんだっけ?という感覚。)
登場する本には、著者の読んでいない状況(全く読んでいない、流し読みした、読んでも忘れた、など)が略号で示されているのも面白い。新聞や雑誌などで批評などを目にするが、そのすべてに略号も書かれたらおもしろいだろう。
Posted by ブクログ
少し本を読むことの抵抗がなくなった。或いは本を読めていないことへの罪悪感がなくなった。積読をする言い訳にするのはかなり勝手な解釈かもしれないが、本書は読書という営みの堅苦しさを和らげてくれる。「正しく読み取る」とか「正確な読解」とか、読書にまつわる神話を解体することが、本書の主眼には据えられているのだ。
例えば、一度流し読みをした本と、本棚で手付かずの本があるとする。私にとって、割とこの2つの本に差異は殆どない。何故ならば、一度読んだ本も結局内容を正確には覚えていないから、手付かずも同然なのである。しかし、その点で後ろめたさ感じる必要はないというメッセージが、この本には込められている。
誤解を恐れず言うなら、読書(或いは批評)という営みにおいて、必ずしも当の書物の内容が中心となるわけではない。それが書かれた背景や文脈、位置づけといったものから、書物の重要な要素は見てとることが出来るし、寧ろその方が内容よりも大きな意味を持ち得る。というのも、読み手として自身の発想を豊かにするには、読み手と書物それぞれの立ち位置を鮮明に捉える必要があるからだ。その意味で、読書や批評とは単に情報を取得するのではなく、読み手が何を思い考えるかを描くための高次の創作とされる。
Posted by ブクログ
本を読んでも、その内容の受け取り方は人それぞれ。これまで触れてきた本や経験がちがえば、同じ文章でもまったく別の景色が見える。そもそも本のすべてを覚えておくことは難しく、心に残るのはほんの一部分だけ。だからこそ、誰かが語る「その本の話」は、断片的な記憶と、その人自身の人生が混ざり合ったひとつの作品になる。つまり、ざっと流し読んだだけでも、目次しか見ていなくても、そこから想像して語ることはできるし、意外と気づかれない。
この本は、そんな「読書とは何か」を考え直すきっかけをくれた。一冊の本でも、読む人や読む時期によって解釈が変わる。その広がりは無限で、楽しみ方も同じだけ果てしない。そう思うと、読書は一生かけても飽きることのない遊びなんだと感じさせられた。とても刺激的な一冊だった。