本書『歴史と戦略』のオリジナルである単行本『現代と戦略』(文藝春秋、1985)は、永井陽之助氏が「文藝春秋」(1984年1月号から12月号まで)に連載したものを一冊の単行本にまとめたものである。
第一部「現代と戦略」・・・(米ソ冷戦末期の国際政治における)主として、日本の防衛論争や防衛戦略を巡る諸問題を扱う
第二部「歴史と戦略」・・・「戦史に学ぶ失敗の教訓」という意味で、歴史のケースに焦点を合わせる
本書は、単行本『現代と戦略』第二部を文庫化したものであり、出版社の宣伝文句は次のようである。雰囲気を感じ取れる。
<戦略を研究し戦史を読むことは人間性を知ることにほかならない――。
クラウゼヴ...続きを読む ィッツ『戦争論』を中核とした戦略論入門に始まり、山本五十六の真珠湾奇襲、チャーチルの情報戦、レーニンの革命とヒトラーの戦争など、〈愚行の葬列〉である戦史に「失敗の教訓」を探る。
『現代と戦略』第二部にインタビューを加えた再編集版。 解説・中本義彦
【目次】
戦略論入門――フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』を中心として
I 奇 襲――「真珠湾」の意味するもの
II 抑止と挑発――核脅威下の悪夢
III 情報とタイミング――殺すより、騙すがよい
IV 戦争と革命――レーニンとヒトラー
V 攻勢と防御――乃木将軍は愚将か
VI 目的と手段――戦史は「愚行の葬列」
インタビュー『現代と戦略』とクラウゼヴィッツ *単行本未収録 >
『新編現代と戦略』の「第Ⅰ章 防衛論争の座標軸」の冒頭から、政治的リアリスト・永井陽之助氏は、軍事的リアリスト・岡崎久彦氏の『戦略的思考とは何か』に対する批判を始める(概要)。
<私は、岡崎氏のように、客観的な戦略的環境なるものがモノのように実在していて、その情勢判断から日本の防衛戦略や兵力態勢などがほぼ一義的に定まるとは考えていない。たしかに安全保障問題は、不確かな、不測の事態にかかわるため、「相当な抽象的論理的思考」を必要とする。だが、現代の核時代の戦略論は、その本質上、「土地カン」のない虚構の議論とならざるを得ない必然性をもっている。
今日の安全保障論で直面する第二の困難性は、我々のような軍事問題の素人は、ハードなデータに直接のアクセスをもらえないことである。いったい何を根拠に戦略を論じたらいいのか、困惑を感じない人はいないであろう。
岡崎氏の著書を見ると、機密情報に接し得ない素人には安全保障問題などに口出しする資格はない、「土地カン」のある専門家を信頼するのが無難だという態度がほの見えるのは大へん遺憾である。本書、第Ⅺ章で指摘するように、外交や戦略に関するイギリス伝来の知的風土は、残念ながら岡崎氏の態度とは好対照をなしている。ロンドン大学の森嶋教授も強調していたように、イギリス指導階級特有のアマチュアリズムこそ、文民支配のコアにあるものである。ここにも岡崎氏がアングロサクソンの名で、イギリスとアメリカをいっしょくたに論じる例の悪いクセが出ている。
戦時中、日本の軍部や、国策研究に関わった御用学者たちが、「機密情報に接し得ない素人は黙っていろ」という態度で、日本の前途や戦況を憂える学生の疑問を封じたという。ところが、戦時中の、わが帝国陸海軍や外務省は、極秘情報(マジック)が連合国につつぬけであることさえ、疑ってもみなかったというマヌケぶりであった。今日、岡崎久彦部長統率のもと、外務省の活発な情報収集活動によって故アンドロポフ書記長・国葬での追悼演説序列をピタリと予測して(パパ)ブッシュ副大統領を驚かせた「24時間態勢」のことなど、私も敬意を表すに吝かでないが、広い教養とバランスの取れた判断能力の欠けた、プロぶる専門家の意見ほど、この種の問題で危険なものはない、というのが多年にわたる「自分の経験」から得た教訓である。
安全保障論議の第三の困難性は、核時代における防衛論は多くのパラドックスとディレンマを含むということである。この種の論議で、スッキリ割り切った意見は、俗耳に入りやすいが、そこに含まれる深刻なディレンマに感受性を欠く点で一種の傍観者の意見とみてほぼ間違いない。「平和主義者の明快さは、彼らが局外者の立場に身を置いているからである」という警句は、そのまま、いわゆる軍事的リアリストにも妥当する。
核時代の安全保障問題は少なくとも大別して三つの基本的なディレンマをもっている。
第一が、国家の「安全」確保(「同盟」関係の維持)と、「独立」達成(「自立」への願望)とのディレンマ
第二が、「福祉」か、「軍備」か、バターか大砲か、の手段の選択にかかわる優先順位の問題
第三が、「抑止」と「防衛」のもつディレンマ >
「国葬での追悼演説序列をピタリと予測」はユーモアと皮肉を込めたジョークのようにも聞こえるが、このような岡崎氏に対する批判が、通奏低音のように本書全体に響いている。上記の「三つの基本的なディレンマ」が現在でも重要な課題であることは、シロウトの私でも感じている。例えば、日米地位協定が示すように、日本は「同盟」「安全」を優先して「自立」「独立」を犠牲にしてきた。 さらに進化して、現在の日本はアメリカの戦争に参加する法律として戦争権限法を制定したので、アメリカとの「同盟」と日本の「安全」が何だか怪し気な状態になっているように思われる。
ここで参考に、永井氏がハーバード大学における共同研究で提示したという「日本の防衛論争の配置図」(座標軸)を紹介する。この配置図は、当時の混迷を極める世論、論壇、政界、官界の論点を整理し、真の争点がどこにあるかを明示する上で調法だったそうだ。A「政治的リアリスト」、B「軍事的リアリスト」、C「日本型ゴーリスト」、D「非武装中立論」である。
「同盟」「安全」
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A | B
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「福祉」ーーーーーーーーー「軍事」
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D | C
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「自立」「独立」
<ド・ゴール主義またはゴーリスム(Gaullisme)とは、ド・ゴールの思想と行動を基盤にしたフランスの政治イデオロギーのこと。イデオローグ達は「ゴーリスト」と呼ばれる。 ド・ゴール主義の最大の主張は外国の影響力(特に米英)から脱し、フランスの独自性を追求すること。ド・ゴール主義は思想上社会や経済にも言及し、政府が積極的に市場や経済に介入することを志向した広義の国家資本主義である。>(Wikipedia)
私は難しいことはわからないが、本書の岡崎批判を拾い読みするのが面白い。例えば、『歴史と戦略』の「第Ⅵ章 目的と手段――戦史は「愚行の葬列」」の「システム分析の功罪」における、岡崎氏らのシステム分析的思考に対する批判は痛快である。
<岡崎久彦氏が『中央公論』(1984年8月号)で私との対談(「何が戦略的リアリズムか」)で、「戦略でパリティというのは、およそ1と1.5の間だそうですよ。1と1.5で戦争しますと、どちらが勝つか全然分かんない運いい方が勝ったり、作戦のいい方が勝ったりする」と指摘し、練度とか士気とか稼働率とかの質的な要因も「全部勘定に入れて、1対1.5、つまりほぼ同等(ラフ・パリティ)という」と定義している。この種のものの考え方が、ランド研究所や、国防総省の戦略思考の典型といっていい。
この種の”合理的”思考に欠けていたところに日本軍の敗戦の一つの理由をみることに異論はないが、常識で考えても、ミスリーディングなものであることはわかる。
(略)
この種の思考の最大の欠陥は、敵があたかも「受け身のターゲット集合」であるかのように想定しないと計量化不可能になるため、相手側との反応と相互作用で力関係が決まるという自明のことを忘れがちになることである。外交、政治、戦争は、「恋愛」と同じで、相手方の反応と相互作用を考慮に入れずには成り立たない。クラウゼヴィッツ以来、今日でも変らぬ、目的と手段、士気、攻勢と守勢の弁証法など、戦争で最も大切な、計量できない、インタンジブルな要因が、コンピュータに入力できないという理由で排除される傾きが生じてしまうことである。
このような一種の「ワンマン・チェス・ゲーム」的な戦略思考は、敵も同じ戦略思想、兵器体系と手段の対称性を持つか、または持つと想定した時のみに成立する。>
『新編現代と戦略』に岡崎久彦氏の「永井陽之助氏への反論」が載っているが、あまり関心は持てない。
それはともかく、本書のエッセンスは、『歴史と戦略』の冒頭に収録された「戦略入門――クラウゼヴィッツの『戦争論』を中心として」の締め括りの”ことば”に集約されている。
<わが国の一部の戦略、軍事問題専門家のんかに、クラウゼヴィッツは時代おくれだという、それこそ時代おくれの謬見が、まかり通っているが、戦略を研究し、戦史を読むということは、人間性を知ることにほかならない。このことをクラウゼヴィッツとともに片時も忘れないでほしいと思う。>
永井氏の思想「戦略を研究し、戦史を読むということは、人間性を知ることである」は時代を超えた真理であると思う。人間性を大事にする永井氏は、『歴史と戦略』の「第Ⅴ章 攻勢と防御――乃木将軍は愚将か」の「「非対称紛争」の意味」で、胸にグッと迫るエピソードを語っている。
<私自身も小学生時代から口ずさんど「水師営の会見」の「庭に一本棗(なつめ)の木 弾丸あとも著しく・・・」で、浮かび上がる光景は、時代と場所をこえて人の心をうつ普遍的な、何ものかである降将ステッセル以下に帯剣を許し、アメリカ人が映画を撮ろうとしたのを乃木将軍は副官をして慇懃に断らしめた。この敵将への思い遣りは本物であり、外国特派員のすべてを感動させた。後年ステッセルは敗戦の責任を問われて、軍法が意義で死刑の宣告(1908年)を受けたが、乃木将軍が、元第三軍参謀津野田少佐に依頼し、英仏の新聞にステッセル将軍の武勇を宣伝させ、乃木将軍の名をもってステッセル将軍の善戦を賞讃する論文をも発表させた。それらの努力の甲斐があって、ステッセルは懲役10年減刑され、さらに健康を害しているゆえに、その刑も免除されたのである。私自身、ウォッシュバーンの著書ではじめて知ったのであるが、乃木将軍殉死の報がロシアに伝わるや、「モスクワ郊外のモンクより」という匿名の差出人で若干の香奠(こうでん)が送られてきたという。これは、まぎれもなくステッセル将軍からであった。こういう時代もあったのである。>
以上
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【参考】
かなり古い出版であるが、この本を知らないのは損ではないだろうか。収録されているE・ホッファー 「情熱的な精神状態」(永井陽之助訳)は貴重である。永井陽之助氏による解説も参考になる。
編集・解説 永井陽之助
『現代人の思想〈第16〉政治的人間』(平凡社、1968)
目次
解説 政治的人間 永井陽之助
Ⅰ 政治の極限にひそむもの
革命について H・アーレント 高坂正堯 訳
パルチザンの理論 C・シュミット 新田邦夫 訳
Ⅱ 秩序と人間
堕落論 坂口安吾
全体主義権力の限界 D・リースマン 永井陽之助 訳
情熱的な精神状態 E・ホッファー 永井陽之助 訳
肉体文学から肉体政治まで 丸山真男
Ⅲ 政治的成熟への道
職業としての政治 M・ウェーバー 脇 圭平 訳
権力と人間 H・D・ラスウェル 永井陽之助 訳
政治教育 M・オークショット 阿部四郎 訳
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