日本人が世界中で突出して多人数いることは確かですが、著者は、フランス、中国、アメリカ、アルゼンチン、インド、イタリア、パナマ、スウェーデン、バングラデシュ、フィリピン、カメルーン、北朝鮮、ベルギー、スイス、アラブ諸国、マグレブ地方等の、今や世界中で存在を確認。
そうした世界中のひきこもりたちにとっての、インターネットを通じたコスモポリタニズムな地下奎ネットワークで「世界ひきこもり機構」(Global Hiikoomri Organization)GHOとというページをフェイスブックに開設。加入者は全世界で583人-22年11月15日時点
本書は、「ふつうの人」ではなく、「世界中のひきこもり...続きを読む 同士」のおしゃべりを本にされました。
インドの元ひきこもりニティンから「ひきこもりを助けたい」とメールが入った。ー二〇二〇年四月連絡時三〇代の手記
ひきこもりのすべての人たちに共通点があります。自分の価値を示そうとしても示すことのできないという点です。
私たちは皆、強くなるために生まれてきたのです。私たちは皆、成功するためにここにいるのです。ただ私達には、それぞれが自分自身になるための時間が必要なだけなのです。
私たちが自分自身を受け容れ、何を始めるのにも遅すぎることはまったくないと考えなくてへ、自身や尊敬や成功といったものは、決して訪れることはないのではないのでしょうか。
今、私は思うのです。ひきこもりになったことによって、そして自分を偽らず、自分自身や家族、友人に忠実であったことによって、新た何かを手に入れたのだということを。
だから、ひきこもりの皆さん、何年でもいいから時間をかけてください。自分の存在を資産として受け容れ、自分の強みを取り戻し、新しい力で世界がどれだけ美しくなるか見てみてください。
イタリアの社会心理学者、マルコ・クレパルティ氏との対話
ひきこもりとインターネット
M・C—ひきこもりとインターネットには高い親和性があるかもしれませんが、私はその理由を、ひきこもりが「その世界と交流したい」というニーズからインターネットを多用するからだ、と考えています。
ぼそっとー四〇代のひきこもり女性からこのような言葉を聞いたことがあります。
「私はインターネットがまったく好きではありません。なぜなら、それぞれのウェブページに社会で活躍している人々の姿を見てしまうから。その姿が、動けないでいる私を責めているように感じるのです」
ぼそっと—日本のある専門家「ヨーロッパでは南へ行くほどひきこもりが多いはずだ。南ほど母と子の心理的教理が近いからだ。北ヨーロッパでは、子供の自己は早い時期に確立されるので、成人後のひきこもりも少ないはずだ」
M・C—賛成します。スペインとイタリアは、ヨーロッパの中で最もひきこもりの多い国だと思います。しかし、ヨーロッパでは、他の国にもいるでしょう。西洋全体では、南ヨーロッパと北アメリカが、最もひきこもりの多い地域ではないでしょうか。
ぼそっと—ひきこもりと国民性の関係は、一筋縄ではいかないことでしょう。
M・C—私はひきこもりの定義を「ひきこもりイタリア」のウェブサイトに次のように書きました。
「ひきこもりとは、近代的な個人主義社会に典型的な、社会における自己実現という過度な圧力に反応して活性化される、人間の対応戦略である」
ひきこもりの多様性を認めると同時に、世界中すべてのひきこもりに共通するファクターというものがきっとあるはずだ、と私は考えています。現代社会を突き動かしている力学の中で、それを探らなければなりません。今と昔の社会で違う、たぶん、競争でしょう。達成へのニーズ。そして、その結果としての圧力。大きなプレッシャー。
ぼそっとー世界中のひきこもりに共通するファクターは社会的力学だけではなく、そこには親子関係が深く関わってくるでしょう。マクロな社会だけでなく、ミクロな社会、すなわち家族の中の政治力学にも、私たちはもっと光を当てなくてはならないと思います。
M・C—例えば田舎の村のように小さな「社会」もありますが、家族と社会を切り離して考えることはできません。
ぼそっとー家族も生きている時代の巨大な社会力学の中で暮らしている。私が言いたいのは、なんでもかんでも社会のせいにするわけにはいかない、ということです。ひきこもりを生みだす社会にも、家族についても語らなければならない。
台湾の映画監督盧德晰ル・テシン氏との対話
東日本大震災の津波が押し寄せてきたとき、高台へ避難することなく、部屋から出ずに津波に飲まれてしまった引きこもりの青年の内的世界を視覚化する短編映画を製作。
盧德晰—世界的にひきこもりは「汚名」になっていますが、ひきこもりにとっての理想的世界は、ひきこもりであることを誇りに思える社会ですか。
ぼそっと—「ひきこもりになることによって生き延びる術を見出した私自身」「ひきこもりとして生きる」
盧德晰—ひきこもりにとってのユートピアとはどういう社会なのでしょうか。
ぼそっとー「引きこもりであることが問題ではない社会」というのが、その答えだと考えています。
ひきこもりの一発逆転
ぼそっとー五〇代のわたしは、もう二〇代の頃のように「一攫千金」「一発逆転」を夢見ていません。「過去のひきこもりの歳月が無駄であった」とは、まったく思っていないのです。「ひきこもりの歳月は、私が私になるために必要だった」と。結局私は、人生においてお金よりも時間を取ったということでしょう。
科学技術の発達とインターネット
ベーシック・インカム
ぼそっと―たとえどんな社会になろうとも、相変わらず人々は互いにあったり訪問し合ったりしているでしょう。恋愛や別れも、今と同じように行われることでしょう。多くの人にとっては、それが人生ん楽しみですからね。
そのため、どうしても社交的な人間がもてはやされる。付き合いの広い人が力を持つという点は、今と変わらない。そのことは、人に合わないひきこもりが見下される、ということになっていくでしょう。
社会に参加したくてもできないひきこもりは、人間として余計に疎外されて行くかもしれない。
人が、「自分の人生が意味のあるものであってほしい」と願う、そのために、多くの人は仕事に「すがる」。「自分はこういう仕事をしている。だから自分の人生は意味のあるものなのだ」と納得するために仕事をしています。ベーシック・インカムによって、「自分の人生に意味があるように思えない」という問題。
その観点からすると、ひきこもりとは、仕事にすがることでは自分の人生に意味があると感じられない人だと考えることもできます。
ひきこもりという「最適な人生」
「どのように生を全うするか」という問題に対して、その上で結果的に「ひきこもり」という最適な人生を歩んでいるのではないでしょうか。
一生ひきこもりとして生きていこうと決めていても、逆にいつの日かひきこもりを脱出したいと考えていても、まずはそこが出発点なのではないかと私は思います。
著者のぼそっと池井多さんですが、ただし現在は、インターネットでぼそっと池井多さんのことを検索してみましたら、快く思っていない人達に狙われて、過去のブログ記事を閉鎖されたりなどされて、ほとんど公の言動や活動が制限されてしまっている状況のようです。
HIKIPOSひきポスには、最近でも投稿の記事がありますが。Twitter、FaceBook等などでは、用心して気をつけないとアカウントが停止にされてしまうなどの恐れがあるようで、ほとんどご自分の発言を投稿しづらい状況のようです。
何日か前に読んだ本 ”「コンビニには通えるひきこもりたち著久世芽亜里」”
さんの本の中でも、多様な働き方、多様な生き方を目指していくことでしか、「ひきこもり」の解決策はないのではないのか?と書かれていました。
「ひきこもりが最適な人生」も似ていると思いました。
人間性・人間の尊厳として、少しでも正々堂々と、公明正大に有意義に成長し、働き、生きていくことを決して諦めてはいけないと思いますが、少しでも前向きに生きていくためにはそれ以外にはないのかと思いました。