読書会でおすすめされた本。
1590年代から劇作を行っていたシェイクスピアは「どうして国全体が暴君の手に落ちてしまうのか?残酷で狡猾で衝動的で、明らかにふさわしくない指導者であっても、人々を魅了するのはなぜか?」という問題を戯曲を通して語った。本書はそんなシェイクスピア戯曲を通して、現代にも通じる社会問題について書かれている。
当時のイングランドの統治者エリザベス一世で、わたしも歴史的には漠然とした流れしか知らなかったのですが、当時の社会情勢の危うさ、王位継承の複雑さ、カトリックとプロテスタント争いなども書かれているので世界情勢も分かりやすかったです。
シェイクスピアの時代は「統治者を批判するのは謀反人」として罰則があったため、シェイクスピアも別の国、別の時代のこととして表現している。
❐シェイクスピア戯曲の暴君たち:リチャード三世、マクベス、リア王、シシリア王リオンティーズ(冬物語)
『ヘンリー六世』では、薔薇戦争と呼ばれる争いが始まる。王のヘンリー六世はまだ子供で経験もない。ある時ヨーク公とサマセット公が言い争う。周りの人々は関わらないようにしていた。しかしヨーク公は「真の紳士として私と共にあるものはこの白い薔薇を摘んでくれ」、サマセット公は「私と共に真実の側につくものは赤い薔薇を摘んでくれ」と声を掛ける。この薔薇戦争の始まりって分かりやすいし戯曲としてはかなり見栄えがすると思う。
戯曲としては、戦争の始まりが些細な個人の言い争いから、周りの人々を巻き込んだ勢力となり、赤薔薇白薔薇という象徴を持ち派閥の結束と憎悪を掻き立てる様子が書かれている(読んだことないけどそうらしい)。
シェイクスピア戯曲のなかでも高名な「暴君」グロスター公リチャードは、ヨーク公の末息子だ。戯曲では、肉体不具、内向的な性格、母親からも性格がネジ曲がっていると嫌われ、それが権力欲に結びついて書かれている。
なお、『リチャード三世』はシェイクスピア戯曲の中でも珍しくも母と息子の憎悪の関係が書かれる。父と子の関係は多いが、母と子はこの戯曲くらいだそうだ。そういえばそうかも!
リチャードは敵を騙し討ちにして王位に就く。だが統治には全く向かなかった。リチャードは転落するばかりだし、戯曲登場人物としての魅力も失う。観客は、暴君が権謀術数で登りつめる様相は道徳を忘れて楽しむけれど、頂点に達するともう笑えないのだ。
マクベスは初めは野心はなかった。『マクベス』冒頭では三人の魔女から「王になる」と予言されても恐ろしさを感じるくらいだった。それが野心に突き進むのは、妻から囁かれたものだ。一度その道に進むと「完璧」でないと気がすまなくなる。王を誅しただけでなく、自分に危険になるものを排除してゆく。そして「明日、また明日へと…」という、人生の完全な虚しさを味わうことになってしまう。
初めから王座にいるもののが暴君となる戯曲もある。まずは『リア王』で、年を取って自分への忠義を試すために転落してしまう。どうやら舞台である紀元前八世紀のブリテンでは重要な決定は王によってなされていた。議会や政府もなく、教会や国会も王の権威には敵わない。
リア王なんですが、もともとわがまま独裁者の側面があったと考えられます。それでもずっと王なので、戯曲冒頭でわがまま言い出してもまだ忠告する者がいる(リチャード三世やマクベスにはいなかった)。王に権力があり皆が従うのは王が正しく判断できる状態にあるからだ(正気)。しかしその後のリア王は正気を疑われて国は崩壊する。なお本書では「暴君なのはリアではなく、法律も人間としての道徳も無視する二人の姉娘」としてます。
もう一人の王のは『冬物語』のシシリア王リオンティーズ。突然王妃の不義を疑い、投獄し、臣下の離反を呼び起こしてしまう。
しかしこの戯曲では(読んだことないけど)、王妃もその擁護者である女性も、王へははっきり物申す。そして王は多くのものを失うが、「やり直し」が許される終わりを迎えるのだそうだ。
シェイクスピア義挙国においての暴君は短命に終わる。彼らはどのように統治するかの考えもなく、支持者もいない、抵抗組織をすべて潰すことはできない。そのために短命。
…これってでも現実では完全独裁政権って結構長いですよね…。
そしてたいていのシェクスピア戯曲で暴君に抵抗できるのはエリート階級だ。シェイクスピアは一般人はスローガンに乗せられ、脅され、贈賄にも弱いので、暴君に抵抗できない(脅し、賄賂、はエリート階級でも同じでは?)しかしリア王には名も無い召使が王に対して「これこそが忠義」と言って諌める場面がある。それによって殺されてしまうし名前もない登場人物なんだけど、彼には「人間の真意を守って命懸けで立ち上がる」暴君に抵抗する民衆の本質がある。
シェイクスピア戯曲で『ジュリアス・シーザー』は専制政治が起こる前に止めようとする動きがある。凱旋するシーザーの偶像化を防ごうとするのだ。しかし彼らの声は届かない。エリートにとって平民には名前はない。シェイクスピア戯曲でも、印象的な平民であっても名前がない、金持ち、エリートにとっては、平民が飢えるとしても市場の価格を落とすなら穀物を溜め込み腐らせたほうがよい。国家の経済システムが貧富のさを悪化させるものだった。(サド侯爵の本でありました。「楽しみで小麦を溜め込んで値を吊り上げて平民が飢え死にするのが楽しかった」)
❐暴君について
・政治は貴族のもので、彼らは平民など眼中になかったのだ。しかし平民の力を利用したら自分が権力を把握できると分かっている。社会の混沌こそが暴君誕生の舞台となる。
・暴君となる者は、かなり強引に敵を排除してゆく。暴君(になる者)自身も「こんなあけすけな仕掛けを分からないような馬鹿なやつがいるわけがない。でも分かったというほど大胆なやつもいない」ということで、周りも分かってるけど暴君(になる者)黙って道を開けている。
・暴君が求める「同意」は許可ではない。共犯者になれということ・暴君が権力の座へ登っていけば悲惨な事態となるが、喜劇的な側面もある。戯曲では、暴君、敵対する者、味方、それぞれに悪どさがあり、観客は彼らが受ける報いを楽しみにする。
・暴君は満足しない。望んでいた地位を手に入れても、欲求不満、怒り、不安はあり続ける。
・暴君は絶対的に孤独。心を許せるものはいない、誰も愛さない、自分が心でも誰も悲しまないと知っていた。(※実際のリチャード三世が戦死した時は、市民は嘆き悲しんだそうです)
・暴君には真実や証拠はいらない。自分が非難しているということで充分。
・暴君の元から逃げたものは、他の国外逃亡者と手を結んで侵攻軍を引き連れて戻って来る。歴史上成功例もあるし、失敗例もある。『リア王』のコーディーリアは国に戻ってきたが、権力や暴君抵抗ではなくて「ただお父様への愛のため」となってます。
シェイクスピアはその時代に政治や王(女王)批判により残酷な処刑が行われたことも見てきたのだろう。そして観客となる大衆が感じる恐怖や、それでも物語に味わいたいスリルがなにかを図ってきた。そしてシェイクスピアは社会への不満分子でもない。そこで罰則を受けずに大衆が楽しめる表現を行ってきた。
貴族階級の目に触れない平民だが、その普通の市民の人間的精神が暴君を倒す力だという考えが見られる。