イギリス帝国史が専門の秋田茂氏とカナダ史が専門の細川道久氏の共著である本書は、第1次世界大戦勃発当時に起きた「駒形丸事件」を通してインド太平洋世界の創出とイギリス帝国の変容を描き出そうとするものである。「駒形丸事件」とは日本の海運会社が保有する駒形丸(船籍は関東州:日本の非公式帝国)がインド人移民を
...続きを読むカナダのバンクーバーまで乗せて行ったものの上陸を拒否され、さらに帰路コルカタで20人近くが虐殺されるという悲劇(バッジ・バッジの騒乱)を引き起こした事件である。どうしてそのような悲劇が起きるに至ったかについての詳細は本書をお読みいただくしかないが、本書はこの忘れられた事件を通じてグローバル・ヒストリーをダイナミックに描いている。
内容を簡単に紹介しておこう。「はじめに」で述べられている通り、キー概念となる「インド太平洋世界」とは「アジア世界とアメリカ大陸からなる「アジア太平洋世界」に、南アジアや南アフリカなどを含めた「環インド洋世界」を加えた」ものであり、「こちらの方が、歴史的実態に即しており、地域的つながりを理解するのに有効な枠組み」(p.15)である。この枠組みのなかで「つながる歴史」が描かれていく。
第1章は、「駒形丸事件」が起こった背景について、モノとヒトの移動に関わる経済面と、政治外交・軍事力に関する安全保障面から概観されている。経済面からの概観で参照されるのが、経済史研究者にとってはおなじみの杉原薫氏の「アジア間貿易論」である。その「アジア間貿易論」を援用しながら国際公共財としての自由貿易体制、その結節点としての香港、シンガポールが重要であったことが確認される。安全保障面からみたインド太平洋世界は日英同盟が1つのキーとなる。また「帝国臣民」としてのインド人移民の立ち位置が、南アフリカのガンディーの活躍を事例に概観されている。
第2章はさらに舞台が絞り込まれ、カナダ自治領(ドミニオン・オブ・カナダ)が事件の舞台として叙述されていく。ほとんどの日本人にはなじみのないカナダの歴史はローカルとグローバル、リージョナルとナショナルの四層を軸に分析されるグローバル・ヒストリーの手法による格好の材料であることが了解される(もちろんグローバル・ヒストリーの手法がそのほかのネイション・ヒストリーに有効でないということを意味するものではない)。第2章の前半が、中国人と日本人移民排斥の歴史、後半がインド人移民の排斥の歴史が取り上げられ、その共通点と相違点が剔出され、非常に面白い。そして最後にインド人の反植民地主義ネットワークの結節点であるバンクーバーの位置付け、それに絡む日本の船が登場し、インド、香港、上海、神戸、バンクーバーがつながっていく。
第4章では「駒形丸事件」の前半、つまり駒形丸がバンクーバーで屈辱の上陸拒否にあってインドに戻っていくまでの2ヶ月余りが詳細に描かれる。ここでのポイントはカナダが最終的におこなった裁定の画期的意義、つまりイギリス帝国体制変容のきっかけとなったことと差別を前提とした移民政策がとられるようになったことであった。
第5章は駒形丸の後半の軌跡とそれがインド太平洋世界に与えた影響が叙述されていく。とくに第5章前半では寄港地としての横浜、神戸の様子と駒形丸の動向に同情的な関心を寄せる日本の輿論が取り上げられている。そして、1914年9月26日のバッジ・バッジ騒乱、シンガポールにおけるインド軍歩兵連隊の「反乱」、1919年4月13日の「アムリトサルの虐殺」(死者1200名、負傷者3600名)へとその波紋が広がっていった様が描かれる。
終章「インド太平洋世界の形成と移民」ではヒト・モノ・カネ・情報の動きを支えた国際公共財が「新たな広域の地域である「インド太平洋世界」の出現と形成を促し」、「新興の通商国家日本は、経済的には「アジア間貿易」を支える基軸国として、政治外交的には日英同盟を通じた軍事・安全保障面での対英協力(英領インドを含む対イギリス帝国)政策により、「インド太平洋世界」における諸帝国の共存体制を支えていた」(p.234)と総括されている。
本書では国際公共財としての自由貿易体制の支えの一つが領事館ネットワークであったことにも着目されているが、かつて自分も日本の領事館体制を取り上げて東南アジアとの交易ネットワークを論文で書いたことがある(「第一次大戦前の中国南部・東南アジア市場における通商情報網構築—香港における「領事報告」を中心に—」川勝平太編『アジア太平洋経済圏史 1500-2000』所収、2003年、「戦間期東南アジア市場における在外公館とその機能」松本貴典編『戦前期日本の貿易と組織間関係-情報・調整・協調-』所収、1996年)ので、非常に面白かったし、信夫淳平・在コルカタ総領事(p.194、歴史学者の信夫清三郎の父)の名前には記憶があったので懐かしくも感じた。論文を書いた当時は、インド太平洋世界にまで広がっていく広領域の歴史にまで繋げようという発想すらなかったので、本書は大いに勉強になった。