ページを捲った途端、何かに取り憑かれたように1文でも1ページでも早く読みたくて、寝食を忘れるほど読書に没頭した。
そして924ページの鈍器本を1週間で読み終えると、私は抜け殻になってしまった。
頭の中で整理がつかず本文の最後を何度も読み返す。翌日もまた何度も読み返した。
筆者の小林さんの胸中を案じて、氏の気持ちを全力で受け止めたい。そう思った。
1994年11月27日、中学2年生の上之郷 清人くんが自宅の柿の木で自殺をした。
「いじめを苦に自殺」そんな報道と公開された遺書を読んだ筆者は「なんじゃこりゃ?」と疑問を持ち、14年に渡る取材と、それを16年かけてまとめ、30年の歳月を経て書き上げた。
筆者は最初に語っている。
「これは筆者が創作した物語フィクションである」と。
被害者も加害者も傍観者も、被害者の親も加害者の親も、教師も教育委員会も、全ての人を公平に見ようとする小林さんの姿勢。
これは小林さんだからできた取材で、小林さんにしか書くことのできないフィクションという名のノンフィクションだと思う。
小林さんは自分の主観が入ってしまうことへの懸念から、フィクションであると断ったのだろう。その謙虚さが文章からも滲み出ている。
いじめとは何か?
いじめには色んな要素が複雑に絡み合っている。家庭環境、その土地の旧住民と新住民との関係、親の勤め先とそこでのポスト、教師の子供との関係、教師間の意思疎通、教育委員会の人事。
AがBをいじめた。Aが加害者でBが被害者。という単純なものではないことが読み取れる。
大きな事件も始めは小さな違和感でしかなくて、見過ごしても責める事はできないのかもしれない。でもそれを心に留め、気にかけておくことがいかに大切なことか。まさにヒヤリハットの重大性を痛感した。
学校で起こっていることは会社や政治の世界で起こっていることの縮図のように見える。
大人の世界でさえそうなのだから、子供の世界でもそうなってしまうのは当然のような気もする。まずは政治から、大人の社会から根本的に見直す必要があるのではないだろうか。
いじめる側、いじめられる側
人をいじめることは悪い。しかし いじめる側も、何らかの闇を抱えている。
悩みやコンプレックスのない人なんていないだろう。それは裏を返せば誰もがいじめる側になる可能性があることを示唆している。
いじめは、いじめられた側からのSOSだけではなく、いじめる側からのSOSでもある。
私たちはいつだって、いじめる側にもいじめられる側にもなり得る。
無知は罪 「ミリンダ王の問い」から考える
ギリシャの国王ミリンダ王がインドの仏教僧ナーガセーナにこう質問した。
「悪いことと知っていながらやってしまうのと、知らないでやってしまうのでは、どちらのほうが罪が重いか?」
これに対してナーガセーナはこう答えた。
「知らないでやったほうだ」
そしてナーガセーナはこんな例え話をした。
「幼い子が、真っ赤に焼けた火鉢の炭を、熱いと知りながら触るのと、知らないで触るのとでは、どっちの火傷が重いでしょうか?」
ミリンダ王は知らなかったほうだと答える。するとナーガセーナはこう答えた。
「無知こそが大きな罪なのです」
これは少年の自殺から1年4ヶ月経った月命日の法要の際に住職が語った説法だ。
知らずにしてしまった事は仕方がない。次から気をつければいい。そう思って過ごしてきた私は目から鱗だった。
炭は熱いものだと子供に伝えていない大人には重大な責任があるということだ。
子供の頃に教え込まれたことは大人になっても忘れられない。
例えば、お米はお百姓さんが一生懸命作ったものだから一粒も残してはいけない、とか。
50歳を過ぎた今でも、私は米粒を残せない。
いじめは腸内細菌?
筆者が面白い例えをしていた。いじめは腸内細菌と同じではないかと。
腸内細菌には善玉菌、悪玉菌、日和見菌の三種類があり、それぞれ2:1:7の割合で存在するのが健康的だと言われている。悪玉菌とて必要なのだ。
数が多い方の見方をする日和見菌、これが悪玉菌に傾いてしまうと、腸はたちまち不調になってしまう。
悪玉菌も必要なのではないか?という筆者の見立てに感心した。いじめをなくすことはできないけれど、早い段階で見つけて止めることはできる。
悪い子もいればいい子もいる。そしてどちらにもなり得る大多数。人の世界も同じような比率の時にはバランスがいいのかもしれない。
そしてこれは個人の心にも当てはめられるのかもしれない。
善い気持ちが2、悪い気持ちが1、そしてフラットな気持ちが7。
100%善人なんていないはずだ。時には悪い感情だって吐き出した方がいい。
悪だって少しは必要。ただその悪が増大してしまわないように、注意をすればいいんじゃないか。
遺書からの考察
私も清人くんの遺書を読んで、筆者と同じような違和感を覚えた。
そしてこの本を読み終え、小林さんが重ねてきた取材の内容をからこんなことを思った。
それは自殺した清人くんは、本当の意味での死を考えていなかったのではないか。
勿論、自殺自体は本気で考えたのだと思う。ただ、14歳という年齢は死を具体的に考えるのにはまだ幼すぎる。私も12歳くらいの時に死にたいと考えていた。でもそれは今考えている死とは違った。
学校という狭い世界での友達関係の悩み、自分が理想とする自分とは程遠いことへの失望、自分を変えたい、でも変われない=リセットしたい=消えたい=死にたい というような感情だった。
清人くんはいじめと言うもっと辛い体験をしている。だから私と同じ感情ではないかもしれない。でも遺書の中での言葉遣い、例えば「しくしく」と言うオノマトペを使っていたり、そこからは深刻な感情が今ひとつ伝わりきらない部分がある。遺書らしくない違和感。
そして自宅の柿の木で自殺をしたこと。
庭の柿の木にロープをかけて準備をしていれば、家族に見つかってしまう恐れがある。死亡推定時刻は11月27日の16:50。まだ日の入り直後で空は少し明るいはずだ。
彼は家族の誰かに見つけてもらえることを期待していたのではないだろうか。
いじめられていたことを問われても、決して家族や先生にも言わなかった清人くんは、遺書の中で嘘をついていたことに「気づいて欲しかった」と書いている。そう、清人くんは自分からは言えないけど気づいて欲しい、と思う子供だった。
家族に自分が死のうとしていることを気づいてほしい。だからこそ自殺の場所にわざわざ自宅の庭を選んだ。
仮に準備中に気がついてもらえなくても、発見が早ければ助かると言う希望をどこかに持っていたのかもしれない。
さらに遺書を引き出しに入れていたこと。
自殺を決行するのであれば、遺書は見えるところに出しておくのではないか? 自殺できなかった場合、家族に気づかれずに処分できるように引き出しにしまっていたのではないか。
確実に死にたいのなら家から離れた場所で自殺をする。
清人くんは誰かが止めてくれないかと密かに願い、家族が見つけてくれなかった場合、自分は家族から見放されたものとして死を受け入れよう、
もし、自分が生きる運命にあるのなら家族が必ず見つけて助けてくれる。そんなふうに考えていた可能性はないだろうか。
だからこそ遺書の最後はがsee you again だった。とか。
新しく生まれ変わってまた家族と過ごしたい。
しかし実際には、家族が彼の死に気がついたのは彼が命を絶ってから5時間以上も経ってからのことだった。
✴︎ここからはネタバレを含みます
兄、伸人くんのこと
清人くんの自殺以降、筆者は兄の伸人くんのことを気にかけ、食事に行ったり、自宅に泊めたり一緒に旅行に行くまでの仲になっていた。伸人くんの中の心の澱を筆者自身が感じ、常に気にかけていたことが伺える。
そして読みながらそのような筆者の心遣い、そして衝撃のラストの伏線となるような文章(伸人くんとの会話の中での筆者自身の返答や反応に対する後悔や反省)がいくつか出てきていたことから、なんとなく最後を予想していた。
しかし実際に小林さんの文章で書かれたそれを読み、強い衝撃を受ける。小林さんをもってしても止められなかった伸人くんの死。
小林さんの悔しさを考えるといたたまれない気持ちで胸が張り裂けそうになる。
小林さんはこの924ページにわたるこの作品のことを「助走にすぎない」と書いている。
そして今日的な悲劇は「伸人が懸命にあがいた軌跡」の中に浮かびあがる、と。
「どうやら禁断の完結編にとりかかる準備がととのったようだ」
小林さんは「目にまばゆいばかりの光を放つ、伸人の青春記」を書こうと、こうしている今も取り組んでいるのだろう。
see you again
それは清人くんの遺書から抜き出した言葉だけではなく、小林さんの固い決意でもある。