◾️リーダーシップがめざすべきもの
リーダーシップがめざすべきは、人と機械のパフォーマンスを良くすること、品質を良くすること、アウトプットを増やすこと、そして同時に、人々がワークマンシップの誇りを持てるようにすることだ。逆の言い方をするなら、人の失敗を見つけては記録するようなことばかりやるのをやめて、失敗の原因を取り除けということだ。リーダーシップがめざすべきは、人々がもっと楽に、もっと良い仕事をやれるように、助けることなのである。
リーダーにはまた、「システム」そのものを良くしていく責任がある。即ち、誰もがより良い仕事をして、より大きな満足を得られるようにすることであり、彼らの「より良い仕事、より大きな満足」を、長期にわたってずっと改善し続けられるようにすることだ。リーダーの3つ目の責任は、その「システム」の中で行われる仕事のパフォーマンスの安定性を、着実に高め続けることだ。そうすれば、人による「ばらつき」は目に見えて減っていく。
繰り返し言うが、恐怖が存在する職場では、数字が正しくないものになっていく。組織というものは、そこで働く人々が思い描いている認識に沿って動いていくのである。不良率が100%になったときに工場長が本当に工場を閉鎖するか否かには、これは全く関係ない。
オペレーショナル・デフィニションが、概念に「互いに伝え合うことができる意味」を入むのだ。「良い」「信頼できる」「均一性が高い」「丸い」「経年劣化している」「安全な」「危険な」「雇用されていない」といった形容詞的語句は、標本抽出と試験のやり方、基準といったものを定めるための用語を使って表現されるまで、何の意味も持たない。「、何の意味も持たない。「定義」の概念は言葉では表せない。つまり、「定義」が頭の中の概念のままであるなら、他の誰かに伝えることはできないということだ。そこで、「オペレーショナル・デフィニション」は、合理的に考える人々が合意できる唯一のものだ。
また、オペレーショナル・デフィニションは、人々がそれを使って仕事をやれる、唯一のものでもある。「安全である」とはどういうことか、「丸い」とはどういうことか、「信頼できる」とはどういうことか、その他、品質に関するさまざまな事柄のいずれについても、しかるべきオペレーショナル・デフィニションがあって初めて「互いに伝え合うことができる」ものになる。品質に関する事柄なら特に、ベンダーにとっての「意味」が買い手にとっての「意味」と同じでなければコミュニケーションがとれないし、生産ワーカーにとっても、昨日も今日も同じ「意味」であればこそ、互いに伝え合うことができるのだ。
望ましい手順というものは、「ある特定の目的のために必要な何か」に最も近い結果をもたらすはず、あるいはもたらしたという事実によって、他のやり方と区別される。あるいはまた、お金や時間がかかる、実現可能性がないといった事実によって「望ましい手順」が決められることもある。ある時点で「望ましい手順」として定めたものであっても、常に修正し続けなければ陳腐化を免れ得ないのであるから、正確さも、いずれの手順におけるバイアス(統計上の処理から生じる歪み)も、論理的な意味において不可知であると考えざるを得ない。
オペレーショナル・デフィニションは経済性と信頼性のために欠かせない。例えば、失業、汚染、製品や機器の安全性、(医薬品の)効果や副作用、副作用が明らかになる前の投薬期間などについてのオペレーショナル・デフィニションがないのであれば、統計的な用語で定義されてしかるべきであり、それができないうちは、こうした概念(失業、汚染など)は意味を持たない。オペレーショナル・デフィニションがなければ、問題を調べるのにコストが嵩むばかりか、調べたとしても効果が得られず、いつまでも水掛け論を続けることになるだけだ。
●集団の中には必ず集団の平均を超える点がある。
●すべての点が平均に集まることはない(ごく稀に生じる偶然を除けば)
●統計的に管理された理想の状態においても品質と生産量には「ばらつき」が存在するが、その変動はランダム性の基準を満たす。言い換えると、「ばらつき」は安定しているということだ。統計的に管理された状態にある「品質「特性」は安定しており、一貫性がある。いつでも再現可能だ(第1章)。「ばらつき」を減らし、より良いレベルを追求する責任はひとえにマネジメントにある。
●「ばらつき」やロスを引き起こすのは特殊要因だけではない。そこに「システム」があるからには、「システム」そのものから生じる共通要因がロスを引き起こすこともある(第11章)。
・当社の工場は細かい分業で動いている。欠陥を抱えたままのワークマンシップで、良い品質を保証する方法などない。
・細切れにされた仕事は、間違いなく社員の不満に繋がる。良い仕事をしてそのことに誇りを持つのは社員の権利だ。細かく分業させていたら、社員からその権利を奪うことになる。
・われわれの提案は分業をやめることだ。そのためには、良い訓練と、新たな監督の仕方が必要になる。
ここで以下のことに注意されたい。統計的手法を特殊要因の検知に使うだけでは効き目が弱く、控えめなその効果さえも、マネジメントが「システム」の改善に踏み出すことがなければ泡と消えてしまう。生産の作業員が良い仕事をするのを妨げている共通要因(環境要因)を、会社は断固除去しなくてはならない。会社はまた、自分の仕事に誇りを持つ可能性から作業員を遠ざけている障害物を除去しなければならない。マネジメントがこの最初のステップを踏み違えたままでは、生産の作業員に自らに起因する特殊要因の見つけ方を教え込もうとしても、新たな問題を増やすだけだと私は確信する。
◾️情報なしではいけない
無検査と判定するルールは、暗闇の中をライトなしで進めという意味ではない。納入されるすべての材料や部品を見てみるべきだ。ロットを飛び飛びに見るだけでもよい。これは情報を得るためであり、ベンダーの納品書と照合するためであり、また、ペンダーが実施した検査結果や作成したチャートと比較するためである。
同一品目に対しサプライヤーが2社であるなら、それぞれに対して別個に記録するべきだ。
既に第2章の原則4でアドバイスしたが、さらに付け加えるなら、長期的なパートナーシップという考え方に基づいて、どの品目についても単一サプライヤーに近づけていくこと、そのサプライヤーと力を合わせて納入品の品質を良くしていくことが望ましい。
◾️サービス分野の組織におけるミスと修正
ここまでに紹介した理論は、さまざまな仕事のなかで起きるミスにも当てはめることができる。
銀行で、百貨店で、企業の給与支払い担当部門で、そして他にも多くの状況で、ミスは起きている(後述の例3を参照)。サービスの仕事はさまざまなステージを経て進み、最終的に顧客宛の請求書に結実したり、小切手や取引明細書の数字として表出したりする。ミスが発見されないまま、いくつかのステージを通り過ぎてしまうこともあるだろう。ミスを修正するコストは、ステージをいくつも通り過ぎる間に、発生地点で発見し修正するコストの20倍、50倍、100倍になってしまう可能性がある。アーヴィング・トラスト・カンパニーのウィリアム・J・ラッツコ氏によって提供された後述の例3において、k2はk1の2000倍である。
製品が複雑になればなるほど、コストを抑えるためにはコンポーネントの信頼性を一層高めなければならない。コンポーネントの不具合は事業の流れの全域で費用に影響を与える。廃棄、手直し、部品の不良に備えるため在庫を多めに持つ、瑕疵保証費用の増大といったことだ。そしてついには評判を落とし、売上を失うことになる。
―――ラインの最初から最後まで、モノにもワークマンシップにも欠陥は許されない
ここまでに論じてきた理論がわれわれに教えるのは「生産のいずれのステージにおいても不良は決して許さない」という考え方と行動の重要性である。1つの作業の結果は、次の作業にとっては「納入されてくる部品や材料」になる。たかが不良品1つと思うかもしれないが、一旦つくられてしまったら、後になって検査で発見され修理か交換されるまで、ずっとそのままなのである。いや、発見されることすらないかもしれない。加えて、修理や交換は常に非常に高くつく。
先の議論の中に登場したコストでとるだけが考慮すべきコストなのではない。不良が不良を生むのである。生産の作業員が中途半端に出来上がったものを渡されたり、欠陥を内包するアセンブリを受け取ったりすると、ひどくやる気を削がれるものだ。自分がどれほど注意深く作業していても、不良になってしまうとしたら、どうして作業員がベストを尽くせるだろう。誰も関心を持たないのに、どうして自分が気を回さなければならないのか。
これに対して、不良がめったに生じないか、不良ゼロの職場、あるいは不良に正面から取り組み、不良が生じるメカニズムを解明できている職場ならどうだろう。マネジメントがしかるべき責任を引き受けていることを作業員は理解し、自分もベストを尽くす責任があると感じるはずだ。そうなってこそ、作業員の努力が効果を生む。