ネットで見つけた会計の視点から見た世界史の通史です。一人の著者が開設する通史の本は興味がります。会計についてのみ述べるのでなく、その背景および周辺についての情報が面白かったです。
なぜイギリスで最初に産業革命が起きたのか、カッコの良い解説を学校では勉強してきましたが、この本に書かれている内容には納得できました、このような瞬間は読書をしていて良かったなと思います。
以下は気になったポイントです。
・ダーウィンの進化論には、それ以前のものにない3つの特徴がある、1)枝分かれ進化(私たちとチンパンジーは約5000万年前に共通の祖先から枝分かれして別々に進化した兄弟の関係)、チンパンんジーをどんなに頻出改良してもホモサピエンスにならない2)内在的な意思、進歩の法則の否定(より多くの子孫を残せたものが広まる)、3)宗教的背景とは無関係(p49、59)
・シャーロックホームズが活躍した19世紀の1ポンドは現在日本でいう、24000円の価値であった(p50)
・現代人の身体的特徴が出揃ったのは約180万年前、ホモ・エレクトゥスの時代、走るのに適した長いアキレス腱、走行中に頭が揺れても平衡感覚を失わない大きな三半規管、物を投げるのに適した柔軟な腰・肩、だから石器を作り刈りをして生活した(p61)
・ヒトには他の哺乳類にはない強力な武器がある、それは「暑さに強いこと」直立二足歩行のお陰で、太陽の照り付けが激しくなる正午頃に日の当たる体表の面積を小さくできる、大量の汗をかくことができ、体毛が薄いので冷却効果も高い(p62)体重の2%しかない脳は全身のエネルギーの20%も消費する燃費の悪い器官である、脳が大きく進化した背景には理由がある(p63)私たちが持つ巨大な脳は、群れの仲間と「上手くやっていく」ために進化した、身近な仲間との「貸し」や「借り」をきちんと理解し、記憶しておくために高度な知識が必要になった(p67)
・お金よりも先に文字があり、文字よりも先に簿記があった(p75)
・イタリア両替商の組合は、1299年にインド=アラビア数字の使用を禁じた、ドイツのフライブルグではローマ数字か文章で記述されていない負債の証明書は無効であるという法律が1520年に制定されている。スコットランドでは17世紀になってもローマ数字が使われていた。北イタリアで複式簿記が発達した要因には、早い時代からインド=アラビア数字が広まっていたから、さらに重要な背景は「公証人制度」が普及していたから(p90)
・11世紀初頭にはイベリア半島の3分の1は、およそ20のイスラム公国によって支配されていた、15世紀には、アラゴン・ナバーラ・カスティーリャ・グラナダ・ポルトガル王国があった、1469年にアラゴン国王とカスティーリア女王の結婚(王国統合)により、イスパニア王国ができた、1492年には最後に残ったグラナダ王国を滅ぼして「レコンキスタ=イスラム勢力排除」が終わった、その後にフェルナンドとイザベラの次女フアナがオーストリア大公、のちの神聖ローマ皇帝・マクシミリアンの息子・フィリップと結婚したことで、スペイン・ハプスブルク家の版図はさらに広がった(p121)
・中南米では一度減った人口(疫病、紛争の頻発など)をなぜ回復できなかったのか、スペイン人たちの布いた制度は、本来なら食糧生産に従事すべき男たちを農村から引き離し、金銀を掘らせた、結果として現地人の共同体は崩壊し、飢饉と貧困が蔓延した、子供が生まれても育てられない状況になった(p124)
・オランダ独立戦争は「80年戦争」とも呼ばれるが、1568年の反乱に始まり1609年に事実上の独立が達成され、80年もかかっていない。オランダの独立が国際的に承認されるのは1648年のウェストファリア条約なので、ここでオランダの独立戦争は終結した(p131)
・中央銀行がお金の供給量を調整する主な手段は、買いオペ(売りオペ)、公定歩合、預金準備率、現在の日本では長らく金融緩和が続いているが、これら3つの方法を駆使して世の中のお金の供給量を増やそうとしている、計画的で穏やかなインフレが経済によって望ましいから(p137)
・スペインの王(カルロス1世、フェリペ2世)は気づかなかったが、貴金属の価値は絶対的な物ではない、他の商品と同様に、供給量が増えれば価値は下がる、大量の銀を中南米から持ち込んだことで、当時の欧州では銀の価値が下落した、お金としての価値が落ちた、こうして1540年代から1640年代にかけて、欧州全土で大規模なインフレが起きた(p141)
・スペイン帝国は植民地の略奪と開発によって、金銀を得ようとした。イギリスのように植民地で貴金属を見つけられなかった国々は、貿易によって金銀を国内に流入させ、貯め込もうと考えるようになちなかった、これを「重商主義」と言い、これが後に大英帝国が覇権を握る布石となる(p143)
・当時の欧州の人たちは、アフリカ大陸を実際よりも小さく自分たちの土地と同じくらいと見積もっていた、アフリカ西岸はカナリア諸島の辺りで海流の向きが変わるため、大航海時代初期の帆船では、それより南に進むことができなかった、その海域さえ突破できれば、東向きに針路をとってインドに直進できると考えられていた(p148)
・1602年3月、中小の貿易会社が統一され「オランダ東インド会社(VOC)」が設立された、これが世界最初の株式会社と呼ばれる理由は3つ、1)事業継続を前提、長期に渡り植民地の維持が可能、2)無限責任から有限責任制へ、3)株式の譲渡が可能になった、市場での自由な売買が可能となった(p153)
・18世紀のイギリスで起きた「南海泡沫事件」は、歴史上有名なバブルのひとつで「バブル」という言葉がこの事件をきっかけに生まれた。南海会社は、東インド会社設立のおよそ110年後(1711)に設立された、事業目的は奴隷貿易で、スペイン領の南アメリカに奴隷を供給する商売(アシエント貿易)の独占権をイギリス政府から賦与されていた。そのほかの存在理由として、政府の財政難の解消があった、イギリス公債の一部を南海会社の株式へ転換する政策が取られていた(p176)
・1716年にジョン・ローが作った、バンク・ジェネラルは、フランスで初めての発券銀行(紙幣を発行できる銀行)となった、海外貿易の決済に紙幣(銀行券)を使えるようにし、さらに、税金は全て銀行券で支払うという法令を公布した(p191)1718年には王室銀行と改称、重要なことは、王室銀行が銀行券の発行を貴金属の準備と切り離した(=不換紙幣の発行)こと(p192)これがミシシッピ会社のバブルとなった(p198)
・中世までは国会運営は王家の私的財産によって賄われていた(=家産国家)近世以降は戦争の大規模化に伴い、最終的には国民から徴収した税金によって国家を運営せざるを得なかった(=租税国家)、国民は税金を納める代わりに議会を通じて、税の使い道を監視させるように要求した、現在では当たり前の、議会制政治、国民主権は、租税制度の発展に伴い産声を上げた(p208)
・日本で一般国民が苗字の使用を許されたのが、明治3年、苗字の必称義務が課せられたのは、明治8年である、明治9年には俸禄廃止となった(p215)
・産業革命には、第一次(軽工業、石炭、蒸気機関の時代)産業革命、第二次(石油、電気、重化学工業、電機工業、非鉄金属工業)が発達した時代がある、2世紀あまりの時間がかかっている、人々の生活の変化も緩やかで、産業発展は「革命的」ではなかった、18世紀末まで一般庶民の「豊かさ(=人口一人当たりの所得)」は、新石器時代と大差なかった(p223)200年という歳月は人類文明1万年の歴史から考えると「ごく短期間」で変化したことになる(p232)
・気候変動で狩猟採集で得られる動植物が減り、さらに人口増加によって食糧難に陥ったために「仕方なく」農耕を始めた、農耕の開始により人々の生活水準は落ち、死亡率は上昇した。狩猟採集では、木の実・肉類などをバランスよく食べられるのに対して、濃厚定住生活では食事が穀物ばかりになり、栄養素が澱粉質に偏る、定住生活は人口密度が高くなり、身体的接触が増え、さらに排泄物で土壌や水質が汚染されて疫病が簡単に蔓延した。ではなぜ農業に切り替えたか、それは高死亡率を補って有り余るほどの出生率が上昇したから、狩猟採集生活では複数の赤ん坊を同時に育てられない、女性の出産間隔も短くなった(p225)
・農耕開始から約1万年間のほとんど全ての期間で一般庶民は貧しさに喘いでいたが、18世紀末から人類の科学・技術・経済は急激に成長を始めた、イギリスを皮切りに、北米・欧州・日本が「マルサスの壁」(=人口が増えると食糧は相対的に減り、食糧難と栄養失調が常態化し人口が増えない)を打ち破った、これにより人口の大部分が農業に従事していた時代は過去のものになった。かつては一部の特権階級だけのものだった「美食」「音楽」「芸術」「ファッション」「海外旅行」が一般庶民にできるようになった(p229)
・優れた発見や発明だけでは世界は変わらない、まずその発見や発明が広く使われて、産業の成長に繋がらなければならない、さらに、それが次なる発見や発明の土台にならなければ世界は変わらない(p235)1589年にイングランドの司教が自動靴下編み機を発明し、特許を得るためにエリザベス1世と謁見するが「靴下職人から仕事を奪う」として許可されなかった(p235)
・産業革命が生じた原因を理解するには、なぜ人々が現代のように技術革新を必要とするようになったのか、技術革新の需要面を解明しなければならない、18世紀のイギリスは、世界で最も労働者の賃金が高く、燃料費の安い地域であった、だからこそ労働を機械に置き換えるというインセンティブが生じ、それを可能にする技術革新への需要が生まれた(p240)そのため技術革新に投資することで利益を出せることになり産業革命がイギリスで始まった(p243)
・ペストによる人口減少で、西欧州の人々は一時的に「マルサスの罠」から解放された、人手不足で賃金は上昇、利用可能になった土地が増えて食料価格も下落、大量死のおかげで皮肉にも人々の生活水準は向上した(p249)
・鉄道は過去200年で人類の生活を最も変えた発明の一つである、イギリスのマチェスタ〜リバプール間では、運河なら片道36時間かかるが、鉄道は5時間で結び運賃は3分の1となった、駅馬車と比べて時間が正確であり、鉄道の普及は人々の時間感覚を変えた。それまで数日〜数ヶ月という単位で過ごしてきた人々が、何時何分という単位で行動するようになった。さらに1847年以降、鉄道の時刻表はグリニッジ天文台を基準に作成されるようになった、国内でも地域でバラバラだった時刻が統一された(p254)
・明治の頃の世界では工場は1日11時間操業が一般的であったが、日本人は11時間2交代制を採用し、機械を実質半額で利用できると気づいた。こうした工夫の積み重ねで、日本の近代工業は離陸し、着実は経済成長を始めた(p286)戦後日本の成長は明治期とは真逆の発想であった、安い労働力でも利益を出せるように資本(=機械)を利用する工夫ではなく、高度に資本集約的な(高額)最新鋭の生産技術、設備を「あえて」導入した(p290)1950年の鉄鋼生産は効率が悪く(小規模生産)そのため低賃金にもかかわらず、日本産の鋼鉄は50%も割高だった、こうした非効率な工場を最新鋭のものに置き換えることが日本政府の狙い(=効率の良い工場を建てることで他国と競争できるようにした)であった(p291)
・1950年台の自動車組み立て工場の最小効率生産規模は年間20万台ほどであった、これに対して最新の技術を貪欲に吸収した日本の自動車工場は、1960年代には年間40万台(ホンダ、トヨタでは80万台)にまで引き上げることに成功した、つまり1年間で40万台をせいぞうする時に1台あたりの費用を最も安くできる工場で生産活動を行うようになった、こうして日本は高賃金を払いながらも製品に競争的な価格をつけられるようになった(p293)
・次の100年で最も経済的に成功できるのは、AIでも人間でもなく「新しい技術を味方につけた人間」だからである。1997年にIBMのスーパーコンピュータが世界一となったが、現在の最強プレーヤーは誰か、AIと人間を組み合わせたチームが最も優秀な成績を収めるようになった(p329)
・15世紀半ばにグーテンベルグが活版印刷機を実用化したことで安価な書籍が流通し、教会やギルドは知識を独占できなくなり、人々の知的水準が向上、宗教改革とプロテスタントの誕生により、カトリック教会の威信は失われた(p335)一方、オスマン帝国の支配者は活版印刷が発明されて間もない1485年に、アラビア語の印刷物を禁止した、エリートが知識を独占する体制を作り上げたことで、オスマン帝国の支配者たちは何百年も権力の座に居座ることができた、1800年になっても成人の識字率は2−3%であった。結果として西欧工業国に大きく遅れをとることになり、第一次大戦の敗北によりオスマン帝国は消滅した(p336)
・この先10年を生き抜く方法、それは「知的好奇心を失わないこと」である「勝ち組」と見做された職業でさえも AIの発達いかんでは安泰ではない、「AIを味方につければいい」と言っても、そのためには仕事の進め方を変えなければならない。新しいものを楽しめない人や、慣れないことをして「素人だと馬鹿にされるのを恐れる人」には辛い時代になる、必要なのは新しいことを学び、挑戦すること、あなたの未来は「あなたが未来にワクワクできるかどうか」にかかっている(p336)
2024年10月20日読破
2024年10月22日作成