一般的に当たり前、とされていることを、哲学的な議論を参照しながら、本当に当たり前か?と問うてる。しっかり哲学、というか教養、をしている感じがして面白い
「哲学は何よりも実践です。日常生活において当たり前になっていることをもう一度疑い、あらためて考え直すことで、全く当たり前では無い事実を私たちの日常の中に探り当てることが、本来の意味での哲学なのだと思います。」とのこと。
富について
・マルクスの価値形態論
第一形態:それぞれの物に対する個人の欲望の強さが「価値」を決定している、主観的なもの。(自分はリネンが不要でコメが欲しい、ある人はコメは不要でリネンが欲しいという時の交換のイメージ)。個々...続きを読む 人の欲望を満足させることで取引が成立。価値は変わっていないのに、2人の効用は同時に増えている、というのが価値の魔法の原初的な部分
第二形態:多数の人々の間での一般的な価値のようなものが生まれ始める(複数の人がいる場所で、リネンとジャケット、リネンとお茶、、などいろいろな交換が行われるようになる)→人々の間でリネンってどれくらいの価値なんだろう?ということを考え始めるようになる
第三形態:主観性が排除され客観的な物になる。(リネンを媒介として色々なものがやり取りされるようになる)。誰もがそれを欲する、という状態。お金なんてただの紙だ、宝石なんてただの石ころだ、といくら個人レベルで吠えたとしても、多くの人が参加する「市場」の価値の決定においては、その声はかき消される。個人がそのもの自体をどう評価するかは自由だが、価値はそうした主観的な判断とは別に、市場によって客観的に決まるもの、とされる。
→個人がどれほど成果を積み上げてもそれがお金にならなければ価値がない、とされるし、たくさんお金があればそのことを根拠に価値がある、とみなされる。
生産者の手元での価値とお金で表象される価値との間には深い谷がある。
なぜ前澤さんの1000億円記帳が人々にとって魅力的か、なぜ人は富を欲望するのか?というと、お金、というものが唯一社会で共有される客観的な価値の基準であるから。
→なんかそう考えてみると、本当にお金、というのは私が社会から便益を得るために必要な分だけあれば良いのかな、と思った。そして逆に、個人の中の価値というか、自分が価値があると思うもの、を自分の中で積み上げていく、ということが本来結構大事なのかな、と思った。
アダムスミス論
スミス自身は富や名声の追求は個人にとってはただの欺瞞だが、社会にとっては社会を進歩させるエネルギーとなってると考えた。また、人々がなぜ富や名声を追求してしまうのか?についての最初期の分析がなされていて、それはプロテスタント神学的な考え方により、絶対的な正しさ、のような、絶対的な救済というものがなくなった。(これまで免罪符などで絶対的に個々人を救っていた教会へのアンチなので)→そうすると人々の間で絶対的な価値、客観的な価値を持っているお金、を追求することがある程度救済へつながりうる、という思想になっていった。という分析。普通に興味深かった。
アダムスミス、そんなに資本主義を個人の幸福的な観点から見るとアンチだと思ってたんや、、っていうのは意外で面白かった。
西洋では宗教が崩壊、日本ではそもそもあまり人生観・世界観に宗教の拘束が少ない状況で、資本主義におけるお金、が人生や行為の意味を作っていた、みたいなことなのかな〜と思った。
美について。
サブカルでは、「神」という表現が使われる。
この「神」は、非常に個人的なもので、より広い文脈ではただの人であることは織り込み済みな上で、あえて利用されている世俗化された「神聖性」が存在している。
1980年代以降、これまで教養教育が担っていた感性の共有が、サブカルチャー(ドラえもん、など)によって代替されるようになってきた。教養主義とサブカルの大きな違いは、押し付けがましさ。サブカルは多様性を尊重し、高次の統一された価値の指標を持つことを許していない。同じ物語を社会全体で共有することを目指す運動:教養主義。作品を通じて望ましい人格を育成することが目標とされていた。
教養主義では私が変容し、理想的な人格の完成することが良いことだが、サブカルでは私の変容は問題にならない。サブカルでは、"神"がたとえば麻薬中毒とかになったら、そのことによって私の世界観が揺るがされることはなく、むしろ"神"側が簡単にその座から引き摺り下ろされる。
このメンタリティの変化は、"大きな物語の終焉"として扱われる。
オタクカルチャーでは、動物化するポストモダンの中で東が述べているように、従来の大きな物語を共有するツリー型の物語消費に対して、それぞれの「私」が「個々の物語」を作り上げるデータベース型の消費が行われている、とされている。(e.g. 二次創作、など)
宇野さんによれば、1990年代の物語は、エヴァのような「何かを選択すれば何かを傷つける→何も選択しないで引きこもる」的な感じ。
2000年代は、ネオリベラリズムが台頭し、「戦わなければ生きていけない」から「究極的には無根拠である小さな物語を、信じたいから信じる」という感性。
←これ、私の感性と似ている。さすが2000年代?
教養主義は、近代社会において宗教権威が相対化され、お金・資本主義が新たな正義となり、道徳的な正しさが市場原理によって設定されるようになった世界において、失われた道徳的正しさを補完するための存在であった、と考えられる。
その教養主義を支えていたのが、「天才」。天才が作った素晴らしい作品を鑑賞することが、感性に基づく正しい判断の基礎となる、と考えられてきた。
夏目漱石、森鴎外、など。
教養主義の感性を支えたのは、ロマン主義。ロマン主義は、オリジナリティを重視。長らく芸術は、神が定めた物事の理念としてのイデアを完璧に模倣できることが良いとされていたのにも関わらず、ロマン主義では変容が見られる。
シュレーゲルという人が発端。自然を生まれた所与のものとしてではなく、生み出す力を持っているもの、とすることにより、自然の一部である人間にも生み出す力がある=オリジナリティがある、とした。神だけがオリジナリティを持っているのではない、というのが新しいところ。
→ここから、芸術家が偉大だとみなされるのは、彼が人間でありながら神に比されるオリジナリティをその内面に持っているから、である。芸術家の苦悩や葛藤が重視されるのも、それが内面の深さを表している、と思われるから。
これが、なんかAIで作品を作る、という行為がなんとなく嫌だな〜と思う理由の一つかもしれない、と思った。つまり、AIは苦悩したりしないから、内面がない。内面がないのに、側だけ天才のような形をしているのが、なんか元々のロマン主義が持っていた、天才の内面があるからこそ天才的な作品が生まれる、という定式を破壊するものに、見えるのではないか、と思った。
新しいものを作り出す力を芸術家の内面に見るという「考え方」を導入することで、鑑賞する側の人間が「神聖性」を読み取ってきた。
制作側はどうすれば神聖性を付与できるのか?
内面を掘り返していけば良いのかというと、それはあまりにも観念的で具体性を欠いており難しい。
シュレーゲルは、「今日まで人に知られることのあくまどろんでいる古い力と高尚な精神」に求めた。新しい神話を作ることが芸術の役割になっていった。
のちに続く芸術家たちは、その新しさを担保し続けるために、それまでの物語を一旦共有した上で違いを作る、という形で展開するようになっていった。つまり、芸術を「発展」の歴史ととらえる考え方が新しく生まれた。ロマン主義→写実主義→印象派→シュールレアリズム(超現実主義)、キュビズム→オリジナリティ自体を破壊するアンデパンダン(デュシャンの便器)
現在の芸術は、芸術の発展を画するものではなく、個別の物語の中で価値づけられるものになってきた。また、作家と親しい批評家がもっともらしい理屈でオリジナリティを褒める、ということも起きてきている。このように芸術の価値が自壊していく中で、サブカルチャーが、オリジナルな世界をデータベースとみなし、二次創作をしているのは新しく、オリジナリティの神話の解体につながっている。そして、作品自体というよりはそれが稼げるか、それが多くの人に知られているか、ということが重視されるようになってきた。
体系的な美術作品の価値を示すために、理論的な説明が必要になったのはロマッツォ(1538-92)の時代ごろから。
それ以前は、古代ギリシア以降「イデア」と呼ばれる世界の本質が、実際に世界のさまざまな存在のあり方を規定すると同時に、人間の魂の中にも存在してる、と考えられた。
この魂の中のイデアとは、オリジナリティとは異なり、神が作ったイデアを自分の中にもつ的な意味。
絵画論でデッサンが何よりも重視されるのは、画家は何よりも自然に学ばなければならない、自然の中にあるイデアに学ばなければならない、という発想があるから。これはレオナルドダヴィンチなどから始まる。
今でも芸術大学の入試の一次試験がデッサンなのはこの頃からの影響なのか、と思うと興味深い。
ただ、ルネサンス後期(ロマッツォの時代)になると、自然をそのまま移すのではなく、規則に反するように見えるものの方が美しい、的な考え方「マニエリスム」という様式、が出てくる。ミケランジェロ、ラファエロなど。人物の動きを表現するため、意図的に尺度をずらす作り方。神の作った世界を正確に模倣するのが良いはずなのに、彼らが作るものの優美さが作品の中にある、けど、どうしよう、となる。→ロマッツォの議論がその橋渡しに。
身体動作などの優美さが、神から与えられた恵みであり、自然の幾何学的な把握から抜け落ちる日が、「優美=神の恩寵」として理解された。
ロマッツォは新プラトン主義。新プラトン主義は、フィチーノによるヘルメス文書の翻訳、に痰を発する。ヘルメス文書とは、紀元後1~3世紀に成立したと見られる著作群、ストア派(感情や外部の出来事に左右されず、理性と徳を重んじる考え方、ストイックの語源)や新プラトン主義(プラトンのイデア論を発展させ、世界の全ては究極の絶対的な「一者(いちしゃ)」から 流出し、最終的には「一者」へ還っていくと考える思想)など当時の哲学とキリスト教の教えを混ぜた考え方。
のちに誤解だとわかるのだが、この中に出てくるヘルメスという人が古代エジプトの神と同一とされ、アリストテレスやもそれらの影響を受けている、ということになった。これは、当時の反アリストテレス主義の後ろ盾となった。反アリストテレス主義では、救済はひとえに神の意思によるものとするやり方。アリストテレス主義の方はアリストテレスが万学の祖と言われ、論理学などを考えた人であることからも分かる通り、人間の側で世界についての知識を深めなきゃいけない(主知主義)、と考えており、これが教会の権威に繋がっていた。
だから神の恩寵である優美さは大切にしないとね、って感じ。優美さは不可知論とも繋がりがある。概念的なよくわからないものを大事にしよう、的な。よくわからないものは、論理ではなく、感覚によって掴まれる。神から与えられたカリス(優美)〜カリスマ、が感覚的に重要となる。
何かを「美しい」と称賛する私たちの感性は決して自然ではなく、特定の社会的な文脈の中で位置付けられていると考えられる必要性がある。
科学について
科学が商業化していることを嘆いている・
ガリレオのピサの斜塔の実験は、実は空気抵抗で軽い球の方が早く落ちてる。これは広く知られている真実とは違う話。
万有引力の法則も、定義されるものであり、観察結果から導き出されるものではなかった。当時のアリストテレス系の哲学からはニュートンの万有引力の法則はオカルトと言われていたが、数学的に美しく説明できる、という点が、プロテスタント神学の不可知論と共鳴し、一旦正しいとされた。
原子論的な粒子という世界観に対して、量子力学の発展により、原子=素粒子は、波でもあり粒子でもあるという性質を持つものとされた。つまり、我々は素粒子を統合的に説明できる枠組みを未だ持っていない、ということになる。
ライプニッツは、そのもの自体に力がある、というアリストテレス的な科学感を近代科学に集合させたようなところがある→現代のニュートン力学を批判的に見る視点を与えてくれる。
今まで、ニュートン力学について真実だと思って疑ったことがなかったけれど、それは単なる仮説だった、というのは結構衝撃的。
正義・権利について
資本主義社会においては、みんなが共感できるものが「正しい」とされる。(アダムスミスの道徳感情論。)
一方で、流行に流される正義ではなく、一定の強制力を持って正義を要求する立場 = ポリティカルコレクトネス、も存在する。
(e.g. ハーバーマス:現代では共感できるものを共感し、共感できないものはネットで吊し上げる、というように、資本主義の中の消費者の立場として公共性が作られるようになったことを嘆く。そして、人々が合理的に話し合う熟議制民主主義が必要だ、と考えた。)
ただ、ハーバーマスは、全員が理性的存在である、と捉えているところがかなり微妙で、皆が合意しているわけでもないのに、そういう風に振る舞わなければならない、としているところがおかしい。
かつては熟議があったと思う人もいるかもしれないが、コーヒーハウスでの熟議も、資本主義社会を成立させることを目的として行われていた、熟議の結論として成立したものを、また熟議で壊す、のは難しいのではないか、と筆者は考えている。
リベラル派の主張への反論として下記は非常に勉強になる。
リベラル派(e.g. ロールズ)が解くような理念は、それにコミットした覚えがない人にも強要できるものでしょうか。想定されるような原初状態に置かれたら、人は皆同じ判断をするはずだというロールズの主張が仮に正しかったとして、実際にそのような原初状態に置かれた覚えがない人に対して、リベラルな理念へのコミットを要求することはどのような権利で可能になるのでしょうか。経済的に追い詰められていく低中間層の人々は、不当なコミットメントの前提が「弱者」に過剰な救済を与えていると考えます。そうした考え方は「正しくない」と言ったとしても、彼らとの間の溝は深まるばかりです。知的なエリート層が勝手に設定した「正義」の理念を押し付けられていると思う人々が、経済的・政治的に「強いアメリカ」を取り戻すという言説に魅力を感じるのは、ある意味で必然的な帰結であるように思います。リベラル派の「正義」が成立するためには、人々が実際にその原理にコミットすることが条件になりますが、現実にはすべての人々のコミットを前提した上で、「正しさ」を要求するものになっているのです。前借りされたコミットメントの上に振りかざされる「正義」が、その負債を無視した上で、同意した覚えのない人々にまで「正しさ」の代償を求めているようにさえ思われます。「自由」で「平等」な社会を実現するには、すべての人がその代償を払わなければならないと言われるわけですが、そのような議論はどれほどの普遍性を持ちうるでしょうか。
「自由」や「平等」という考え方は、近代における私たちの社会を成立させるために不可欠なものだと考えられます。それは我々の「権利」とされていますが、それはどのようにして成立したのでしょうか??
遡って考える。
まず最初に言ったのは、ホッブズ(『リヴァイアサン』を著し、社会契約説を唱え、人々の平和と安全のために絶対的な主権を持つ国家が必要だと主張しました。彼は、自然状態の人間は「万人の万人に対する闘争」状態にあり危険なため、人々が契約を結んで国家に主権を委譲することで、この状態から脱して安定した社会を築けると説
)
ホッブズは、人間は、自然状態においては、自由(自分の意思だけで行動する)かつ平等(個々人の間の能力の差はほとんどない)と考えた。ここでの平等は、今言われている平等(差なく)みんな平等であるべき、という考えとは違うもの。
「権利」の近代的な意味を確立したのもホッブズ。ホッブズの「権利」はlus(ユス)が語源で法的に正しい、という意味。ただ、法的に正しい、という意味のラテン語はレクス、というのもあって、そのふたつ。ホッブズは、法律的な正しさつまり「そうしないことを許さない」という形をレクス、「そうしないことも許される」という形をユスと定義した。これは実現可能性だけが与えられていて、実現するか否かは自由という「正しさ」を構築し、それを「権利」とした。
例えば、知る権利、という言葉も、絶対に知らなければならない、というわけではなく、知っても知らなくても良い、っていう感じ。
そしてわかるように、この権利の概念には最初から、「選択の自由」、という自由の概念が組み込まれている。この選択の自由は、従来のキリスト教的価値観での自由、つまり目的は善に向かっていくこと、で固定されているが、その手段は自由、という意味。何をしても良い、という意味の自由ではない。(ホッブズ自体は、のちに「何をしても良い」という意味の自由、の概念を確立する)
ホッブズの自由:人間が自然状態にある時の状態を「事実」として表現したのが自由。そういうものだよね、という記述。つまり、「自然」や「平等」などの「自然権」は、社会契約の後に統治者の手に委ねられ、無くなるものだ、と考えていた。
自然状態(みんなが「自由」で「平等」な状態)では、万人の万人による闘争が行われてしまう、と考えた。そこで、戦争を回避するために人々は共通の権力に服従し、互いの自由を制限するのだ、と考えた。
今我々が考える自由と平等の概念は、ジョン・ロックによって与えられたもの。
ジョン・ロックの自由は、「自然状態においては、自然法の範囲内で、自分が適切と信じるところに従って自分の行動を律し、自分の財産と身体を処置することができ、他人の意思も他人の許可にも依存することもない」ということ。
ロックのオリジナリティ
①自分の財産と身体を処置することができ、というように、「私的所有権」を人間の自然権に加えた。「私的所有権(してきしょゆうけん)」とは、個人や法人などの私人が、特定の財産を排他的・独占的に支配し、使用・収益・処分できる権利
②自然法の範囲で、という部分で、人間の定める実定法に対する概念として自然法、を定義。伝統的には神が作った世界の秩序、を意味する。
この自然法が入ってきたことで、「他者の自由を制限しない限り」という近代的な意味での自由、の概念に近づく。
ロックは、「自然状態には、これを支配する一つの自然法があり、何人もこれに従わなければならない。この法である理性はすべての人々に何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではないということを教えるのである。」
と言っている。
ロックは、ただ、自然法の執行の部分で、客観性がないために、もし自然状態であれば、ホッブズと同様に戦争状態が発生してしまう、と考えた。
ただ、ホッブズと違うところは、ロックは、社会契約にあたって、自然状態の権利を放棄しなければならない、とは考えていない。なぜならば、自然状態には自然法があるため、戦争状態になることは多いものの必ずしも戦争状態になるわけではない、と考えられているから。だから、自然状態で持っていた権利が失われるような社会であれば、「契約しない」という選択が残っていることになる。(これがロックにおいては、「抵抗権」政府が国民の自然権(生命・自由・財産)を侵害した場合に、国民がその政府に抵抗し、場合によっては打倒する権利を持っていることの背景)
→この考え方により、
ロックは、自然状態の「権利」を社会契約の後でも主張できる社会を構想しました。自然状態の人間が持っていた「自由」と「平等」は、ホッブズにおいてはそれによって争いが引き起こされるものと位置付けられていましたが、ロックにおいて自然権は、個々人の「権利」として社会の中に残されます。人間がすべて同じ自然法に服するものであるなら、権利についても同様に認められなければならないとみなされたのです、それは、神が定めた「自然=本姓」に準拠した正しさだから。この正しさは、神が定めた自然法が人間の権利の正しさを保障されるから。
でも、現代社会では神、というものは崩壊している→実は我々の社会に、自由や平等、の根拠となるものは存在していない。ロールズのような理論は、皆が同じ理念を共有することを強要してしまっている。
→必要なのは、むしろ自由や平等の権利の理念的価値を前提にせず、それらの理念をみんながコミットしうるようなものとして位置づけ直すことである。
と筆者は締めた。
私、の章
「ありのままの私」への全肯定、(≒自分の判断、自分が感じたことって客観的に見ても正しくて、みんなそう思うよね、と思ってしまうこと、?かな?私の独自解釈)がなぜ起こるのか?について分析
カント
純粋理性批判で、まさに、各人がそれぞれの経験に基づいて物事を判断するのであれば、その判断の客観性はどのようにして担保されるのか?という問題を検討し、人がそれぞれどんな経験をしてきたとしても人間として共有している認識の形式があるから、「客観性」は共有しうると主張した。
形式3つ、どんな物事でも時間と空間の中で経験される、すべての物事が「カテゴリー」と呼ばれる枠組みの中で判断される、誰でも同じように「私」である、
筆者:ただその3つを共有していても、判断が一意に定まるわけではない。
←確かにそう。
カントは最終的には、「理性」で判断の正しさは保証されるが、理性だけで「正しさ」を判断するのはやめよう、と言った。
理性:論理的な推論を行う能力。これを遂行するのに「経験」は必要ない。三段論法などは、A→B、B→CならばA→Cの、ならばA→Cを理解できれば良いのであり、A→Bが正しいか?とかを検証することは含んでいない。
→理性は、正しさを量産できてしまうから統制した方が良い、一方でみんながてんでバラバラなことを言うのを避けるために、理性を統制的に使用し、一定の正しさの基準を共有するのは良い、とした。「虚焦点」的な「理性」。虚焦点:遠近法の参照点。これがないと、へんてこりんなえになる、と言うもの。
ので、つまり、それぞれの経験を行き当たりばったりで自分の認識空間に広げるのではなく、他のものとバランスを取って配置するには、理性の働きが必要だ、ということ。
ただ、その参照点が理性であるべき、と言うのはまた、正しさの押し付けである。
ように見えるが、「私」が「私」である以上同じ「理性」を共有しているはず、と考えたのがカント。
カントにおける「私」=「自己意識」、自分自身も対象とし、観察しているような「私」
そういった「私」が時間を経ても変わらないものとして存在していなければ、そもそも「経験」というものを捉えられない。「経験」が「私」に刻まれていくようなイメージ。
なぜそういう「私」がある、と言えるのか?
そういう「私」を経験した、見たり聞いたりした人はいないのに。(ロックにはじまる経験主義:経験されるものだけを手掛かりにして客観的な議論をしようとするもの、からの批判)
カントの考え方
自己意識としての「私」は、それ自身経験の対象にはならず、決して経験的なものではない。しかし、だからといってそれを超越的と決めつけるのも違う。時間を通じて同一な自己意識は、それ自身経験されるものではなく、むしろ「経験」を「経験」として可能にするための条件になっている。それゆえその存在は超越論的に要請されなければならない。「超越論的」は、そのように経験を可能にする条件を示すものとして、以降の哲学の概念となった。
ただ、上記の考え方は、哲学の中で、批判と問い直しにさらされている。
つまり、人間は本当に同じ「私」=「自己意識」を持っているのか?が問い直されている。
カントは経験を成立させるために必要なもの、として「私」=「自己意識」を定義したが、それが、なぜ「私」=「自己意識」であるべきなのか?ということは説明していない。
実際、めっちゃ酔っ払って記憶にない時の経験を「自己意識」の枠組みに入れることはできない。
こういった自己意識から欠落する経験は、誰のものになるのか?←これが近代における「私」を問い直す鍵。
経験の主体は「私」ではなく、経験の積み重ねに必ずしも「自己意識」は必要ない、としたのはフロイト。意識されない、無意識の領域があることを発見した。
経験と呼ばれるものは、意識とは関係なく、外界からの刺激が脳の神経ネットワークのパターンとして保持される、と考えた。
記憶も、単に経験されたことを蓄積するだけではなく、得られた経験を喚起できる機能。フロイトが「欲動」と定義する
、有機体の内側からニューロンネットワークを活性化する能動的な作用によって、記憶が呼び起こされる。
←これは、経験が自己意識がなくても蓄積される、と言うことを示している。
フロイトにおいて、「自己意識」=「私」は、一定以上の経験のあと事後的に作られるもの。経験の積み重ねの中で、人は物事を「私」という一人称で引き受けることができるようになる。
この「私」がでは、みんな一緒のものか?と言うと、人の経験が違うのだから、必ずしもそうではない、と言える。
フロイトはエディプス・コンプレクスという過程が一般的だ、と考えたが、そこから逸脱する人もいるだろうし。
ただ、とはいえ、「私」が「私」である、ということは疑いようのない事実である気がしてしまうわけで、「私」は事後的にできた、と言われても、にわかには信じ難い部分がある。「私」を中心として世界を考えることは、容易に払拭し難い、近代社会の前提になっている。近代哲学の父、デカルト。
デカルトは、方法的懐疑により、「我思う故に我あり」と言ったが、これは「私」の存在の確実性を言ってるのか?
いや厳密には、そこで確実なのは「私」という時間を通じて同一の存在ではなく、思考作用そのものである。
ので、確実なのは思考自体であり、その主体が「私」である確実性はどこにもない。つまり、我思う故に我あり、は結構論理的には飛躍している。思考を成立させるものは、例えば脳のネットワーク、とかもできちゃうわけだから。
これはデカルト自身もよくわかっていて、仮初の、我ありを獲得したあと、すぐに神の存在証明に入り、神が私を作ったのだ、という方向に行った。
現代から見ると、なぜデカルトが、私、を獲得したあと神学に戻るのか?と思ってしまうが、思考作用だけでは「私」を確立できないと、デカルト自身がわかっていたからではないか、と推察している。
確実なのが思考作用だけだとすれば、思考の主体がいつも同じ「私」であるとは限らない。その都度の思考作用に伴って、何らかの意識的な現象が現れるとしても、それらの意識現象を根拠として、「私」という時間を通じて同一の自己意識が成立する可能性はどこにもない。では、その都度の思考作用に伴って現れる意識現象が常に同一の「私」の存在を明らかにすることはどうやったら可能になるのか。「私」の成立過程をめぐる問いが生起する。
デカルトも、都度の思考作用が常に同一の「私」の存在であることは、ほとんど奇跡だと考えた。「私」を同一の存在として創造し続けるような神の意志を想定しなければ説明できない、と考えた。
思考が失われれば消え去っていく「私」という存在は、自分の手で作られてるなどとはいえない、という方が、誠実な態度ではないか、と考えられる。
では私たちが今日「私」と言っているものは、何によって作られているのか。」
著者のanswer、広告技術などの無意識の働きかけによるもの。当たり前、をメディアが発信し、それが本当に当たり前、と認識される、的な感じ。
←これは本当にそうかなあ?というのはちょっと疑問には個人的には思ったけどね。広告に対して批判的でもありうるわけだしメディアも多様化しているし。とはいえ、その被反応様式とかもある程度メディアによって作られてる部分はあるんだろうね。
まとめ
イタリア・ルネサンス期
神への信仰の枠組みは保持されていた。
対立は、アリストテレス主義と、反アリストテレス主義
アリストテレス主義:伝統的で大学や教会が守ってきた「世界は目的論で説明できる」という知の体系。実は12~13世紀のイスラム世界から輸入した思想に影響されている。ギリシアに近かったイスラム世界の方が、古代ギリシア的な思想を発展させていた。ので、その思想を輸入した。その輸入時「ペラギウス主義」:徳を積み重ねることで人間は救済に近づく、という考え方、が問題に。アリストテレスも知を重視してるので、ペラギウス主義的ではないか、と言われた。なぜペラギウス主義がダメかというと、徳がないと救済されないから。元々は信仰が重要、で、何かを頑張ったから得られる権利とかではない、という考え方があり、徳という概念を入れると、神に対して一心に祈るという信仰心が薄れるのではないか?というのが恐れられていた。徳積んでこうって感じ。ペラギウス主義的。主知主義。反アリストテレス主義からは、徳を積むことが良いと考えてるから、徳が買えるという贖宥状とかもみんなが欲しいと思っちゃうんだよ、って感じで贖宥状批判をされることになる。
反アリストテレス主義:その権威主義的な体系を批判し、観察・実験やプラトン的な霊的世界観を取り入れて「もっと自由に自然や人間を理解しよう」とする潮流。
この中も2つに分かれて
①プラトン復興/神秘主義的方向(フィチーノなど)
人間は理性よりも「霊魂の上昇」や「神との合一」を通じて救済される。
これはむしろ「人間の理性への過信を相対化する」方向。ペラギウス的とは逆。プロテスタント神学。主意主義。最終的な救済は全て神に委ねられる。
②自然科学的方向(コペルニクス、ガリレオなど)
実験や数学で自然を理解しようとする。
ニュートンらの「自然科学」へつながる。主意主義。
どっちも教会の教えを信じていないという点で、反アリストテレス的。
これらの神が全部やってるっていう思想は、スミスの見えざる手や、ホッブズ、ニュートンの不可知論に基づく自然科学の展開などに繋がり、中世のキリスト教が持っていた権威が解体され、個人を基調とした新しい神学としての近代が誕生。
その後の思想家は、スミス:神を廃した、共感による道徳論、カント:理性による道徳などを進めた。これらは、宗教を否定しているわけではなく、神を根拠から外しているだけ。
世俗化で、人は自由になったように見えるが、実際は無意識の領域が共感などによる「正しさ」を押し付けられてる的な構造は変わってない。スミス的「私たち」のようなものが誕生する。
資本主義が始まる。
貧困の拡大、感性の共同体の試みとして芸術が誕生。芸術が神から自由になってることは、反アリストテレス的。
さらに経済主義が進み、大きな物語が終焉、小さな物語へ。
そこに反対するものとしてロールズ、ハーバーマスなどの社会契約的な議論が誕生。
ただ、ネオリベラリズムでどんどん経済性が進んでいく中で、労働者は資本主義社会での競争を強いられ、公共性は、一部の知識人だけのものとなった、というのが現代。
最後の新しい社会の構想。
みんなが「私たち」に入れられて窮屈になってるけど、どうしたら「自由」になれるのか?これは近代的な意味での自由ではなくて、むしろ近代が規定してきた「個人としての私」を起点とした強烈な見方を解体するということ。人はひとりでいきなければならないわけではない。フロイトが、意識がなくても、脳のネットワークで経験ができることを言った通り。
だからみんなが出たり入ったりできるような社会、を社会というものの成立要件に超越論的にして仕舞えば、良いのでは?的な感じかな〜〜?ちょと難しくてわからなかった。。。