宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。堀辰雄の『風立ちぬ』。夏目漱石の『夢十夜』。連城三紀彦の『戻り川心中』等々。
文章の美しさが印象的な作品はいくつかあるのですが、この『小さな国で』の文章も、それらの名作と同じくらい印象に残ります。
本編である少年時代の回想に入る前に、語られるギャビーの追憶。自身と似た境
...続きを読む遇の難民へ抱いた想い。故国を逃れたことによる居場所の無さ。
その文章の詩的な儚さと美しさに魅せられると共に、その語りの奥に秘められた哀しさが、自分の中の琴線に静かに触れてくるような、そんな感覚を覚えます。
『ちいさな国で』の著者、ガエル・ファイユはブルンジ共和国出身。ブルンジという国はこの小説を読んで初めて知ったのですが、20数年前に民族対立による虐殺が起こったルワンダの隣国で、ルワンダと同じようにフツ族とツチ族で構成され、民族対立による内戦が起こった国だそう。
1995年にフランスに移住した著者は、フランスでミュージシャンとしてデビューし、その後この『ちいさな国で』で小説家デビューしたとのこと。
文体の詩的なイメージは、ミュージシャンとしてラップを発表したり、また詩の朗読なども行っているそうなので、そのあたりが影響しているのかも。
ギャビーも著者と同じくブルンジ出身で、その後フランスに移住します。そんなギャビーのブルンジでの少年時代の回想は感情豊かで瑞々しく、なおかつエピソードも多彩。そして色彩豊かな自然や風景の描写、そして個性豊かなギャビーの友人たちや、身の回りの人々の人物描写も、詩的な文章と同じく見逃せない。
仲間とマンゴーをくすねたり川遊びをしたり、盗まれた自転車を取り返しに行く過程で、ブルンジ内の格差や貧困に触れたり、自分の中の善悪の感覚が揺れ動いたり。
そんな具体的なエピソートや感情、情景描写は国は違えど、どこか自分の中の子ども時代を懐かしく思い起こさせるよう。
日常がキラキラと過ぎていく傍ら、ブルンジでは初の大統領選挙が行われるという熱狂が、徐々に高まっていきます。一党独裁制と繰り返されたクーデターの時代の終わり。そして民主主義の誕生に国民の期待は高まる一方で、政党や軍部、そして民族による対立の火種が燻り……
選挙の興奮の傍らで、登場人物が急進的に進む民主主義の波に不安を覚える箇所が印象的。
欧米でも様々な血の歴史があって、ようやく迎えることができた民主主義の時代。それをわずか数ヶ月の間でこのブルンジが迎えることができるのか、と。
この箇所を読んだときは、色々考えるものがありました。以前、中東の現代史や、アラブの春のことを書いていた本を読んだときに「なんでこんなにも上手くいかないんだろう」と思った記憶があるのですが、その真理はここにあるような気がしました。
独裁がいいとは言わないけど、革新は常に血を流すものなのかもしれない、とはなんとなく考えてしまいました。
新たに生まれた大統領は、軍部によるクーデターにより殺され、そして同時期にルワンダでも不穏な影が忍びより、そして遂に勃発する内戦とルワンダの大虐殺。ギャビーの母親はかつてルワンダの難民で、現在はブルンジで暮らしています。そんな彼女は親戚の安否を確かめるためルワンダへ。
一方でギャビーの友人たちも民族対立の思想に染められ、中立でいたいと考えていたギャビーもその波に飲まれていき……
人々が二分され、自分たちで敵を作り出していき、そして崩れる世界とギャビーの平穏な日々。近所の人から本を借り、その世界に浸ることで、なんとか自らのちいさな世界を守ろうとするギャビー。
しかし精神の均衡を崩した母、かつての友人の変化、そして故国との別れと、その小さな世界も終わりを迎え……。
それは単に紛争の悲劇を伝えるものでは終わらないものだと感じますし、著者のガエル・ファイユの自伝的な小説という言葉だけでも片付けられない気がします。
ではその理由は何なのか。訳者の加藤かおりさんのあとがき、そしてくぼたのぞみさんの解説を読み、なんとなく感じていたその理由が、ある程度言葉になりました。
生き生きと瑞々しく、そして色彩豊かに描かれた前半のギャビーの少年時代。自分自身の子ども時代と重ね合わせると、放課後に友達とゲームをやったり、何でもないバカ話やノリがあったりという経験に合わさります。
もちろん子ども時代が全て良い思い出であるわけでもない。でもそれを含めて、子ども時代への郷愁は、セピア色なのだけど、キラキラと輝いて思い出せるような気がします。そしてその子ども時代は、思春期に入り、徐々に世間を斜に構えて見る様になり、複雑な世界と人間感情を知っていく過程で、終わっていくものだと思います。
ギャビーの少年時代は大人になる前に終わりました。世界は複雑で残酷で、人間も友人も簡単に様変わりすることを自分で知る前に、外から無理矢理教えられます。そしてたくさんの死と、回想のラスト近くに明らかになるギャビーが心の奥底にしまっていた、最も知られたくない、そして思い出したくない記憶の存在。
それは少年時代全てを、封印せざるをえないものだったのだと思います。
祖国から離れ、大人になったギャビーは小説の最後に『この物語を書きたくなった』と書いています。
それは小説の最後での、とある再会が子ども時代の象徴の一つだったのもあると思います。ですがそれ以上に、そこから呼び起こされた記憶を書くことが、彼の封印した子ども時代の、そして故国の記憶を再構成すること。自身のアイデンティティを回復し、そして先に進むための手段だったのではないかと思います。
そして著者のガエル・ファイユも、どこか同じ気持ちと祈りを込めて、この小説に挑んだのではないかとも感じます。失われた子ども時代と故国の記憶への追憶であり、再生の試みでもあり、そしてそれらを弔い、先に進むための試みの手段。それがこの小説の意味の一つだったのではないかと。
作中の文章がとにかく素晴らしかった。著者の表現力もそうなのですが、訳者のかとうかおりさんのくみ取り方や表現も素晴らしいと感じました。この訳じゃなかったら、この小説の魅力はここまで伝わっていたか、とも思います
そして、話は少しズレますが、解説のくぼたのぞみさんの名前をどこかで聞いたことがあるなと思ったら、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』『アメリカーナ』の訳者であることを知り、解説での作品への理解の深さに納得しました。
先述した二作品もいわゆるアフリカ系作家の翻訳小説なのですが、その作品、そして訳文の透明感も素晴らしく、また紛争をテーマにした作品も訳されています。そういう人の解説だからこそ、作品の捉え方が素晴らしく、そして強く共感できました。
美しくて、哀しくて、懐かしくて、残酷で、重層的で心揺さぶられる。
前評判も何も知らず、手に取った作品だけに、出会えて良かったと心から思える小説でした。