ピダハンが教えてくれたこと、それは「生きる」とは何か、「幸せ」とは何か、ということ。
言語学研究にとって貴重な進展をもたらしてくれたこと、のみならず人間としての在り方についても教えてくれた。
まず、本書ではピダハン語の研究によって、チョムスキーが提唱した普遍文法の説を否定している。
普遍文法説とは、すべての言語が普遍的な文法で説明でき、それは私たちの脳、遺伝子にあらかじめそのようにインプットされているからで、わたしたちは育った環境に応じて最低限のルールに従って(英語や日本語)言語を発話しているというもの。
どの言語にも共通の品詞があるなどの共通のルールがあることや、リカージョンといわれる現象がみられることが理由としてあげられる。
リカージョンとは、たとえば「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」という文を見ると、ダンが買ってきた針が●●の針の中に入っていて、さらに●●を持ってきてに入っている、というように入れ子構造になっている文のことだ。
この仕組みによってわたしたちは深く考えることなく、無限に文を生成することができる。
たとえば「サトシが疲れたってミサトが言ってたってシンジが言ってた」みたいな感じで。
しかし、ピダハンはこれを「おい、パイター、針を持ってきてくれ」「ダンがその針を買った。」「同じ針だ。」とわけて表現する。
これは文自体にリカージョンが見られず、物語のように文をつなげるとリカージョンになっているというもので、あきらかに思考して発話していることになる。
そして、ピダハンの言語がこうなっているのは、彼らの文化が「直接体験性」を重んじる文化で、その制約を受けてリカージョンという機能を文の中で発現しないようにしている、つまり文化が文法に影響を与えているのではないか、ということ。
文法が文化に影響を受けるならば、遺伝子にインストールされているとする普遍文法説はちょっとあやしいぞ、となってくる。
こういった個々の言語研究を受けて、普遍文法も中身を少し変えているようだが、これは著者から言わせると「プロクルステスの寝台」のようで、理論に合わせて事実のほうを引き伸ばしたり切り詰めたりしている、という。
そのほか、本書では言語を学ぶうえでその文化と切り離して考えることはできない、ということ。
それは認知心理学においても言えるのではないか、ということがあげられている。
アメリカ文化での知識体系を持っている著者が川を流れてくるアナコンダを流木と見間違えるように、わたしたちは、少なからず文化の影響を受けている。
ピダハンには抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業化の進んだ世界でよくみられる、私たちにおなじみの症状はないそうだ。
それは、語彙や概念が存在しない、ということと関係しているだろうし、そういった語彙が生まれる必要性のない文化だともいえるのではないか。
私たちには、なんとネガティブな語彙や観念の多いことか。
過ぎ去った過去や、まだどうなるかも分からない未来のことなんて考えず、今この瞬間を大事にして、まいにち笑って暮らす。
いったい、人間らしい暮らしとはなんなのか。