「夢の不思議について」考えてみる。で、本書の考察と接続させてみたい。
ある夢に出てくる登場人物は、私の頭の中の存在なのに私が“意識的”に呼び起こしたものではない。薄気味悪いゾンビだったり、ぬめぬめしたオジサンだったり。で、自分の頭の中の存在なのに、しっかりドキドキハラハラするのだ。逃げ切ろうとしても、夢の中ではだいたい足が自由に動かない。これってどういうこと!?という所から。
本書は脳の解剖生理学の見地から、遺体から取り出した脳を手に乗せて重さを感じるところを読者と共有してスタートする。人間を解体し、お肉を切り出していく。そうすると、今までその肉体に宿っていた「あなた」は、最終的に脳に残る。だが、まだ意識がある。次に、脳をサクサクとナイフで切っていく。さて、あなたの意識はどの「肉片」に宿っているだろうか。
答えは、細切れになった時点で、意識はなくなる。それが脳の統一理論だ(のはず)。で、夢の話に戻ろう。睡眠時は、統一機能が一時的に解除される。脳機能の“統合“が緩む。つまり「肉片」状態。これは、知覚する肉片Aと、想起する肉片Bがつながった状態ではあるが互いに別物として、肉片Bが映像を見せ、知覚するAがドキドキしている状態だ。睡眠時はこれが別々ながら同じ部屋にいる。だが、物理的に切り離してしまえば、映像を見せるBは映像を流しっぱなしだが、一方、切り離された知覚する肉片Aは映像が見えない。ゆえに、バラバラにすると意識が消滅する。つまり、統一していないと「意識はない」。
脳が完全体で覚醒している時は、あなたの頭の中の登場人物はあなたの自由自在。時々、恐怖や羞恥、性的なことなど、自己防衛や繁殖に関する想起で脳が独走する事はあるが、基本的にあなたの脳はあなたの支配下だ。睡眠時は、統一機能が薄らぐため、映像を想起する部分はあなたの支配下ではなくなる。切り刻まれたあとは、統一機能がないので、チーン。
肉片Aはあなたの自我や個性。肉片Bはあなたの経験や記憶のハードディスク。そこに身体的な本能からメッセージを受信する肉片Cが加わって、フルパッケージで「あなた」である。
― ここで大きな壁につきあたる。立ちはだかる最初の難問だ。それは、脳内のニューロンとシナプスの大部分は、意識の発生とかかわりがない、というパラドックスである。小脳には、視床皮質系をはるかにしのぐ数の神経細胞があり、シナプスのつながりも同様に多い。そして、分子や生化学的物質がいっぱいにつまっている。だが、あとで詳しく見ていくように、頭蓋から小脳を全摘しても、意識にはなんら影響がない。この圧倒的な事実は、われわれが手にしている重要情報のなかでも、とりわけ大切なものだ。統合情報理論にとって、大きな試金石となる事実だ。
つまり、小脳は「情報をたくさん処理しているが、意識を生む形で“統合していない”」。この事実は、統合情報理論の裏付けにもなる。小脳は、運動の誤差補正であり、感情の調律機能。ということで、映像を見せる側でも知覚する側でもなく、カメラのオートフォーカス機能みたいなものだからだ。勿論、小脳がなくなれば著者のいうように「意識にはなんら影響がなく」ても、日常生活にはたっぷりと支障が出るだろう。
こんな感じの理論を脳科学、麻酔学、解剖生理学的に解き明かしていくのが本書。私の記載は随分乱暴だが、もっと学究的で正確で、それでいて専門的過ぎない範囲でとても面白かった。そして、切り離された肉片Bのコピーが可能となった時、もっと面白い未来が来るのかもしれない。