スーパーヒューマン
ポイントはSF作品と研究の棲み分けにある。(略)研究とフィクションはあるところでは結びつくことがあるが、ほとんどの場合、直接つながることはない。なぜなら「つくりたいもの(what)」はフィクションに描かれているが、「どのように実現するか(how)」mでは示されていないからだ。
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サイボーグと拡張身体の明確な線引きは難しいが、私は拡張身体を衣服や靴のように「非侵襲的」で「着脱可能」であるが「装着時は身体と一体化」するもとのして定義したいと思う。
視覚や触覚など人間が持つさまざまな感覚がくみあわさることを、複数の様式を組み合わせるという意味で「マルチモダリティ」と呼ぶが、複数の感覚が重なれば重なるほど、物理世界との主観的等価により近づくことができる。
透明人間が家の中でエスコートしてくれるシーンをイメージしてほしい。あなたが家に着くと玄関の扉が解錠されて自動で開き、部屋の明かりがともる。あなたが空腹になると、トースターでパンが焼かれる。そのうちにピアノの自動演奏が始まり、くつろぎの空間が提供される。このように目には見えないが、透明なロボットがあたかもいるような環境を作り出すことが技術的にもできるようになってきた。あらゆる物をインターネットでつなぐ「モノのインターネット」が登場し、あたかもロボットがいるように物を自動的に動作させることができるのだ。
インターネットのようなメディアや、たとえばロールプレイングゲームにおけるキャラクター(略)など、身体がデジタル化されているならば、私たちはすでに複数の身体を持って生きている。(略)すでに私たちはテレビのチャンネルやパソコンのタスクのように、瞬間的に注意のフォーカスを切りk
さらにその先には、複数の身体が同時に存在している未来もあり得る。
「オキュ旅」という取り組みが日本にある。他の人の旅の体験を、ヘッドマウントディスプレイ「オキュラスリフト」で臨場感を持って追体験するプロジェクトだ。
(略)
もしかしたら、こうした誰かの体験がシェアされることはすでに起きているかもしれない。
(略)
またひとりひとりの人間の意志決定をひとつのアンドロイドに集約して、多数決で行動させようというませもとろうのマンガ「デモクラティア」がある。小勇意見が尊重されるように多数決のプロセスを工夫すれば、もっと正しい選択がリアルタイムでできるのではないかという興味深い提案がなされている。もしかしたら、その集合知に人工知能が加わることで、さらに行動の選択の制度があがるかもしれない。
こうしたたくさんの人が、一つの身体を操るようなビジョンを、私は「融身体」または「変身」と呼んでいる。脳を含む身体がデジタル化されたとき、ロボットやヒューマノイドなどひとつの身体に複数の人が乗り込むことがあるかもしれない。