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徳永雄一郎
医療法人社団新光会 不知火病院 理事長。日本ストレスケア病棟研究会 会長。福岡大学医学部 客員教授
1976年:昭和大学医学部卒
1982年:福岡大学大学院(精神分析学)卒業:福岡大学医学部講師
1986年:不知火病院院長
1989年:日本で初めてうつ病専門治療病棟「ストレスケアセンター・海の病棟」を開設(同センター:福岡県建築文化大賞、日本病院建築賞受賞)
1996年:阪神大震災の救援活動に対して管直人厚生大臣より表彰状(発生直後より延120日間に渡ってスタッフ38名を派遣)
1996年:医療法人新光会理事長
1999年:英国で開催された「第1回職場のいじめ国際シンポジウム」に参加、講演
2000年:日本ストレスケア病棟研究会発足 同研究会会長
2008年:中国上海市で日本人勤労者を対象にした診察を開始
2018年:日本精神神経学会 精神医療奨励賞受賞
【所属学会・団体】
American Psychiatric Association(アメリカ心理学会)
Pacific Rim College of Psychiatrists(環太平洋精神科医会議)
日本精神神経学会
日本うつ病学会
日本社会精神医学会
日本ポジティブサイコロジー医学会
日本ストレス学会
日本外来精神医療学会
日本精神分析学会
日本心身医学会
日本集団精神療法学会
日本うつ病リワーク協会
日本デイケア学会
日本アーユルヴェーダ学会
九州精神神経学会
人間・植物関係学会
日本精神分析的精神医学会
日本産業精神保健学会
日本ストレスケア病棟研究会
デイケア研究協議会
癒しの環境研究会
日本精神衛生会
NPO 国際緊急医療・衛生支援機構
多文化間精神医学会
「脳疲労」社会 ストレスケア病棟からみえる現代日本 (講談社現代新書)
by 徳永雄一郎
これは、第一次産業、第二次産業に従事する人もふくめて、勤労者の条件が、従来の「身体が動く」ことから「頭が働く」ことへシフトしたことを意味しました。どんなに体力に自信がある人でも、対外交渉やパソコン業務ができないと仕事になりません。つまり、大半の業務が「脳を使う」時代に変わってきたのでした。その結果、疲労が生じる部位が「肉体」から「脳」へと大きく変質したのです。 脳の疲労は仕事だけにとどまりません。車の運転、テレビやコンピュータなどのゲーム、はては携帯電話まで、脳が疲れやすい生活上の変化があちこちに起こってきています。 仕事に限定して話をすると、ストレスを受け、集中力や判断力が低下すれば、すぐさま業務に支障をきたす結果になります。この状態が「脳疲労」です。
幸田さんは、ストレスから脳疲労が起こり、業務が滞るほどの集中力低下や判断力の悪化に陥っていました。結局、勤務不能となり、休職するまでに追い込まれました。現在は治療によって回復し、従来通りの仕事に復帰されています。幸田さんは当時を、「休職すると、いかに自分に疲労が蓄積していたかを理解できました。忙しいときには疲れを感じられないものですね。早い段階でしっかりセルフチェックしながら、疲労の早期発見に努めます」とふりかえられました。
一方、NHKの国民生活時間調査では、四〇代、五〇代に睡眠時間の減少と勤務時間の増加が認められています。若干矛盾する調査結果からはサービス残業が多くの企業でおこなわれている実態が浮かび上がってきます。診療の現場においても、長時間労働やサービス残業で多くの勤労者のストレスが高まっている話が聞かれます。本来ならば、過重労働がもっと社会問題になってもよいとの印象を強く持っています。
臨床の現場の実感として、高いストレスを受け、脳疲労が起こり、体調を崩して、休職となるケースが多いのは、この幸田さんのような学校教師、それと公務員、IT企業のSEなどです。
学校の教師やSEに加え、近年疲労度が高いと思われる職業は看護師や介護士です。病院でも高齢者の入院比率が高くなってきています。医療費の伸びが問題になっていますが、伸び率の大部分は高齢化によるものです。現場で働く医療者にとって、医療上の処置が増え、寝たきりなどで生活全般にかかわりが必要になる、といったことで必然的に業務が増えていってしまいます。その結果、時間内に業務が終わらない、終わったらクタクタといった話は枚挙にいとまがありません。
医療は国民の命を守る社会的側面を持っています。そのためにも経済効率優先にならないことが求められます。たしかに医療費の増加は大きな国家の課題です。一方で命を守る目的を持った医療スタッフがこのように疲弊しているのであれば、今後大きな問題となってゆくことでしょう。
山村さんが引き継いだ例も、社内でも有名な問題顧客でした。事の発端は問題顧客との面会の予約時間をまちがえたことにあります。当然、相手は怒りをぶつけてきますが、お客さんとはいえ、あまりにも執拗なクレームでしたので、山村さんはついついいやな顔をお客の前で見せてしまったようでした。これに対し相手は「なんだ! その態度は! お客をなんだと思っているのか。部長に直言するぞ!」と発言をさらにエスカレートさせてゆきました。真面目な山村さんは仕事が手につかなくなり、脳裏にいつもクレーマーの顔が浮かんできます。次第に集中力がなくなり、脳疲労にまでいたったのでした。このように、最近はどの職種も脳疲労の要因に「クレーマー」が挙げられることが多くなってきました。ましてや山村さんのように真面目な人が「クレーマー疲労」ともいえるくらいの精神的ダメージを受けることは、社会ではよく見られると実感しています。
公務員は市民から、学校教師はモンスターペアレントと称される保護者から、我々医療者も患者さんからのクレームが多くなってきています。各職場ともにクレーム対応に苦慮しているのが現状でしょう。
年々増加する印象さえあるクレーマーですが、彼らの心理を見てゆくと、じつはまったく異なる面が見えてきます。そのことはクレーマー対策に苦慮される方のストレスを軽くすることにもなりますので紹介します。結論的に言うならばクレーマーと言われる人の心理的背景には、じつは淋しさや悲しさが存在しています。ですから彼らに対しては、逃げない姿勢が求められます。
このように、クレーマーの背景には、逆に頼りたい感情が隠されています。専門的には攻撃性と依存性のアンビバレンス(両価性) と言いますが、言葉とは裏腹に複雑な感情が混じっていることを理解して、背景にある淋しさを見てゆく必要があるでしょう。
インドに古くから存在しているアーユルベーダ医学では、病気にならない健康の条件として、五感の刺激がバランスよく機能することを挙げています。そのような前提に立てば、パソコン操作の多い勤労者のバランスの悪さがより理解しやすくなります。むしろ今後はさまざまな体調の悪化が起こってくることが心配されます。 長時間のパソコン操作は、視覚以外の五感の刺激が少なくなりますので、代償作用として五感の刺激を求める行動が誘発されやすくなってきます。 ですから、ブームと言われるものに目をやると、露天風呂、森林セラピー、トレッキングといった、人間の五感を刺激するものが目につくようになってきました。我々人間がこのような行動をとるようになった理由も、偏った脳刺激への反動と考えると、納得がいくように思われます。
上司である管理職の交代は、部下のストレス度を左右します。新しく上司となる本人ににとっては喜ばしいことですが、部下にとっては新しい上司の性格によって影響も大きく異なります。問題のある上司が着任すれば、多くの部下のストレス度は高くなります。公務員のように三~四年ごとに配置転換がある場合、そのメリットとしては、どんな嫌な上司であっても三~四年間我慢すれば解放されるということが挙げられます。しかし少人数の会社であれば、その問題の上司が定年を迎えるか、自分が退職を選択するまで、その悲劇的関係はつづくことになります。その意味では少人数で異動の余地のない職場では、部下が犠牲になっていないか、上司自身に自己の管理能力が強く求められます。
個人的な意見ですが、野本さんの話のように、残念ながら女性勤労者には女性英雄伝説といったものがほとんど存在しません。男性のそれに比較すると、あっても微々たるものです。男性であれば、古代から現代まで種々のモデルになる人物や英雄が登場します。その話を聞いて、男性は自然に自分の生き方や管理職のありかたを学習する機会が多かったのだろうと感じました。一方、女性は、最近こそいろいろな分野で活躍され、本や伝記が出版されるようになってきました。しかし、江戸時代以前でいえば、すぐ思い浮かぶものを挙げても、推古天皇、紫式部、清少納言、といったように決して多くはありません。このことは、女性が自分の生き方を考える際のモデルが少ないことを意味します。そのような観点から、現在活躍中の女性は、後につづく後輩の女性を意識して、多くの情報発信をしていただきたいと思います。
質問は「定年後、誰と旅行に行きたいか?」というものです。これに対し、男性はほぼ全員が「妻と行きたい」との回答でした。先ほどの武田さんのケースと同じで、定年後の夫の気持ちがよくあらわれています。では妻は誰と旅行に行きたいと答えたのでしょうか。妻の回答の第一位は「友人と行きたい」でした。第二位に「一人で行きたい」との答えがつづき、ようやく三番目に「夫と行きたい」との結果でした。男性と女性の答えがまったく異なっており、定年後夫婦の明らかな意識の乖離が見て取れます。
しかも、私が一般市民の方に対して講演する際、この報告をしても退職した男性はピンとこないらしく、「本当かな」という表情をされることが多いのです。一方の女性は質問の途中から笑いはじめ、「答えはわかっているよ」という表情です。女性の笑いと、その意味を理解していない男性の無表情が対照的です。私は定年後夫婦の危機的状況の多さを実感しています。
このような夫婦の問題は、定年前から存在しているように見えます。もとをただすと、夫の在職中における仕事のあり方と、家庭における態度の問題にまでさかのぼることなのです。妻である武田さんの話にもありましたが、在職中の夫は、エネルギーのほとんどを職場で消費しており、妻を大事にする余裕はありませんでした。当然、夫婦のあいだでゆっくりと関係性を育むような空気が流れるわけもなく、淡々とした表面的なやりとりで過ぎていきます。問題は、夫がこの危機ともいえる事実をまったく認識しないまま定年を迎えたところにあります。
私が勤務する役所は都市化が進み、町村合併の結果、大きな市に吸収されました。合併後の市民課では市民からの厳しい発言に遭遇することも多く、対応には苦慮していました。根が真面目なものですから、ついつい考え過ぎていました。 山中さんのうつ病の原因は、仕事での疲労の蓄積と、本人の生真面目な性格でした。このようなケースでは、環境調整と休養で症状が回復することも多いため、山中さんに入院をすすめ、抗うつ薬を服用せず治療を開始しました。
現代型うつ病は軽いうつ病とは考えにくいというのが私の意見です。本人が一見わがままなように見えても、じつは自殺願望が強いこともしばしばです。しかも問題なのは自殺願望があることに自分自身が気づいていないことも少なくないということです。「自分の悲しさ」に向き合えないつらさがあるため他者批判をしますが、ベクトルが外に向いている分、自分自身の内側の問題も大きいと考えています。ここに、いわゆる現代型うつ病の治療の難しさがあります。わがまま、他者批判は、ときには私たち専門家でも嫌な感情を抱きがちですが、じゅうぶんな配慮が必要なのです。些細なことをきっかけにして、自殺願望が一気に高まることもあります。
奥さんはそんな白石さんの態度にたまりかねて、なぜ治療に向き合わないのか問い詰めました。すると、白石さんは奥さんに対して大声で怒り出し、ときには手が出るようになりました。娘さんに対しても威圧的態度で接するようになり、いつのまにか奥さんも娘さんも、白石さんに気を遣って避けるようになり、ギスギスとした家族関係になってしまったのです。 そんなある日、まったくの予告なしに車庫のなかで排気ガスを自動車に入れて自殺を図るということが起こりました。「死にたい」という言葉は一度も聞かれないまま、このような事件が起きてしまったことに奥さんはショックを受けてしまいました。診察で、死にたくなった気持ちを聞いても、本人はあいまいな答えを返すだけで、状況がよくわかりません。ただ突然死にたいと思い、その日に実行に移したことは事実のようでした。
「私はわがままで、自分のことだけしか考えていませんでした。病院のスタッフから大事にされ、周囲の患者さんから励まされ、自分の問題点が見えるようになりました。これまでは人の話に必要以上に敏感で被害妄想的だったのです。そのために攻撃的な態度をとっていました」。白石さんのこの言葉から、傷つくことを恐れるあまり、自己防衛的になっていたことがうかがえました。
これは、いわゆる現代型うつ病のケースでうまくいった例だと思われます。このケースからも現代型うつ病だけでなく、若年層は集団体験が少ない分、集団での対応や治療がうまくいきやすいことがわかってきました。 同時に白石さんのように、深い部分に隠れていた悲しみが突然表層にあらわれてきて、自殺願望を抱くまでになるケースが少なくないこともわかってきたのでした。
うつ病の診断は、精神医学における診断基準にもとづいておこなわれます。いくつかの臨床上の症状が確認できれば、うつ病と診断されます。もちろんうつ病と診断されなければ医療機関での治療は開始されないので、重要な第一歩なのですが、現状としてうつ病は画一的な治療が難しいのです。つまり、個人の性格やうつ病の原因まで深く診ていかなければ、うつ病の治療はうまくいきません。
一方の労働者の評価では長時間労働者ほど「自分の仕事の効率性は高い」と答え、企業側と勤労者の意識のズレが浮き彫りになってきたようです。ちなみに、OECDの報告では、労働時間が短い国ほど労働生産性は高いとの報告が出ていることは、ご存知の方も多いと思われます。
ということは残業が必ずしも企業活動に貢献しているわけではないと言えそうです。残業は疲労の原因となるだけではありません。メタボ体質を誘発する要因となります。理由はおわかりでしょう。残業して帰宅後にドカ食いしてそのまま寝る、ストレス発散のために居酒屋に立ち寄って、飲酒と高カロリーの食事をする、といったことが重なると、メタボな身体へ一直線の生活習慣となってしまいます。 農機具会社で設計に携わる永田さんの話です。残業が毎日つづいていたといいます。
あえて指摘するならば、他者攻撃性という責任転嫁のかたちをとって、日本全体が組織の退行現象を起こしている、とも言えるでしょう。もしそうであるならば、日本の組織集団が退行しつつあり、発展ではなく衰退という方向に向かっていることになってしまいます。その意味でも、もう一度、集団凝集性を復活させるような組織、社会になることが、健全な労働環境を作るものと考えます。
不知火病院において、うつ病になって入院する職業の筆頭ともいえるのが学校教師です。教師は休日までも学校行事に追われ、自宅でゆっくり休養や勉強をするといった時間さえもない現状です。最後にご紹介したいのは、うつ病で入院された小学校教師の吉田さんのケースです。私自身も元気になれるお話なので紹介します。 吉田さんは当院を退院された後、一ヵ月に一度の通院で仕事を通常通りにつづけられていましたが、復職から間もなくして、山村の小さな小学校への異動が言い渡されました。自宅からの公共交通機関もなく、通勤も困難な地域です。吉田さんは転勤への不満と今後の不安を抱えていました。私はそんな吉田さんの状態を心配しましたが、受診が難しくなるとのことで、つぎの受診予約を入れずに帰られました。