「ナリワイ」
個人で始められ、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事のことです。また、複数のナリワイを組み合わせることで生活を成り立たせる生き方でもあります。
伊藤洋志(いとう・ひろし)
1979年生まれ。香川県丸亀市育ち。京都大学大学院農学研究科森林科学専攻修士課程修了。大小様々な仕事を組み合わせて生計を建てるナリワイ実践者。
大学院在籍時に、全国の職人さんの見習いをしながら、弟子の技能の身につけ方と独立生計の建て方を調査。手仕事一本ではなく、農業や素材栽培も含め生業を営む染織工房が、いきいきと仕事をしている様子を見て、専業よりも複業的生活の可能性を感じる。
大学院卒業後、ほぼ新卒4人からなるベンチャーに参加。就職サイトや雑誌の立ち上げを終えるも、肌荒れのため退職。「増刊現代農業」(現:「季刊地域」)などでフリーランスの記者として活動をはじめる。
2007年より、個人が小さい元手ではじめられる頭と体をつかう仕事をテーマにナリワイづくりを開始。現在、シェアアトリエ「スタジオ4」や、京都の一棟貸し宿「古今燕」などの運営、「モンゴル武者修行ツアー」、「熊野暮らし方デザインスクール」などワークショップ企画から、「木造校舎ウェディング」企画運営、和歌山県古座川町の花飾り「ハナアミ」のお手伝いなどのナリワイの傍ら、「地球のココロ」(@ニフティ)の連載や、自由大学で講義を担当(不定期)。
「床さえ張れれば家には困らない! 」を合い言葉に、床張りだけができるセミプロ大工集団「全国床張り協会」や、景観が悪く圧迫感もあって、震災時には倒壊して危険なブロック塀を、ハンマーによって人力解体する「ブロック塀ハンマー解体協会」といったナリワイのサークル的ギルド団体の設立等の活動も行う。
「「日本の製造業、もうダメだ」、「勝ち組の業界に転職しなきゃ」と大きい仕事視点で焦らなくても、小さい仕事はナリワイ的スコープで見れば実はめっちゃあるし、しかも自分でつくることもできる。ただこれまで、小さき仕事たちは「全然儲からん、ダメだ」と無視されてきた。しかし、小さいものなら小さいながらも、無用なお金を投資せずに手間をかけて個人レベルで育てていく、という選択肢もあるってことだ。 例えば、私がやっているものとして、「モンゴル武者修行ツアー」というナリワイがある。ツアーと名前がついているが、現地集合も OK、あらかじめコースもスケジュールも決まっていない。遊牧文化を探索して見習いするワークショップである。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「自分が好きな場所、縁がある場所に何回も遊びに行って、どういうことをすれば面白いのかを探求する。それをそのまま、お客さんに体験してもらう企画を立てればよい。面白い活動にはきっと色んなものがあると思う。それをあらかじめスケジュールを決めておけば安心だが、あえてそうはしない。やったら面白い活動を、カードのようにたくさん用意しておいて、参加者の様子を見ながら一緒に現場で決めていく。参加者が疲れている、と思えば「気持ちのよい昼寝」というカードもある。こういう、細かなことをする仕事は、回数も増やせないし、株式会社的には全然売り上げが立たない。だが、ナリワイならできる。そして、これは面白いのである。一人旅のような身軽さと、集団での楽しさをその場で共有できる、というなかなかない状況を生み出すことができるからだ。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「いきなりそんなこと言われても、「家なんてそうそう建てられないし、会社員以外なら、一念発起してベンチャーを起業するか、手堅い資格を取得するぐらいじゃないの?」とお思いなる方も多いことであろう。しかし、 100の仕事を持つという意味の百姓という言葉があるように、もともと大多数の日本人は一つの仕事じゃなくて複数の仕事を持っていた。村では、農業はもちろん、石垣をつくれる石屋、藍染をする紺屋、大工、陶工、野鍛冶屋など、多様な仕事を各自が受け持っていたし、春だけ養蜂をやる、冬は藁細工をつくる、杜氏になって酒蔵に出稼ぎする、といった具合に、一人がいくつもの仕事を持つことは当たり前のことだった。法隆寺の再建で有名な西岡常一氏のような宮大工も、お寺の改修がないときは農業をやるという生業の組み立て方だったという。「私は不器用なので一つのことしかできない」という声をたまに聞くが、それは向き不向きの問題ではない。昔の人たちの生活で、一つのことだけやって済んでいた人がきわめて特殊であったことからも分かる。ようは慣れの問題であるということだ。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「いきなりそんなこと言われても、「家なんてそうそう建てられないし、会社員以外なら、一念発起してベンチャーを起業するか、手堅い資格を取得するぐらいじゃないの?」とお思いなる方も多いことであろう。しかし、 100の仕事を持つという意味の百姓という言葉があるように、もともと大多数の日本人は一つの仕事じゃなくて複数の仕事を持っていた。村では、農業はもちろん、石垣をつくれる石屋、藍染をする紺屋、大工、陶工、野鍛冶屋など、多様な仕事を各自が受け持っていたし、春だけ養蜂をやる、冬は藁細工をつくる、杜氏になって酒蔵に出稼ぎする、といった具合に、一人がいくつもの仕事を持つことは当たり前のことだった。法隆寺の再建で有名な西岡常一氏のような宮大工も、お寺の改修がないときは農業をやるという生業の組み立て方だったという。「私は不器用なので一つのことしかできない」という声をたまに聞くが、それは向き不向きの問題ではない。昔の人たちの生活で、一つのことだけやって済んでいた人がきわめて特殊であったことからも分かる。ようは慣れの問題であるということだ。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「 人の手の届くサイズのナリワイを軸に暮らし方をデザインすることに、特殊な才能はいらない。よく田舎暮らしセミナーなどに行くと、行政職員や移住支援団体の人たちが「田舎には雇用がない」、「田舎暮らしは人付き合いが大変」、「毎月 20万円はかかるから貯金は最低でも 300万円」などと脅してくるが、実際に都市で働いてから田舎に移住して暮らし、子どもを育てている人たちに聞き取りをすると、「親切な人は親切」、「やり方を工夫すれば毎月 3万円以内でもいける」、「定期雇用は少ないが、頼まれる仕事はたくさんあって受け切れないほど」、「家庭教師をやれる若者がいたら貴重」、「野菜とお米は自給するのは難しくない」、「生活のランニングコストが低いからじっくり事業に取り組める」と教えてくれる。「社会人とは組織に所属すること」、「仕事は専業でなければならない」という既存の考え方に捉われて、そのままのベクトルで努力すると、 1000万円単位で借金して栽培システムを買って、何年もかけて償却する、というものすごい苦労が待っているが、一旦引いて状況を見てみれば、それが自分にとって必要な努力なのか不必要な努力なのか見極められるはずだ。その判断によって、全く苦労の次元が違ってくる。ナリワイ的におすすめなのはもちろん、借金しないで自分が自給する程度の野菜や穀物をつくる、余れば売る、という作戦である。これはそんなに難しくないし、色んな野菜の育ち方を観察できて面白い。毎日、同じ作物の栽培に血眼になるのも一つの生き方ではあるが、こちらは才能と資金が要求される。もし、親の代からやっていて設備がまるごとあるのならチャレンジしてもよいと思うが、そうでなければ要検討だ。目先の「頑張る」努力よりも、世の中の構造や状況を洞察することが、何かすごい専門能力があるとか特別な才能があるとかよりも、遥かに大事である。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「ものすごくテキトーに単純化して皮算用すると、ナリワイの場合は現金として入ってくる 360万円の二倍、つまり 720万円分の収入があるぐらいの生活が実現できると私は踏んでいる。何もせず買えば 30坪の家で 2500万円の支出があるところ、例えば自力で家が建てられるようになれば、総工費全体の約 2割と言われている材料費の 500万円ぐらいで済み、 2000万円が浮く。これはサラリーパーソンの平均年収が 400万円とすると、 5年分である。プロの大工ではないのでもちろん時間は余分にかかるかもしれないが、それでも建築に 5年もかからないだろう。仕事は他に一切せずに、のんびり 4年かけて家を建てても 1年余る。ほかのナリワイの合間に娯楽がてら完成させれば、 2000万円丸儲けと考えてもいいはずだ。建築は素人でも参加できてたのしい、という建築史家の藤森照信氏の言葉の通り、汗をかく娯楽になりうる。娯楽もつくり出しながら、支出も減らしつつ生活の道具を得ることができる。これは強力なナリワイだ。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「ちなみに、「困ったら食わせてやる」という友人を持つには、自分も「こいつが困ったらなんとかしてやろう」と思える友人になることが必要だ。それには、何か活動を通して「仲間」を増やさないといけない。単なる社交ではそのような仲間は育たない。パーティに出まくって知り合いが増えても、仲間は増えない。そういう意味でも、ナリワイは仲間をつくるのにも向いている。ナリワイになりやすいのは、お客さんが自分自身で家を建てるのを手助けする仕事など、ワークショップ的要素の強いものである。お客さんを依存させるサービスではなくて、逆に生活自給力をつけてもらうのだから、仲間をつくるのに向いているのだ(その代わり地味だ)。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「これらの予言を、どうナリワイをつくるのにつなげるか。具体的に考えてみよう。 例えば、「ふんどしが流行る」と予想したら、何をすればよいか考える。これが第一段階。まず自分でふんどしをつくってもよいだろう。ここで自分がつくるのが下手だったとしても気にする必要はない。作り手に器用不器用は関係ないし、つくる以外にもやる仕事はある。各地に眠るふんどしの工房をスカウトしてふんどしのセレクトショップを開いてもよいかもしれない(家賃がかかるが)。または、ふんどしぐらいみんな自分でつくれるやろ、ということで、作り方を本にまとめて販売する、というのも一つの手である。なんやかんや、独学は厳しい、ということで、集まってふんどしをつくる会を企画して、参加費をいただいてもよいかもしれない。いやいや、それより全国のふんどし関連の情報を集めて会報を発行して月会費を集めて仕事にしよう、もいけるかもしれない(さすがにいきなりは厳しいか)。このようにふんどし一つとっても、ナリワイの形は色んな選択肢がある。どれが成立するのかは分からないが、何も製品をつくるのだけが仕事ではない、ということは押さえておきたいポイントである。また、どれがナリワイに適しているかも考えてみる。「お店を開く」のようなものではなく、家賃などの固定費があまりかからない方法を考えることが必要になってくるだろう。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「似て非なるやり方として「なぜを 5回繰り返せ」というやり方があるが、これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向があるので、 21世紀のポストグローバリゼーションの生き方を考えるナリワイ的考え方としては、「なぜ」より「そもそも」を常に考えて違和感を見つけていくのがよい。「なぜ、車が売れないのか?」と考えるよりも「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも、住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えて行くほうがおすすめである。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「 ここまで、ナリワイの種を探す鍛錬についてお話ししてきた。ここで少し具体例をあげて考えてみたい。皆さんは、「マトリックス」( 1999年)という映画を見たことがあるだろうか。この映画に関するエピソードを通して、ナリワイの種は些細なところにある、ということについてお話ししたい。 近未来 SF映画であるこの作品には、キアヌ・リーブスという俳優が演じる救世主が登場するのだが、彼の黒ロングコートの似合い方が尋常ではない。ここで、ナリワイ的発想として大事なのは、「ようし、俺もロングコート着よう」ということではなく、日本人体型である自分がどうすればいいのか、を考えることである。あくまで出発点が違うわけだから、やり方も変えないといけない。 私自身に関しては、「あのロングコートに対抗するには、もはや着物を着るしかない」という結論に達した。だが、そもそも着物を持っていないし、買えば数十万円もするらしい。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「練習もしないで試合に勝てないのは、当たり前のことなのである。だから、まずボールを触ることからはじめなければならない。「レバレッジなんたら」、「今すぐこれで成功する」というような、ちょっとやったらすぐ成功するようなイメージを撒き散らしている本や情報には浸からないで、一見地道に見える「鍛錬」が大事なのである。まずやってみれば、何が必要な情報かが自ずと分かる。それから本を読むぐらいでちょうどいい。後の章で詳しく書いていくが、ようは「なんでもいいから自分でサービスを考えて誰かに提供すること」を試行錯誤すればいい。古着着物の行商でもいいんだろうし、靴磨きでもいいだろう(ちなみに靴磨きはいい仕事になるらしい)。ちなみに「人気の資格」を取る、という勉強はお勧めしない。資格さえあればどこでも仕事ができる、かつ、人気の資格ということは、すなわち競争が激しいと同じことだからである。しかも、資格とはみんな同じ仕事ができますよ、という証明なので、同じ仕事をたくさんの人がやろうとする、という状況は、まさにバトルタイプの戦場である。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「 感覚が共有できる人とやれば、結婚式をつくるというのは、楽しいイベントになるはずだ。大人の文化祭というかんじになるかもしれない。つまり、徹底的に楽しくすることができる。ここには、「プロ」の人が到底かなわない、義務を超えた努力や工夫が生まれる。現代美術の世界では、「素人の発想が一番面白く、玄人になるとダメになる、素人の発想からヒントを得続けられる作家が長く続けられる」という話があるそうだが、大変示唆深い。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「そう、ナリワイを通じて分かる大事なことは、一緒に何かやることで人は仲良くなれるということだ。もちろん、逆に仲が悪くなることもあるが、それは残念ながら縁がなかったということだ。ただ、一緒に何かをやらないと、知人止まりでそこまでもいかない。現代人がバブルを経て学んだことの一つは、何もなしで人と仲良くなることは実はとても難しい、ということなのではあるまいか。バブルの消費を通して生まれた友情というものはほとんどないはずだ。あれば、バブルの消費を通した友情が映画になっているはず。逆に戦争は熱い友情を描く題材としてよく選ばれる。一緒に苦労したほうが人は仲良くなることが多いのである。いや、もちろん戦争まではしなくていいと思うが。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「現代社会では、情報がたくさん出てきていつでも手に入る(ように思える)が、情報というのは、誰かが記録したものをさらに加工した二次情報と呼ばれているものがほとんどである。二次情報は発信者の立場によって解釈が加わったり、自分にとっては肝心な部分が抜け落ちていたりする。もしかしたら改ざんされているかもしれない。したがって、二次情報だけでは、いくら大量に集めても、「これは本当なのか?」、「肯定的情報と否定的情報があるけどどっちが本当なの?」、という疑問が出てきて、なかなか決定打が打てないのである。だが、一度実物に触れてよく観察する体験を持てば、二次情報の中身が背景も含めてよく分かるようになってくる。「あー、この人はこの点で失敗したから否定的な発言が多いんだな」、「この人は実際に現場に行っていないからこういうことを言うのだな」など、情報発信者の背景が見えるようになってくる。すると、どういうふうに参考にしたらいいか、参考にしなくていいかがつかめてくる。なにより、自分自身で見たり体験したりした一次情報は、自分のなかで実感が持てるようになってくるので、行動の決断材料になる。「友達がシェアハウスやってるのを見たら、自分でもやれる気がしてきた」とか、そういうものである。こう書くと、一個一個を意識的に判断しているように思えるが、一次情報になるべく触れるようにしていると、勘も冴えてくるので、いちいち考えなくても動けるようになる。まさに「速く動こうとするのではない、速いと知れ」(映画「マトリックス」・ 1999年より)である。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「一次情報とは、自分の眼球と耳と肌で感知し、観察した情報である。生の情報とも言う。ということで、ナリワイでは、生の情報、自分の体験、生きている人から直接聞く話、自然そのもの、人の行動を現場で見る、実際にやってみる、ということを重視する。研究専業者よりも、何かしら現場で活動していて、素直な心の持ち主の人の言葉を信頼する(現場で活動していた人の中に、まれに自分の経験だけを絶対視して押し付けてくる人もいるので注意は必要)。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「ところで、一次情報を得る、というのは案外簡単ではない。実物を見ればよい、というものではなく、ただボーッと見ていても何も残らない。例えば植物に対してもカメラがあるのになんでスケッチするのか、というのは、スケッチの方が観察力が高まるからである。私は学生時代に農学部で森林科学の専攻だったので、ひたすら山を歩いてメモしたり植物をスケッチして名前を覚えたりしていた。これも写真があるのになぜスケッチするのか、という疑問があるが、自分の手で描くときは、特徴を捉えなければうまく描けないし、特徴を言語化するので、注意深く特徴を見いだそうと眼をこらす。その効果が大きいのだ。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「だから、人の話を聞きに行くときも同じように、「相手をうならせる質問を 1個はする」とか、何かしら自分なりの心構えが必要である。漫然と人に会って話をしても、得るものはないし、次に会おうと思われなくなる。新たに人に会うというのは、思っているより緊張感のある一番勝負。一期一会とはよく言ったものである。 そういう意味では、人とのつながりの何が大事かというのは、生きている人に直接話が聞ける、ということであろう。だから、何かナリワイを考えたら、サイトやチラシを考える前に、なるべく早い段階で友人知人を招いて個人相談を執り行うべきである。なぜなら、一次情報が一番強いからである。本書も第一稿目の原稿ができたあとに、信頼できる友人知人を集めて、中国の民家みたいな不思議な雰囲気の中華料理店で秘密会議を行い、忌憚のない意見をいただいた。そこで出たアイデアや意見が、本書の構成に生かされている。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「だからナリワイのチラシもあんまり難しく考えないで、最初の最初は手書きでもよい。なにしろ自分の分身だからである。もしかしたら版画ぐらいにして限られた人だけに配るほうがいいかもしれない。前述した私が知るナリワイ実践者の先達の一人は、たまたま通りがかって住もうと思ったある山の集落で、まずは自分のやれることをイラストを添えて手書きで書いた手のひらサイズのチラシを配って、何でも屋をやったところ、草刈り、電気メーターの検針、大工仕事、農作業など色々な仕事を頼まれて、それで一年間暮らすのには十分な収入を確保することができたという。 田舎では仕事がない、という常識も、たった一枚のチラシで打ち破ることができた一例である。場所にもよるが、体を動かせる若い人がいない場所では、体を動かしてやる作業を頼みたい人はたくさんおり、仕事はけっこうあったりする。これは「雇用」ではないので、必ずしも安定してはいないが、自分でさらに仕事をつくったり、いくつか取り組むプロジェクトを組み合わせれば、ナリワイ的暮らし方を構築することは世間のイメージほど難しくない。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「極端な話、荒削りなサービスであろうとも、鋭い着眼点で他にはないものであれば、ありきたりの内容で完成度が高いものよりも、荒削りなほうがいい場合もある。日本人が会社からお金と仕事をもらうのに慣れすぎてしまった結果、仕事というのは「カチッとしてミスが少なく、形式重視で、ノーミスであればなおいい」、という常識が生まれてしまった。カチッとした仕事ぶりと言っても、それは本質的なものではなく、使わなくてもいいのに、エクセルやパワーポイントで資料をつくったりして、時間を浪費していることが多い。役目を果たせば、メモ帳でも十分だし、手書きのイラストをスライドショーするほうが分かりやすいことは往々にしてある。だが、多くの人はエクセルやパワポをキチッとした完成度の高い仕事、と勘違いしている節があるし、これがない仕事を、中身を評価せずにダメだと評価してしまうことも少なくない。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「ちなみに「お金をもらうからには」という意見は、ナリワイをやる本人ではなく、他人からのプレッシャーとしてよく発せられる。しかも、その人自身は、自分で仕事をつくったことがない場合が多い。これも注意が必要なポイントである。自力で仕事をつくったことがない人は、未知の世界へ飛び出そうとする人に対して厳しいことがある。こういう声につぶされないようにしたいところだ。なんなら、不満がある人には全額返金する、というルールを設けてもいいので、まずはチャレンジできるようにすることが大事である。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「ナリワイを育てて行くのに大事なのは、むしろ実行した後で、必ず参加した人の感想を聞くことである。それ自体は、次に参加する方の参考になるし、なにより自分自身では気がつかない自分のナリワイの特質に気がつくチャンスだからである。自分のナリワイのいいところは、自分自身で考えるところでもあるのだが、参加した人から教えられることも多い。そうやって何回もやるごとに自分のナリワイがよくなっていく、という循環をつくることが大切である。武者修行ツアーの場合は、感想の一つに「ツアー内容もよかったが、参加者が面白い人ばかりでそこがよかった」という一文があった。これによって私は、「普段は出会わないが、出会ったらお互いに面白いと思える人同士が偶然モンゴルで同じ体験をする」という点が特質である、ということに気づかされるわけである。以後、「旅は一人旅で自分と向き合うのが本物、あとは偽物」というような批判にも動じなくなったし、なるべく参加者の多様性がうまいこと出るように広報先を分散させるように注意を払うようになった。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「これまで見てきたナリワイ的生活は、色んな小さい仕事をつくって組み合わせることで暮らし方をデザインする、ということだが、おそらく世間の常識では、まだまだリスクが高くてチャレンジャーな生き方に見えることと思われる。しかし、ここで専業と複業(兼業)の違いについて考えみると、実は専業の方がかなりハイリスクな生き方ではないか、ということが分かる。 現代のように変化の激しい時代だと、景気の変動や技術革新などで、ある仕事が根こそぎなくなったり激減したりすることはままある。景気の変動で言えば、 2008年のリーマンショックで頓挫した会社も多かったし、様々な分野に影響を及ぼした。欧州でファッション関係の仕事が一時期激減して、全く仕事がなくなり、ヨーロッパのファッションのフォトグラファーの方などが日本に仕事を取りにきていたという現象もあったという。日本でも不動産関連の採用内定取り消しが起きるなどした。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「現代は、放っておくと現金収入だけが人生の絶対基準になりやすい。地下鉄や雑誌、テレビ CMを見ていると、「え…? 私の年収低すぎ!」、「損してませんか?」、「年収 1千万円のデキる人がやっている 11の方法」とか、マネー圧力が強い情報を日々浴びるからである。かなりの影響を受けてしまうから、環境の影響は侮れない。あの手の広告は呪符と思ってもいいぐらいだ。 しかるに、毎年毎年できることを増やしていくようにする、というのは人生の歩み方として健康的だ。年収は景気やら運やらで上がったり下がったりするし、年収だけを人生の評価基準にするとあまり精神的な余裕につながらない。だいたい、キリがないではないか。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著
「いい会社に入ることがリスクヘッジである、と思われていた時代があった。おそらくいまの 20 ~ 30代の親が働いていた時代は、そのルールが通用していて、いい会社に入って、穏便に過ごしておくのが一番得であった。会社を途中で辞める、という選択は、変わり者のすることであり、一言で言えば損をする選択であったのである。今はもちろん違うが、親にとってはその原則が強烈に生きているので、自分の子どもに対して会社を辞める、という選択肢を許さない、というプレッシャーがだいぶある。子どもはこのプレッシャーに従うリスク、親は自分の常識に従わせるリスク、というのもよくよく考えておく必要がある。子どもがそのプレッシャーに打ち勝つためには、いざとなったら会社に頼らず生きていくことはできますよ、という自信をつけておかないといけない、そのためには小さいながらも自分で仕事をつくれる、ということを実践しておくことが一番近道である。これは精神力だけではなんともならない。」
—『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』伊藤洋志著