桝田啓三郎の作品一覧
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Posted by ブクログ
ジェイムスのプラグマティズムは超越論であれ経験論であれ、また一元論であれ多元論であれ、あらゆる哲学上の立場と両立し得る。それは哲学の哲学、いわばメタ哲学であるからだ。哲学の使い方を問う哲学、哲学に耽るためではなく、哲学を生きるための哲学と言ってもいい。個々の哲学上の立場に対しては、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」という可謬主義の立場をとる。全ては仮説(仮象ではない!)と割り切った上で、それが「役に立つ」かどうかを問題にする。何に役立てようというのか。もちろん良く生きることだ。哲学は「知への愛」だが、「知」は良く生きるための「知」であった筈だ。そのことを忘れた哲学は知的遊戯以外の何ものではない。この至極当たり前の考え方がプラグマティズムの出発点だ。
ただ、真理は役に立つかどうかで決まるというジェイムスの言い方は誤解を招き易い。ジェイムズはパースから構造主義(記号論)的な思考法を受け継いでおり、概念(言葉)と実在(世界)の一致ではなく、世界について語る言葉の内的整合性を真理と呼んでいる。言葉が生の形式であるならば、それが整合的であるとは生が整合的であることを意味する。言葉の外にある実在を写しとるのではなく、整合的で首尾一貫した生の表現(表出ではなく、創造であり自覚でもある表現)として言葉を用いること、これが「役に立つ」哲学なのだ。だがその整合性のパターンは一意には定まらず幾通りにも可能である。構造主義的なタームで言えば構造は「置換」可能なのだ。(最終的に言葉が実在に到達できると考えたパースとの違いが後にプラグマティズム内部の論争になり、近年パース再評価の動きもあるようだが、評者はローティとともにジェイムズにより共感する)
そして何が良き生き方であるかも人それぞれだ。世界をまるごと認識することに喜びを感じる者もいれば、不完全であったとしても、とりあえずの認識を携えて世界を変える、あるいは完成させることに喜びを見出す者もいる。前者は超越論や一元論、後者は経験論や多元論に馴染み易い。ジェイムス自身は後者に共感を示すが、前者を排除してはいないし、できるとも思ってない。人の生き方が簡単には変えられないのだとしたら、自分の生き方にフィットする哲学を信じる他ない。その哲学を通じてより良く生きたと実感できたなら、それを真理と呼ぼうではないか。ジェイムスはそう言ってるのだ。なんか変だ、おかしいぞと気づいたら変えたらいいのだから。
プラグマティズムは人間を離れた外的基準による真理の基礎づけを放棄する。その意味で相対主義と言ってしまえばそれまでだが、思い込みによる居直りのススメでは決してない。ギリシャ哲学以来二千年この方、万人が承服できる基礎づけを行った者は誰一人ない。いつ果てるとも知れぬ無益な真理ゲームから哲学を解放し、人間の生を豊かにするという根本課題に哲学を差し戻す積極的な相対主義だ。哲学をピカピカに磨いて人間が干からびては意味がない。
Posted by ブクログ
死にいたる病
(和書)2011年07月06日 21:43
1996 筑摩書房 セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎
キルケゴール「死にいたる病」を読むのは2回目なのです。1回目は何処が凄いのかピンとこなかった。でも今回読んでみて吃驚するぐらいすばらしい作品だと思いました。
1回目を読んだ時の自分と2回目を読んだ時の自分が全く違う人間に変わってしまったような、新鮮な衝撃を受けました。
読書って1回読んだだけでは読み切れないって強く思いました。前回は必読書だから力が入りすぎたのかもしれない。
カントの啓蒙とキルケゴールの教化が繋がっていてヘーゲルに対している。最初にそこを読んで度肝を抜かれました。
お勧めです。是非お読み下さいませ。
3回目 読みました。
とても凄い作品です。必読書150で柄谷さんの評が載っている。木村敏が統合失調症の世界観を見事に描いていると書いてあり、漸くその意味が解った。カントの言う学問=秩序だった全体の内でみるということが、単独な人間は概念以下にあるということにおいて思弁に抑圧され、それを倫理としてしか見いだせないという次元において見事に学問として捉えられている。凄まじい作品です。何回も再読すべき名著だということを漸く知りました。