景徳鎮からの贈り物シリーズ作品一覧

  • 挙げよ夜光杯
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    王翰の『涼州詞』は日本でも古くから愛唱される。 「葡萄の美酒 夜光杯 飲まんと欲して琵琶、馬上に催す 酔いて沙場に臥すも 君、笑う莫れ 古来 征戦 幾人か回る」 夜光杯の原料は玉に似て玉ではない。夜光杯づくりはとても困難な仕事で、中国解放当時、夜光杯づくりの職人は三人しか残っていなかった。この物語は、その三人の老職人のうちの一人董伯仁が、彼らの作業が見せかけ用にすぎなかったことと知って絶望するが、夜光杯の原石の恩返しを知って、人間として立ち直る物語である。

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  • 金魚群泳図
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    張晋渓は蘇州で刺繍の名人として名があった。だが一八七〇年代、彼は新疆にいた。当時の新疆は流刑の地だった。張晋渓が新疆に着いてまもなく、新疆に動乱がおこった。ヤクブ・ベクが新疆に侵入してきたのだ。張晋渓はヤクブ・ベクの捕虜となり、その本陣トクスン城に連れてこられた。刺繍の技術を指導するように強制されたのだ。 新疆は乱れに乱れた。清朝の遠征軍派遣は遅れたが、司令官劉錦棠の巧みな戦術で、住民の信頼を失ったヤクブ・ベク軍は遁走してしまった。劉錦棠のトクスン城攻略の前に、張晋渓がひそかに製作した「金魚群泳図」が献上された。図には重要な軍事情報が秘されていた。はたして司令官劉錦棠は情報に気づくか? そしてその情報とは? 夜明け前の中国西端。動乱の新疆を舞台に名人刺繍工匠の秘話。

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  • 景泰のラム
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    一四五三年東ローマ帝国、すなわちビザンティン王朝の命運は尽きようとしている。国都コンスタンティノーブルは、オスマン帝国軍に包囲された。 攻城、軍功は貴族のこと 剣戟ひびき 火噴きあげるも われらはなりわいにいそしむ― ローマと呼ばれた職人がいた。クロワゾンネすなわち七宝の技術をきわめ、宋の磁器に憧憬していた。戦乱をさけてローマはコンスタンティノーブルを離れ中国広州に向う。青磁の国にたどりつき、青磁の技法習得に没頭するために。 広州に着いてから、彼はラムと呼ばれた。ローマという発音に最も近い中国の姓は「藍」(ラム)だったからだ。 七宝のことが、中国では「景泰のラム」と呼ばれて五百年以上がたった。

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  • 景徳鎮からの贈り物
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    清国の雍正帝の父康煕帝は名君のほまれ高い人物であったが、皇太子を立てず、臨終のとき後継者を指名した。「第四皇子のインシン」、これが雍正帝である。康煕帝が最も愛していたと思われたのは、十四男であったので、世間では雍正帝派が遺言の十を消して四だけにしたのだという噂が立った。先帝がほんとうに雍正帝を使命したかどうか、きわめて疑わしい。 雍正帝は即位すると、皇位継承のライバルであった兄弟たちをつぎつぎと片づけはじめた。 呂留良はすでに死んだ朱子学者である。彼の著書のなかに、大逆の思想があると言うので問題になった。呂留良の墓はあばかれ遺体の首は斬られ、さらし首にされた、そればかりではない。呂留良の子の呂毅中や主な弟子までが斬刑に処せられ呂留良の孫たちは流罪になった。雍正帝の政治は、独裁恐怖政治にほかならない。 ――いまこそ恨みをはらそう。呂四娘の指はふるえた。彼女は雍正帝に屍体をあばかれ首をさらされた朱子学者呂留良の孫娘であった。 ――父を殺し、祖父をはずかしめた皇帝に復讐しよう。彼女は心にそう誓った。 皇帝のそばに近づかないで、皇帝を毒殺する方法はないだろうか。景徳鎮の御器廠にもぐり込んだ呂四娘は二つの御用湯飲みに細工を施した。 一つは皇帝に献上され、もう一つの湯飲みは・・・・・・。 雍正十三年(一七三五)八月丁亥の日、雍正帝は病気にたおれ、二日後に死んだことになっている。だがじつは即死であった。猛毒に犯されたのだ。毒がどこからはいったのか、いくら調べてもわからなかった。

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  • 湖州の筆
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    世界を征服した蒙古は、自分独自の文字をもたねばならなかった。フビライはチベットから連行した聖童の誉れの高かった八思巴(パスパ)に命じて新文字を作成させた。だが、どの筆もこの文字を書くために適していない。新しい筆が必要であった。湖州の筆匠馮応科は、パスパ文字用に穂が短く先端がやわらかで根もとからそこまでを極端に固くした奇妙な「新しい筆」をつくった。そして五十年以上筆匠として働いた。湖州は名筆の産地として有名になり、馮応科の名も世に宣伝されるよになった。 蒙古の宮廷では、多勢の写字生を雇って、せっせとあらゆる古典をパスパ文字に訳していたが、それを読もうとする者は一人もいなかった。その事業の主催者である皇帝さえも。パスパ文字の書物はいたずらに宮廷の倉庫に山と積まれて眠っていた。 やがて台州で、用心深い方国珍が造反した。これが元末の動乱のはじまりであった。

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  • 墨の華
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    (変わらぬもの、わしはそれが欲しい) 墨工羅小華はじっと考えていた。彼の前の机に「至宝」の二字を金であしらいその上下に鳳凰をあしらった墨が置いてあった。その墨がにおうのだ。墨はいくら歳月がたってもそのにおいは変わらない。においは墨のなかに封じこめられているのだ。変わらぬものがそこにあった。 (わしも変わらぬものをつくるのだ) 明代の三代名墨工と謳われるようになった羅小華は、晩年に名墨造りの秘訣を問われ、「心にわきかえる熱があって、造りたい気持ちを抑え、それをほとばしらせるのですよ」 と答えたという。

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  • 波斯彫檀師
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    韓貞は波斯の当時最高の技術を持つすぐれた彫檀師。李有儀は長安に住み医薬を業としていた。二人は少年時代からの親友である。李有儀の大切な、美人で気立てがよいと評判の妹が皇后陛下の宮仕之にむりやりかり出されたという。 時代は中国唐代、玄宗上皇が死に皇帝粛宗が危篤で床に臥せていたとき、争いがもちあがった。粛宗の時代になって宦官の李輔国が擡頭した。優柔不断の粛宗の下で李輔国は兵権を掌握し宰相の地位を狙った。張皇后との関係は悪化し李輔国は、張皇后とその一味徒党と思われる人たちをすべて殺してしまった。 あんなに可愛がっていた李有儀の妹は、張皇后の侍女であったがゆえに、このたびの“皇后の謀反”に連座したという強弁で殺されてしまったのだ。 最愛の妹を殺した巨頭李輔国への復讐劇が始まった。彫檀師韓貞の神技の細工と仕掛け、李有儀の劇毒の処方、ほとんど出血はない毒殺の方法ほかすべては完璧になされ、李輔国の寝室に取りつけられた。ところが、発見された死体は血まみれで、そして首がなかったという。 これはどうしたことか。暗殺の真相は? それは本文で解明される。

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  • 名品絶塵
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    欽家は蘇州でも有名な贋作の専門家系であった。贋作というからきこえがわるいので「複製品の製作」と言いなおせばよいであろう。おなじにせものでも、欽家のつくったものとわかれば、「欽家款」といって、かなり高い値段がついたものだ。 蘇州の有数な画人である貢幻門に二人の門下生がいた。一人は模本づくりに熱中する欽晋道で、もう一人は蒙古の朝廷に仕えて重用されている高応城である。 南宋の首都臨安が陥落したのは一二七六年二月だが、それより三年前、元軍の包囲を五年にわたって受け力尽きた襄陽の陥落が南宋の運命をきめた。そしていま芸術のみやこ蘇州は蒙古軍の襲来の前に風前の灯である。 欽家は蘇州の名品を必死で守ろうとしていた。しかし、その方法は? 蘇州にも蒙古の馬蹄の響きが伝わってきたのだ。

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