NHK出版作品一覧

  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 エベレストへ 熱き一四〇〇日日本女子登山隊の闘い
    5.0
    標高8848M、世界最高峰エベレスト。昭和50年5月16日、女性だけの登山隊がエベレスト登頂に成功した。世界初の快挙を成し遂げたのは、主婦やOL、教師など15人の日本人女性チームだった。 登山隊のメンバーたちがエベレストに夢を抱き始めたのは昭和45年。植村直己がエベレスト登頂に成功した年だった。 しかし女性だけの海外遠征に社会の目は厳しかった。「女性だけでは絶対に無理」「主婦は家庭を守るべき」と言われ続けた。組織作りから資金集めに至るまで、3年に及ぶ準備期間は苦難の連続だった。 更にエベレストでは過酷な自然が待っていた。厳しい寒さ。高山病。突然の雪崩。命の危険に脅かされながらも、女性たちは夢を諦めず登山続行を決断する。メンバーの情熱を支えていたのは、故郷で成功を祈る家族や仲間達の存在だった。 家庭や仕事を抱え、母として女性として様々な問題に直面しながらも、自分たちの夢を叶えようとしたエベレスト隊の1400日のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた 日米逆転! コンビニを作った素人たち
    -
    70年代、スーパー業界17位のじり貧にあえいでいたイトーヨーカ堂。窓際の部署にいた30代の社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。小さな店舗に豊富な日用雑貨を取りそろえた長時間営業の店、コンビニエンスストアだった。 ビジネスノウハウを入手するため、最大手サウスランド社(セブンイレブン)に莫大な契約金を払い、屈辱的ともいえる契約を結ぶが、苦労の末に入手したマニュアルは日本では全く役に立たない代物だった。 しかも、未知のビジネスに賛同者は少なく、プロジェクトに集まったのは素人ばかり。元商社マンや自衛隊員、労働組合の元闘士・・・、15人の素人集団はゼロから独自の小売り戦略を練り始める。「全品買い取り、返品なし」「在庫は極力減らせ」「1個ずつの小分け配 送」江東区豊洲の酒屋を改造した一号店を舞台に作り上げられた手作りの戦略は、次第に日本独自の流通 機構に風穴を空けていく。15年後、セブンイレブンジャパンの売り上げは、アメリカの本家を抜いた。 日本の流通を変えたコンビニエンス・ストアの草創期に焦点をあて、社員たちの悪戦苦闘の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた 幻の金堂 ゼロからの挑戦薬師寺・鬼の名工と若武者たち
    1.0
    日本を代表する名刹・薬師寺。その中心にそびえる金堂は、400年前に消失したものを復元した、昭和最大の木造建築物である。実に5年の歳月をかけ、昭和51年に完成した。  僅かな資料をもとに、400年前の姿を復元するというこの難工事。その総指揮を執ったのが、「鬼」と恐れられた日本一の宮大工、西岡常一である。  この西岡のもとで工事に当たったのが、青森から九州まで、全国から集まった37人の大工たち。しかし、その多くが民家の仕事しか経験がなかった若い大工たちだった。 西岡には宮大工の仕事を通じて培ったある哲学があった。 「木には強い木と弱い木がある。しかし、強い木だけではいい建物は建たない。大工も同じだ。腕のいい大工も出来ない大工も必要なのだ。それをまとめていくのが棟梁の仕事だ。」    西岡は経験のない若手たちに、一つ一つ役割を与え、黄金の堂をよみがえらせていく。そして、最後の難関、大屋根の建造では、もっとも重要な「隅木」の製作を、若手の中でもっとも不器用だった一人の若手に任せた。若手は、見事な仕事で西岡に答えた。   日本古来の伝統技術の復活を目指し、金堂再建に挑んだ男たちのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた ロータリー47士の闘い夢のエンジン誕生からルマン制覇まで
    -
    ロータリーエンジン。 従来のピストン式のものと違い、小型で高出力、しかも静かなエンジンである。200年前から研究が進められ、夢のエンジンといわれてきた。このエンジンの開発に世界で初めて成功したのは、広島のマツダである。マツダは原爆の被害を奇跡的に免れた、三輪自動車メーカーだった。開発の中心となったのが、設計部次長の山本健一だった。山本は広島生まれ。妹を原爆で失った。その悲しみを乗り越え、広島の復興に尽くそうと、ロータリーエンジンの開発に全てをかけた。その山本の下で、47人の部下が困難な開発に携わった。「ロータリー47士」と名付けられた彼らは、いずれも山本と同じ思いを抱いた若者たちだった。彼らは、摩擦によってできる「悪魔の傷跡」を始め、克服が不可能とされた技術的課題を、意地と執念で次々と解決していった。 原爆で家族を失った男たちが、故郷の復興を願い成し遂げた、ロータリーエンジン開発のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた ツッパリ生徒と泣き虫先生伏見工業ラグビー部・日本一への挑戦
    5.0
    全国で「校内暴力」の嵐が吹き荒れていた昭和49年春。京都一「荒れた」高校、伏見工業に一人の新任教師が着任した。山口良治、31歳。かつてラクビーの日本代表キッカーとして活躍した山口は、ラグビー部の指導に情熱を燃やしていた。しかし、伏見工業の荒廃ぶりは想像を超えていた。校舎の中をバイクが走り回り、授業中はみなトランプや麻雀をしていた。教師たちも見て見ぬふりをしていた。  最初の職員会議で山口はなきながら訴えた。「それでも、あなた達は教師ですか」  会議の後、校長と二人の若手教師が山口を追ってきて言った。「山口君。一緒に学校をたて直してくれ」。こうして熱血教師たちの取り組みが始まった。  子供たちを立ち直させるためには、母校に「誇り」を持たせることが必要だった。そのためには不良の巣窟、ラグビー部を鍛え直し、全国大会に出ることを目標とする。  初の公式戦は、強豪・花園高校を相手に「112対0」で歴史的大敗。その屈辱をバネに、プロジェクトの闘いは始まった。泣きながら、身体ごと不良たちにぶつかっていく山口は「泣き虫先生」と呼ばれるようになっていった。そして、子供たちも次第に心を開き、全国優勝への夢に向かって突き進んでいく・・・。  今も教育界に語り継がれる、伝説の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた よみがえれ日本海ナホトカ号 重油流出・三〇万人の奇跡
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    平成9年1月、突然、日本海沿岸を襲った真っ黒な重油。ロシア船籍タンカー、ナホトカ号から流れ出した重油はドラム缶 三万1千本分。被害は日本海側の9府県にも上る未曾有の事故だった。各地の浜は、どす黒く汚れ、向こう5年、海はよみがえらないと言われた。地元の漁師たちにとってはまさに死活問題だった。浜と漁師を救ったのは、バケツとひしゃくで重油を掬いつづけた30万人に及ぶボランティア。「善意が奇跡を起こした」と世界中で報道されたこの快挙の陰には、ボランティアをまとめるために奔走した地元の青年たちの姿があった。 最大の被害を出した福井県三国町で立ち上がったのは、建設会社を営む35歳の長谷川啓治。 食料の調達、宿泊場所の確保、作業の指示・・。長谷川は会社を休み、地元の商店主や青年たちとともに膨大な作業に取り組んでいく。連日の荒天のため、作業は中止が続き、ボランティアと地元の間に確執も生じた。それを乗り越え、人々の善意がわずか3ヶ月で、浜をよみがえらせていく。「善意の奇跡」の裏側で繰り広げられた人間ドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた うまいコメが食べたいコシヒカリ ブランド米の伝説
    -
    昭和57年以来、販売シェアの全国一をキープし続けるコシヒカリ。日本一うまいと言われる米である。その作付け面積は、今や日本の全水田の3分の1を占める。戦後まもなく、福井の農業試験場で開発されたコシヒカリは、「越南17号」と名付けられた試験品種だった。味はうまいものの、肥料の管理などが面 倒で、「増産」が至上命題だった当時は、全く相手にされない米だった。その「越南17号」に目を留めたのが、新潟県長岡農業試験場の職員、杉谷文之40歳。杉谷は土地のやせた新潟の農業を救う「うまい米」を探していた。しかし、期待の越南17号は、刈り入れの直前、生育のしすぎでバタバタと倒れていった。杉谷たちは、過剰な生育を押さえるために、肥料の与え方で対処しようと試行錯誤を重ねる。この米に、一人の若い農家が着目する。やせた土地に苦しんでいた魚沼地区の小林正利だった。小林は、村を救うのはこの米しかないとプロジェクトに加わる。このうえなく痩せていた魚沼の土地は、偶然にも「越南17号」には最適の土地で、以後、魚沼は、この米の開発に地域の存亡を賭けるまでになった。 貧村を救おうと研究に打ち込んだ研究者と、地元農民の心の交流を軸に、日本一の米、コシヒカリ誕生のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢遥か、決戦への秘策 父と息子 執念燃ゆ 大辞典30年・空前の言葉探し
    -
    辞書「広辞苑」。収録語20万。2320ページ。  国語辞典のみならず、地名・人名・流行語などの百科事典の機能も兼ね備えた、日本初の本格的な「日本語の総合辞典」である。昭和30年、発売と同時に大ベストセラーになり、いまもその地位 は揺るぎない。  辞書作りの中心となったのが、新村出と新村猛。言語研究に生涯を捧げた親子だった。「一流国になるには、日本語の総合辞典が不可欠だ」。その信念で、二人は戦前から10年の歳月をかけ、15万語の辞書の原稿を完成させた。しかし、昭和20年、原稿を印刷所に持ち込み、印刷開始の直前に空襲にあった。原稿、活字、印刷用紙、全てが一瞬で灰と化した。  戦後、二人は辞書作りを再開する。しかし終戦直後の日本は、時代が急速に動いていた。新しい言葉が次々と生まれた。意味も変化した。戦前の蓄積では対応できず、一から言葉を選び、意味を考えるという、気の遠くなる作業が必要だった。  それを支えたのが、7人の若い編集スタッフだった。新聞を読みあさり、喫茶店や、公園で遊ぶ子供たちの会話にまで耳をそばだて、言葉選びに奔走した。彼らは、新村親子を中心に、膨大な言葉の海と格闘を続けていく・・・。  日本語の豊かさに誇りを持とうと、前代未聞の辞書作りに情熱を燃やした親子と若者たちのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 鉄の男たち 逆境からの日本一伝説の釜石ラグビー部
    4.0
    日本ラグビー史上、前人未到の7連覇を達成した伝説のチーム、新日鐵釜石ラグビー部。彼らは大卒中心の社会人ラグビー界にあって、地元出身の高卒選手を中心とした「雑草集団」だった。 チームが生まれたのは昭和35年。部員は、ずぶの素人の鉄鋼マンばかりだった。しかし、仕事をこなしながらトレーニングを続け、やがて、全国大会に出るまでになった。 そんな鉄の男たちを、突然の不況が襲う。部員がリストラされ、部は存続の危機を迎えた。その時、一人の男が立ち上がった。市口順亮(よしあき)。本社から赴任したエリート技術者だった。 市口は、釜石の町の暗い雰囲気に驚いていた。沈みきった繁華街、士気の下がった社員。熱血漢、市口は監督に就任、ラグビーで町を盛り上げようと動き出す。 市口はイギリスの本を自ら翻訳し、部員に最先端のラグビー理論を教え始めた。しかし、市口の指導に高卒の部員達は反発した。過酷な現場での仕事を終えた後の厳しい練習、退部するものも相次いだ。「所詮監督はエリート。俺たちの気持ちはわからない。」市口はそんな部員達をグランドで殴り合いをしながら議論、家に呼んで「釜石から日本一のチームを作ろう」と語りあう。 そんな折り、「釜石の製鉄所が合併される」という衝撃的なニュースが飛び込んでくる。市口は会社の上層部から告げられた。「ラグビー部は同じ会社に2つもいらない」ラグビー部は、勝たなければ廃部という瀬戸際に追い込まれる。 背水の陣で臨んだ社会人選手権。釜石ラグビーは快進撃を続けた。そして、日本一をかけ、名門・早稲田大学ラグビー部との試合を迎える。会場に駆けつけた大勢の市民。「廃部か存続か」。運命の試合は、劇的な結末を迎える。 故郷を愛し、共に生きた鉄鋼マンたちの不屈のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 通勤ラッシュを退治せよ世界初・自動改札機誕生
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    昭和42年、大阪の北千里駅に、一台の機械が設置された。 「自動改札機」──いまや日本全国に行き渡った夢の機械の第1号機である。 膨大な情報を磁気で記録し、それを一瞬で読みとる。その技術は、ラッシュの混雑を劇的に緩和しただけでなく、銀行の自動支払機CDやATMの元となる画期的なものだった。 高度経済成長下の昭和30年代、人口集中に伴い、鉄道の混雑が大きな社会問題になっていた。ダイヤの乱れ、ホームからの転落事故などが多発。鉄道会社は、各メーカーに自動改札機の開発を打診した。 「不可能だ」と各社が後込みする中、手を挙げたのが立石電機(現オムロン)だった。社長の立石一真(67)は、極貧の中で妻を亡くし、7人の子供を育て上げた苦労人。以来「人の役に立つ機械の開発」をモットーにしてきた立石は、採算度外視の開発を決意。「立石電機7人の侍」と呼ばれた若手技術者を集め、開発に当たらせた。 人の流れを止めないためには、1分間に80人の切符を処理しなければならない。更に、大人と子供の区別 、男女の区別、不正な券の発見、荷物と人との判別など、膨大な磁気処理が必要だった。若手技術者の一人、田中寿雄(27)は、試作機を作っては、近所の主婦や子供たちを集め、試行錯誤を重ねた。 それらの課題を解決した矢先、さらなる難題が襲いかかる。それは、濡れたり折れたりして、磁気が乱れた切符の判別 だった。若手技術者たちは、一からの開発を迫られることになった……。 完成までに6年を費やし、磁気の技術に革命を起こした自動改札機の壮絶な開発物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 兄弟10人 海の革命劇魚群探知機・ドンビリ船の奇跡
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    今や世界中の漁船になくてはならない装備となった「魚群探知機」。超音波を使い、海の中の魚群を見つけだすこの装置は、勘と運に頼っていた漁業を革命的に変えた。 昭和24年、魚群探知機を世界で初めて実用化したのは、長崎の港町、口之津に暮らす二人の青年だった。古野清孝、清賢兄弟。二人には8人の妹、弟がおり、失職中 の父に代わって、漁船の電気関係の工事作業で家族の暮らしを支えていた。漁師たちの運任せの仕事を見ていた二人は、魚を見つけだす機械を作れば必ずあたると動き出す。 しかし、作り上げた試作器はエンジンの振動や海中の泡まで感知してしまい、使い物にならなかった。最初は協力してくれた漁師たちも怒り出す始末。そのなかに、協力を惜しまない船があった。五島列島で、もっとも漁獲高が低く「どんびり船」と呼ばれていた枡富丸。古野兄弟と枡富丸は魚群探知機を必死に改良。一発逆転の秘策を考え出す。 家族のために困難な開発に挑んだ二人の若者と「どんびり船」の船員たちの挑戦のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 炎のアラビア巨大油田に挑んだ技術者たち
    -
    20世紀、世界の工業発展を支えた魔法の液体、石油。敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本を支えたのも、この石油だった。 資源のない日本が、石油の安定確保を果たした陰には、壮絶なドラマがあった。日本の真の独立と誇りをかけて闘った技術者たちの挑戦の物語を描く。 敗戦で、海外での油田開発を一切禁止された日本は、僅かに新潟で石油を掘っていたものの、その99%を輸入に頼るしかなかった。日本の石油は、完全に欧米のメジャーに牛耳られていた。 転機となったのは、昭和27年。サンフランシスコ条約で独立を果たした日本は、自主開発原油(日の丸原油)の確保に乗り出した。その時立ち上がったのが、実業家、山下太郎。山下は「アラビア石油」を設立し、サウジアラビアに乗り込んだ。 度重なる交渉の末、日本に開発が認められたのは、沖合の洋上油田という難所。しかも「一発目で石油を当てること」が絶対的指命として課せられた。 この困難を成し遂げるため呼び集められたのが、新潟で細々と石油を掘っていた技術者たちだった。リーダーは山内肇。戦前、アジアの占領地での油田開発を手がけた、世界でもトップレベルの伝説の技術者だった。 想像を超える猛暑。欧米企業の妨害。そして不測の火災事故……。次々と襲いかかる難題を技術者たちはどう乗り越えていくのか……。 日本の命運をかけ、日の丸原油の確保に命懸けで取り組んだ技術者の意地と執念を描く。 昭和48年、日本を悪夢が襲った。オイルショックである。アラブ諸国が一方的な供給削減を発表し、日本中がパニックに陥った。それまでに確保した日の丸原油では、到底足りなかった。 不測の事態に対応できる大量の石油を、安定的に確保できるか。それが日本の今後を左右する鍵だった。 日本は、アブダビにある、世界最大級の大油田に目をつける。そこは、石油と水が混ざって存在する特異な油田。多くのメジャーたちが開発不可能と手を引いた難所中の難所だった。 送り込まれたリーダーは石油技術者、細井弘。山内肇の弟子だった。細井たちは、実に10年に及ぶ試行錯誤を繰り返し、水と油を見事に分けて取り出す技術を開発していく……。 日本の血脈、石油の安定確保をかけ、世界最難関の油田に挑んだ男たちの壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 倒産からの大逆転劇 電気釜町工場一家の総力戦
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    昭和30年、日本の台所を劇的に変えた、一つの電化製品が発売された。自動炊飯器、いわゆる電気釜である。 主婦の家事労働を大幅に減らし、「睡眠時間を1時間延ばした」とも言われたほどの衝撃を与えた。  「電気釜」を開発したのは、東京の大田区で町工場を営んでいた三並義忠(みなみよしただ)、風美子(ふみこ)夫婦だった。三並の工場は戦後まもなく進駐軍からの電気温水器の受注を受け、大々的に業績を伸ばしていた。しかし昭和27年に進駐軍が撤退。注文が途絶え、一挙に倒産の危機に追い込まれていた。6人の子供を抱え、三並は途方に暮れた。   そんな三並に思わぬ話が持ち込まれた。「電気釜を開発しないか」というものだった。話を持ちかけたのは東芝の営業マン、山田正吾。全国を回り、主婦の声を生の声を数多く聞いてきた山田は、飯炊きの苦労を身にしみて感じていた。山田の提案に、三並は工場と家族の未来を電気釜開発に託すことを決めた。  しかし、単純に思えた「お米炊き」の自動化は、予想を超えて難しかった。三並夫婦は、試作器を作っては実験を繰り返した。実験に使う大量のコメを買うために、工場や自宅を抵当にして銀行から資金を借りた。度重なる実験で妻が倒れた。6人の子供たちが立ち上がった・・・。実験開始から3年、壮絶な実験の末に開発した電気釜は東芝から発売されることになった。営業マンの山田は、三並一家の命運が託された電気釜販売に、ある奇策を思い付く。  「主婦に睡眠時間を」を合い言葉に、1台の電気釜で台所革命を起こした人々を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 女子ソフト銀 知られざる日々不屈の闘い・リストラからの再起
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    20世紀最後となったスポーツの祭典・シドニーオリンピック。柔道の田村、マラソンの高橋と共に、日本中を沸かせた女性たちがいた。女子ソフトボール全日本代表である。小柄な身体で、海外の強豪を次々と打ち負かした15人のチームは、「東洋の魔女の再来」と称された。チームを率いたのは監督の宇津木妙子(46)。もともとユニチカのソフトボール選手だった。どんなに活躍してもバレーボールほど脚光を浴びなかった。設備もお粗末で河川敷で練習した。紡績不振で会社が傾くと、真っ先に廃部の危機にさらされた。その屈辱が世界を目指すバネになった。その宇津木監督のもと、日本チームの主砲として活躍したのが宇津木麗華(35)だった。彼女の元の名前は、任彦麗。中国で活躍していたソフトボールの選手だった。選手時代の宇津木のプレーに魅せられた任は、父親の反対を押し切って5年前に日本に帰化した。4年前のアトランタでは、任は出場選手に選ばれながら、中国側の反対で出場できなかった。その悔しさを乗り越えてシドニーに挑んだ。監督と選手が共に手を組み、悪戦苦闘を繰り返しながら銀メダルを勝ち取ったドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 えりも岬に春を呼べ砂漠を森に・北の家族の半世紀
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    死んだ大地に、ゼロから木を植え、森を作る。 半世紀にわたって繰り広げられた、世界でも例のない壮大なプロジェクトがある。 北海道襟裳岬の200ヘクタールに及ぶ砂漠緑化プロジェクトである。それは、襟裳の人々にとって、かけがえのない故郷を蘇らせる闘いでもあった。  昭和28年、えりも岬の人々は困窮を極めていた。町に広がる広大な砂漠の砂が海に流れ出し、生活の糧、昆布を死滅させようとしていたのである。 砂漠は、かつて、うっそうとした森だった。しかし、開拓した人々は、暖をとるために森の木々を切り尽くした。森はあっというまに、砂漠と化し、人々に襲い掛かった。 立ち上がったのは、若い漁師たち。砂を止めるために、砂漠を森に変える壮大な試みを始めた。その中に、24歳の飯田常雄がいた。嫁いだばかりの妻に「必ず森を完成させる」と約束していた。 気の遠くなるような、厳しい自然との闘いが続いた。牧草の種は、強風に吹き飛ばされ、3年間、全く根付かなかった。ようやく牧草を植え終わったのが、21年目。そこから、さらに一本一本苗木を植えた。  漁師たちの老齢化。若者たちの反発。さまざまな困難とぶつかりながらも、漁師たちとその家族は、少しずつ少しずつ砂漠を森に変えていく。そして、森が広がるにつれ、育まれた腐葉土から栄養分が地下水に流れ出し、いつしか、海は豊かさを取り戻していった。  番組では、半世紀にわたる、漁師家族の物語を軸に、壮大な自然の再生のドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦  『宗谷』発進・第一次南極観測隊日本人が一つになった八八〇日
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    戦後ただ一度だけ、日本中の企業と学者、そして、国民がその力を結集させてのぞんだ壮大なプロジェクトがある。 昭和31年に始まった第一次南極観測である。輸送船「宗谷」の建造から、世界をあっと驚かせた昭和基地での越冬観測までの知られざる人間ドラマ。昭和30年、東大理学部教授・永田武の元に、世界各国共同で、未知の大陸・南極の観測を行わなうという途方もない構想への参加要請が来た。しかし、日本に与えられた観測場所は、欧米が7度挑戦しても行き着くことのできなかった南極屈指の難所、プリンスハラルド海岸だった。予算も、時間もないなか、未曾有のプロジェクトが動き出す。輸送船に選ばれたのは、灯台への物資補給に使われていた老朽船「宗谷」。元海軍の設計技術者と、横浜の小さなドックの職人達が改造に立ち上がった。観測隊員は、屈強の山男から、元銀行員、学生など77人。南極用の住居や電池、無線、食料の開発には、千を越す日本企業が力を貸した。「南極観測を成功させて、自信を失っている日本人に勇気を与えよう」 昭和31年11月8日、屈強な船に改造された「宗谷」は南極に向けて晴海埠頭を出航する。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦  男たち 不屈のドラマ 瀬戸大橋世紀の難工事に挑む
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    昭和63年、18年の歳月を経て完成した「瀬戸大橋」。1000メートルを超える橋の上を列車が行き来するという世界でも例のない巨大橋である。未曾有の巨大橋建設のきっかけとなったのは、昭和30年に起きた悲劇の事故だった。修学旅行中の子供達100人が瀬戸内海に消えた紫雲丸の沈没事故。「瀬戸内海に橋をかけてほしい」四国各地から切実な声が巻き起こった。 瀬戸大橋建設に挑んだのが、「不可能を可能にする男」と呼ばれた、天才技術者・杉田秀夫だった。猛烈な速さで潮の流れる瀬戸内海に、どうすれば巨大な橋台を建設できるのか。杉田は、前代未聞のこの難問に、果 敢に立ち向かった。 一人の男が協力を申し出た。瀬戸内海のことなら何でも知り尽くしている男、ダイバーの飯島靖郎だった。飯島は、昭和30年、紫雲丸事故の遺体引き上げ作業に携わっていた。相次ぐ実験失敗、石油ショックによる着工凍結。様々な困難を乗り越え、技術者たちは、瀬戸大橋の建設工事を成し遂げていく。番組では、技術者たちの心の交流を織り交ぜながら、瀬戸大橋架橋の最大の難関であった海中基礎工事にかけた男達の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 魔の山大遭難 決死の救出劇
    -
    昭和30年代、日本は登山ブームを迎え、山での遭難事故が増え始めた。昭和38年、後にサンパチ豪雪と呼ばれるドカ雪で、北アルプス薬師岳を登山中の愛知大学山岳部13人が全員死亡。前代未聞の大量遭難となった。この事故で、救助チームの隊長を務めたのは富山県警上市署の鑑識係、伊藤忠夫40歳。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。昭和40年、伊藤を指揮官とする山岳警備隊が発足。しかし県内の警察署から集められた隊員達は、山歩きの経験が無い素人集団。伊藤は助っ人を頼もうと、北アルプス麓の集落、あしくらじ芦峅寺を訪ねた。黒部ダム建設の際、資材を運搬。第一次南極観測隊にも選ばれた山のエキスパート達が住んでいた。隊員は、あしくらじ芦峅寺の男達に山登りの技術を学んだ。昭和44年正月、剣岳を記録的なドカ雪が襲った。15パーティー81人、史上空前の大量遭難が発生。山岳警備隊はあしくらじ芦峅寺の男達に応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランガイドが谷に転落。あしくらじ芦峅寺の男達は仲間を救出、山を降りた。後には、3人の若き警備隊員が残された。「今こそ厳しい訓練の成果を見せる」遭難者が待つ山頂に、足を踏み出した。生死をかけ、山岳救助に挑んだ若者達の熱きドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 突破せよ 最強特許網 新コピー機誕生
    4.0
    強大なアメリカ経済。強さを支えてきたのが特許である。巨大企業は巧みな特許戦略でライバルを抑え、世界市場を制覇した。32年前、その特許戦略に真正面から挑み、突破した男たちがいた。キヤノンの技術者たちである。男たちに立ちはだかったのは、世界で初めて普通紙複写機(コピー機)を発売し、シェア100%を誇っていたゼロックスの特許網。「この特許を使わずしてコピー機を作ることは不可能」と世界中の技術者が諦めるなか、男たちが作り上げたのが、新方式の国産普通紙複写機・NP-1100だった。開発は困難の連続だった。独自方式開発のためには、ゼロックスの特許を全て把握しなくてはならない。数百件・数千ページに及ぶ英文特許の山が特許マンに立ちはだかった。またコピー機は、物理・化学・電子・機械の最先端技術の結晶。複写プロセスは多岐にわたり、全ての過程において技術者たちは一から独自技術を創造しなくてはならなかった。苦境を乗り越えるバネとなったのは、日本のオリジナリティーを世界に示したいという思い。それまで日本は、莫大な特許使用料を払って欧米から技術をもらうばかりで、製品は「優秀な模造品」と皮肉られていた。レッテル返上に燃える技術者と特許マンの執念が不可能と言われた開発を成功に導いていく。鉄壁の特許網に挑み、見事に独自のコピー機を作り上げた伝説の技術者と特許マンの逆転の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 世界最大の船 火花散る闘い
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    昭和41年、横浜で世界最大の船の建造が始まった。船体の長さは東京タワーを凌ぐ342メートル。積み荷は原油、日本の一日の消費量を一気に運ぶ夢のタンカーである。当時、世界中のタンカーは欧米の石油メジャーに握られていた。日本は割高な油に苦しんでいた。「自前のタンカーを持ち、直接中東から買い付ける」立ち上がったのは、石油会社、出光興産。船の建造を請け負ったのは、石川島播磨重工業だった。その下に電気、機械、鉄鋼、全国から1千社。36万人が結集した。世界最大の船体工事、現場の指揮を託されたのは石川島播磨重工業の技術者、南崎邦夫38歳。入社3年目に事故で右足を切断。それでも現場を歩き続けた不屈の男だった。その南崎たちの前に次々と難問が立ちはだかる。船体を覆う、最強の鉄板「ハイテンション鋼」。溶接できず真っ二つに折れた。直径7.8メートルのスクリューを支える巨大シャフト。船体に原因不明の歪みが生じ、取り付けられない。そして、運命の処女航海。東シナ海で巨大台風に襲われた。造船大国の誇りを賭けた人々の壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 衝撃のペルー 男たちは生き抜いた人質127日間のドラマ
    3.0
    平成8年12月17日、世界を震撼させる大事件が南米・ペルーで起きた。日本大使公邸人質事件である。襲撃したのは、MRTA・ツパクアマル革命運動と名乗る武装グループ。天皇誕生日の祝賀パーティーに招かれていた招待客600人余りを人質に取り、刑務所に収監されている仲間の釈放をペルー政府に要求した。最後まで人質に残されていたのは72名、その中に「13人の日本人サラリーマン」がいた。平均年齢は53歳。南米各地で働いてきた企業戦士たちだった。人質たちは、およそ十畳一間の空間に閉じ込められ、建物の各所に爆弾が仕掛けられた。トイレは、人質達が身元を隠そうと捨てた身分証で詰まり、悪臭を放った。皆、蒸し風呂と化した部屋の中で、靴を枕に眠った。ペルー政府と武装グループの交渉は難航し、監禁生活は長期化。人質たちは、身体に変調をきたし、危機が迫った。その時、人質たちの健康を守るため、立ち上がった特命チームがあった。日本赤十字の医師と看護士たち、総勢6名、中立の立場を掲げ、防弾チョッキも付けずに銃口にらみ合う公邸へと向かった。医師の鈴木隆雄(当時46歳)は、懸命に人質達を治療し、励まし続けた。そして事件発生から127日目、ペルー政府が強行突入した。激しい銃撃戦が繰り広げられ、人質達がいた部屋は、紅い炎で包まれた。絶体絶命の人質達、その運命は・・・。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 金閣再建 黄金天井に挑む
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    世界各国の要人が来日の度、絶賛する建物がある。「金閣」。「究極の頂き」と呼ばれる三階の天井には、3千枚の金箔が歪みなく敷き詰められている。二階には、極楽浄土の世界を描いた天井画。その真下に広がる総漆塗りの床に反射し、極限の美を見せる。しかし、この金閣は、52年前に一度、放火で全焼している。そこから再建を成し遂げたのは、全国の職人たちの30年に及ぶ意地と執念だった。昭和30年、京都では、消失した金閣の再建が進んでいた。全国から選りすぐられた、漆職人、金箔職人などが腕を振るった。しかし、資金不足や手がかりの少なさから、二階天井画は、再現できなかった。戦前から金閣を守り続けた住職、村上は、いつの日か完全な再建を目指したが、十年、二十年と経つうちに、風雨にさらされた金閣から金箔は剥がれ落ち、漆も破壊されていった。建物自体が腐る可能性もでてきた。そして、三十年が経った昭和60年、村上も癌に侵され、床に伏せた。「金閣を甦らせたい」病と闘う村上の願いに応えたのは、当時、文化財修復の世界で名をあげていた矢口一夫(やぐち・かずお)を中心とする職人たちだった。矢口は調査と研究を重ね、京都の厳しい自然から金閣を守る材料をそろえた。通常の5倍の厚さの金箔「5倍箔」。金箔の下で建物を守る、粘り強い純国産の漆、1.4トン。昭和61年2月、準備も整い、1年8ヶ月に及ぶ工事がスタートした。しかし、再建は、困難を極めた。謎の歪みが出る金箔。さらに天井画の修復を手がける画家を襲う死の病。そして、完成間近を迎えたその時、最大の壁が立ちはだかった。果たして、黄金の寺は輝きを取り戻すのか。金閣再建に挑んだ職人たち、執念の30年戦争を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 カーナビ 迷宮を走破せよ
    -
    車が溢れる渋滞列島、日本。朝夕の通勤ラッシュ、帰省ラッシュ、長い行列に耐えるのがドライバーの宿命である。12年前、日本で画期的な製品が開発された。アメリカの軍事衛星GPSを利用したカーナビゲーション。初めての道でも裏道でも迷わない夢の機械である。開発に挑んだのは音響メーカーのパイオニア。当時、看板商品のカーステレオの売れ行きが伸び悩み、会社は新製品開発にもがいていた。その時、カーナビ開発を提案したのが畑野一良31歳。カーステレオ部署のエース企画マンだった。畑野は方向音痴。家族でドライブに行くと抜け道で迷った。車内は険悪なムードになった。「家族で楽しくドライブをしたい」。カーナビ開発は、ささやかな思いから始まった。川越工場の本橋実がカーナビ本体の開発を担当。技術研究所の清水敏彦が地図作りを担当。しかし、困難な壁が次々と立ちはだかった。GPS受信機は200万円。車本体よりも高かった。地図を映し出すコンピューターは、真夏の車内気温50度で壊れた。プロジェクトは完全に行き詰まった。そのとき、雪降る、北海道、旭川から、思わぬ援軍が駆けつけた。負け続けの男たちの、奇跡の逆転の物語をお伝えする。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 裕弥ちゃん1歳 輝け命日本初・親から子への肝臓移植
    -
    1989年、出雲市にある島根医科大学に、瀕死の状態の1歳の男の子が運び込まれた。肝臓移植をしなければ助からない、胆道閉鎖症を患った杉本裕弥ちゃんだった。 永末直文医師を中心とする医療チームは、難しい選択を迫られる。当時、脳死による臓器移植は認められておらず、助けるには健康な人の肝臓を切り取り移植するしかなかった。手術に成功しても、失敗しても倫理上の非難が集中することは必至だった。しかし、医師たちは肝臓提供を申し出た父親や家族の思いを聞くうちに、日本初の生体肝移植への決意を固めた。 15時間に及んだ難手術、285日目に訪れた別れ。母親は、「自分をあーたん(母さん)と呼んでくれた瞬間を持てただけで、手術をお願いした甲斐がありました」と語った。 その後、生体肝移植の技術は固まり、1000人を超える子供たちが助かっている。小さき命を救うために手術に初めて挑戦した、医師と家族のプロジェクトを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 美空ひばり 復活コンサート伝説の東京ドーム・舞台裏の300人
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    昭和62年4月、歌手・美空ひばりが倒れた。重症の肝硬変と大腿骨骨頭壊死で、マスコミは再起不能とまで報じた。 「もう一度、ステージに立って歌いたい」。入院先の病院で夏を迎えても、ひばりは「喉を痛める」と冷房もつけず、治療に耐えていた。その姿に、医師や制作スタッフは「ひばりを復帰させ、舞台に立たせる」ことを誓う。そして壮大な計画は持ちあがった。それが、ドーム球場に生まれ変わる「東京ドーム」でのこけら落としコンサートだった。総勢300名にのぼる、ひばり復活公演プロジェクトが動き始めたのだ。  しかし、東京ドームには巨大空間ゆえの問題があった。大きな音を出せば出すほど、こだまのように音が残ってしまう”残響”の問題だった。通常のホールで2秒の残響が、東京ドームでは5,6秒にもなる。そのままでは歌えない可能性もあった。さらに、歩くと苦痛にさいなまれる状態のひばりを、必要以上に動かさない工夫が必要とされた。それらの条件のなか、スタッフは復活の舞台を演出しなければならない。  そして病に倒れて1年後の昭和63年4月11日。美空ひばりは、5万人の観客が見守るなか、東京ドームの舞台に立った。”不死鳥”美空ひばりと、その翼となってステージを支えたスタッフたちの「復活への情熱」を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 全島1万人 史上最大の脱出作戦三原山噴火・13時間のドラマ
    -
    1986年11月21日、伊豆大島の三原山が大噴火。流れ出た溶岩がゆっくりと住宅地区に迫り始めていた。島内4地区に散らばる一万人の島民をどう脱出させるのか、町役場では関係者の知恵を寄せ集めた急造の対策プロジェクトが動き出した。  島民を輸送するバス・船会社、避難を誘導する消防団、無線網を握り溶岩を監視する警察…家族を心配しながらも、男たちは自分たちの職分を尽くそうと立ち上がった。東京電力の出張所では、発電機を回し、夜間の避難と防災活動を支えるため、3人の職員が島に留まらざるを得なくなった。勤務していた職員は6人、すべてが幼い子持ち。しかし、まず、自分が残ることを決めた所長が「あと2人頼めるか」と涙ながらに聞いたとき、すべての男たちが静かに手を挙げた。  夕方から早暁にかけての13時間、一人の犠牲者もなくパニックを起こさずに島外脱出ができたことは、奇跡といわれた。自分をおいて島民全てのために動いた男たち。島民たちの結束力の強さに裏付けられたその13時間のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 執念が生んだ新幹線老友90歳・飛行機が姿を変えた
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    「東京―大阪3時間への可能性」。昭和32年5月、国電の車内に張り出された講演会の吊り広告が、戦後日本最大のプロジェクト「新幹線」建造の道を開くことになった。 この講演会は、国鉄鉄道技術研究所にいた旧陸海軍出身の技術者たちが中心となって企画したものであった。中心人物の一人、三木忠直は戦時中、爆撃機の設計を行っていた航空技術者。人の命を奪うための技術開発に心を痛めていた三木は、戦後、「人の役に立つものを作りたい」と鉄道技術研究所に入所。「飛行機」の理論を「鉄道」に持ち込み、「夢の超特急」を設計する。この計画は、当初国鉄内部では「非現実的」と受け入れられなかったが、講演会の発表が世論を動かし、翌年、新幹線プロジェクトが動き出す。 流線型の車体、振動を吸収する新型の台車、ATC(自動列車制御装置)…。旧陸海軍出身の技術者は次々に新しい技術を開発し、昭和38年、新幹線は、世界最高速度256km/hを記録。新幹線は世界に日本の技術の高さを見せつけると同時に、欧米の鉄道界をも劇的に変えていく。 戦争の負の記憶を心に秘めながら、戦後、「新幹線」に第2の人生を賭けた技術者たちの姿を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 海底ロマン! 深海6500mへの挑戦潜水調査船・世界記録までの25年
    4.0
    世界で唯一、6500mもの深海底を人間の目で見ることの出来る、潜水調査船「しんかい6500」。深海には、一体どんな鉱物資源があり、生物たちが息づいているのか…。 ”海の本当の姿を知りたい”。そのプロジェクトは、昭和39年、潜水艦の建造に長年携わってきた神戸の造船所の片隅から始まった。水温およそ1℃。光は全く届かず、地上の650倍もの気圧がかかる暗黒の世界、深海。人が乗り込むキャビンの厚さが0.5mm狂っても、安全は保証できない。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 カール・ルイスの魔法の靴超軽量シューズ 若手社員の闘い
    -
    1991年、東京世界陸上100メートル走決勝。すでにその時代は終わったと誰もが思っていたカール・ルイスは、9秒86の世界記録を樹立し、金メダルを獲得した。その足には、日本のスポーツ用品メーカーと、神戸長田区の靴問屋が二人三脚で作り上げたスペシャルシューズが履かれていた。  ミズノ入社4年目の木村隆也は、1987年、信じられない命令を受けた.ロス五輪で4冠に輝いたあのカール・ルイスの靴を開発する任務だった。当時、スポーツのコマーシャリズムはアマチュアの陸上界まで席巻。ミズノも広告塔としてのルイスに期待して契約を結んだ。しかし、ベン・ジョンソンの出現、ソウル五輪の屈辱を経るうちに、メーカーとしての商品化を度外視して、世界記録樹立に貢献する道を探り始める。木村は、靴問屋や繊物工場の協力を仰ぎ、世界最軽量 115グラムの靴を作り上げていった。  スポーツと企業のあるべき関係を模索しながら、世界記録の陰でトップアスリートを支え続けた「スペシャルシューズ」プロジェクトを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 東京タワー 恋人たちの戦い世界一のテレビ塔建設・333メートルの難工事
    4.0
    地上333M。わずか15ヶ月という驚異的な突貫工事の末に完成した世界でもっとも高い自立鉄塔、東京タワー。地震、台風の脅威にさらされる東京に造られた世界一の鉄塔は、当時、アメリカのテレビが特集で取り上げるなど、世界各国に衝撃を与えた。  東京タワー完成の陰には、愛する恋人のために命を賭けた一途な若者たちの物語があった。 現場監督として危険な現場を取り仕切った竹山正明、31歳。遠距離恋愛の京都の女性に日々の仕事を克明につづった恋文を送った。鳶の若頭として、強風のなか地上300Mで作業を続けた桐生五郎、27歳。一目惚れした見合い相手に、「鉄塔完成の翌日、結婚しよう」と求婚した。  昭和33年秋、日本中が注目する中、地上330Mへの巨大アンテナの吊り上げが敢行される。1センチの誤差も許されない最後の仕上げ。難工事には、若頭、桐生五郎の「結婚」がかかっていた。 番組は世界一の塔作りに挑んだ技術者と職人の意地と心意気の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 誕生! 人の目を持つ夢のカメラオートフォーカス 14年目の逆転
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    一度しかないこの瞬間を記録に残したい、その素朴な願いを叶えたAFカメラ。 シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは、かつて世界中の技術者から「夢のカメラ」といわれてきた。この夢のカメラを商品化を、世界で初めて成功させたのは、小西六(現コニカ)の若き技術者たちだった。  昭和38年、AFカメラの開発は、たった一人の電気技術者・百瀬治彦の情熱から始まった。シャッターを切る僅か0,1秒の間に、被写 体までの距離を電気信号によって瞬時に読みとりピントの合う所にレンズを作動させるというAFカメラへの挑戦は、地道で気の遠くなるような技術の積み重ねを必要とした。思うように成果 を上げられない。百瀬への社内の目は厳しかった。次第に研究費は削りとられた。しかし百瀬は決して諦めようとはしなかった。  百瀬の粘りを認め陰で支えていたのはカメラ開発部リーダーの内田康男。内田の援助によって、AFの研究は上層部には秘密の「闇研究」で続けられたきた。 完成まで14年、激しい開発競争の中で、みごと世界初の栄光を手にした技術者たちの執念と、陰で支え続けた家族のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 海底3000メートルの大捜索HIIロケットエンジンを探し出せ
    5.0
    昨年11月15日、日本中に衝撃を与えた国産H2ロケットの打ち上げ失敗。 なぜ、突然、メインエンジンが止まったのか。ただちに始まった原因究明は困難を極めた。謎を究明するために必要なエンジン本体が太平洋のどこかに墜落してしまったためである。  「エンジンを見つけるしかない」。日本の宇宙開発の命運は、ある男たちに託された。海洋科学技術センターで深海の学術調査を行っていた門馬大和(ひろやす)研究員のグループである。門馬はかつてナホトカ号重油流出事故の際、沈没した船を発見した深海探査のプロ。音波装置を使った深海探査技術は世界でも並ぶものがいなかった。  与えられた期間は2週間。しかし、最新の音波探査装置「かいこう」を使っても、見つかったのはエンジンの配管と外側の覆い部分のみ。捜索打ち切りが決まったが、門馬は進退を賭けて、再調査を進言する。最新探査機「かいこう」は先約があって使えないため、20年前、自らが造った手作りの探査装置「ディープ・トウ」を使って、2度目の調査を開始する。  日程がないため、24時間体制で敢行された再調査。4日目、ついに門馬たちは、太平洋の海底に沈んでいたH2ロケットのエンジンを発見する。  日本の宇宙開発の命運を託された「深海のプロ」たちの知られざる格闘のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 宇宙ロマン すばる140億光年 世界一の望遠鏡
    -
    「宇宙の果てを見てみたい」。こんな人類の夢を実現するために、昨年秋に、ハワイ島マウナケア山頂、標高4205mに完成した、日本が誇る口径8.2mの大型反射望遠鏡「すばる」。構想から完成まで20年以上の歳月を費やし、総工費400億円ですすめられた、国を挙げての大プロジェクトである。しかし、そこには、多くの学者、技術者をはじめとした関係者の、想像を超えた苦労が隠されている。これまで技術的に不可能と言われ続けていた8mの巨大望遠鏡建設。最高の精度を保つため、鏡自身のたわみをいかに補正するか、技術者たちの挑戦が続いた。「すばる」の建設は、幾多の困難を乗り越え、ようやく実現したプロジェクトだった。こうした困難に立ち向かった人々の「宇宙へのこだわりの原点」は、幼い頃から星空を見上げ、宇宙に思いを馳せた「夢」であり、「ロマン」だった。番組では、関係者の情熱が生んだ日本が誇る巨大望遠鏡「すばる」建設のプロジェクトを紹介する。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 悪から金を取り戻せ豊田商事事件・中坊公平チームの闘い
    4.0
    3万人の老人から1200億円をだまし取った史上最悪の詐欺商法、豊田商事事件。 1985年、巨悪から奪われた金を取り返す史上例のない司法プロジェクトが結成された。  弁護士・中坊公平を中心に、千人の弁護士と司法関係者が関わったこのプロジェクトは、「詐欺事件の被害回復は不可能に近い」という常識を覆し、100億円を超える金の奪回に成功した。 番組は、関係者の詳細な証言をもとに、「日本の司法の奇跡」と呼ばれた豊田商事破産管財プロジェクトの知られざるドラマを2回シリーズで克明に描いていく。 前編はプロジェクトの誕生から挫折までの物語。  被害者からの訴えに立ち上がった若手弁護士たちは、「司法の良心」中坊公平を口説き落とし、プロジェクトを結成。金を取りもどすために、豊田商事を破産させ、その財産を徹底的に売却するという大胆な手に出る。しかし、集めた金の大半はすでに消え、回収は困難を極めた。  中坊は、豊田商事の向こう側に、さらに甘い汁を吸っていた「巨悪」がいたことに気づく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 白鷺舞え 空前の解体工事姫路城・定年前の大仕事
    5.0
    世界でも有数の巨大木造建築、国宝・姫路城。終戦後、倒壊寸前にまで荒廃していたこの城を救ったのは、昭和31年から8年間にわたって行われた解体修理である。高さ50メートルの天守閣をいったんバラバラに解体して、一から組み直す前代未聞の難工事となった。リーダーに指名されたのは、まじめ一途な文部技官・加藤得二。奈良で寺院の修復を手がけていた加藤にとって、姫路城は経験したこともない巨大建築物だった。ふるさとの城を救えと、地元の大工など100人が参加し、「播州一の宮大工」と謳われた和田通 夫が、棟梁を務めた。最大の問題は、城の要となる長さ25メートルの心柱(しんばしら)。大きく傾き、内部が腐っていた。代わりとなる、巨大なヒノキを求めて、加藤は日本中を歩き回る。巨木探しのさなかを襲った、思いがけない事故。プロジェクト最大の危機に、和田が発した起死回生の一言とは・・・誇りと技をかけて、天下の名城をよみがえらせるために闘った男達の壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 絶体絶命650人 決死の脱出劇土石流と戦った8時間
    4.0
    平成5年8月6日。鹿児島で未曾有の大災害が起きた。100年に一度といわれる集中豪雨で、48人が死亡した「8.6水害」である。この時、国道10号線と、JR日豊本線が崖崩れで寸断。渋滞中のドライバーと、列車の乗客あわせて650人が竜ヶ水駅前に取り残された。前は海、後ろは崖。逃げ場はなかった。 その中に、たまたま検問をしていた警察官がいた。有村新市(44)。4年前くも膜下出血で倒れて以来、交番勤務に移動となっていた。豪雨の中、立ちつくしていた人々は、制服姿の有村をみつけると、すがるように次々と集まってきた。有村は決死の避難誘導を決意する。同僚の前田とともにパニック寸前の人々と向き合った。しかし、再び土石流が襲いかかり、有村は海へ投げ出される。陸上に残された人々は土砂によって完全に逃げ場を失い絶体絶命の窮地に陥った。その時、思いがけない助っ人が現れた。 8時間に及ぶ奇跡の脱出作戦。その感動のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 巨大モグラ ドーバーを掘れ地下一筋・男たちは国境を越えた
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    1991年春、イギリスとフランスをつなぐ海底トンネル「ドーバー海峡鉄道トンネル」が貫通した。ヨーロッパを陸続きにする、ナポレオン以来の壮大な夢を実現させたのは、「鉄のモグラ」といわれる巨大なトンネル掘削機だった。最難関といわれたのはフランス側の海底部。軟弱な地盤と無数の断層、高い水圧の中、16キロを僅か3年で掘り抜くという前代未聞の計画だった。挑んだのは川崎重工の技術者。世界中で最も難しいといわれる日本の地下を掘りつづけてきた男達だった。リーダーの宇賀克夫は、100人の技術者を総動員して最先端技術を駆使したマシーンを完成させる。しかし海底での工事は想像をはるかに超えるものだった。チョーク層と呼ばれる独特な地盤との闘い。予期せぬカッターヘッドの亀裂事故。そして文化の違いから生まれるフランス人技術者との葛藤。メンバーは、不眠不休でマシーンの改良を重ね、フランス人に粘り強く技術指導を続ける。チームワークで「世界最強のモグラ」へと生まれ変わったマシンは、工期をはるかに上回る驚異的な速さでプロジェクトを成功へと導く。ヨーロッパの夢をかけた世紀の大工事を成し遂げた日本人技術者の意地と執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 逆転田舎工場世界を制すクオーツ・革命の腕時計
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    時を限りなく正確に刻む。そんな夢を叶えた時計がある。世界初のクオーツ腕時計。電気を流すと正確な振動を繰り返す水晶=クオーツクリスタルを使い、一日わずか0.2秒の誤差を実現した夢の時計である。昭和44年に発売されると、たちまち革命を引き起こし、今やクオーツは全世界の腕時計の98%を占めるまでになった。時計を作り上げたのは、故郷を再生しようと立ち上がった男たちだった。かつて製糸業で栄えた信州・諏訪湖一帯。ここで生まれた時計工場があった。「諏訪精工舎」。工場長は地元商店街の時計店店主だった山崎久夫。化学繊維の登場で壊滅的な打撃を受けた町を何とか蘇らせたいと時計作りを決意した。職を失っていた女工を雇い、ゼンマイ腕時計の生産を開始した。女工たちが繊細な指先で組み立てた時計はその正確さで評判となった。しかし、アメリカで全く新しい技術を使った電子時計が発売されると、圧倒的な正確さで、たちまち大ヒットした。同じ技術を使って開発しようにも、特許の厚い壁が立ちはだかった。窮地に追い込まれた山崎たちは、一つの技術に全てを賭けた。それまで、世界中の技術者が挑戦してもできなかったクオーツ腕時計の開発だった。開発は困難を極めた。当時、世界最小のクオーツ時計でもタンスより大きかった。超小型化と超省電力化が必要だった。しかも、全く耐震性がなかった。さらに世界の時計王国スイスがこぞってクオーツ腕時計の開発に乗り出した。それでも山崎はあきらめることなく全国の大学を回り、学生を口説き続けた。その熱意に打たれた若き技術者たちが諏訪に集い、奇跡の時計の開発に挑んでいく。故郷の復活に立ち上がった男と、その心意気に応えた若手技術者たちの、今に語り継がれる逆転のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ レーザー 光のメスで命を救え倒産工場と脳外科医
    -
    レーザー光線。その強力な出力から「殺人光線」と呼ばれた技術を医療に用い「神の指先」と言わしめたレーザーメスを開発した男たちがいた。立ち上がったのは脳外科医、滝澤利明。昭和40年代、脳外科では摘出困難な腫瘍や出血に悩まされ、余命宣告せざるを得ないこともしばしばだった。「レーザーを照射すれば正確に患部が切れ、しかも一瞬で血管が塞がり出血がない」ことを自ら動物実験で確認した滝澤は、小さな町工場とともに開発に乗り出した。町工場のメンバーは全員が手に火傷を負いながら開発に取り組んだ。しかし当時まるで「巨大な大砲」だったレーザー発射装置を手術室に出し入れできるほどコンパクトにし、直進するレーザー光線を医師の手元まで送り、自在に照射することは至難の業だった。しかも開発から3年後、町工場は倒産。技術者達は妻子を実家に帰し、債権者から身を隠しながら開発を続けた。昭和50年、様々な困難を乗り越え、ついにレーザーメスが完成した。残るは医療機器として当時の厚生省から認可を得るための臨床例が必要だった。昭和54年、滝澤は悪性の脳腫瘍を患い余命1年と宣告された8歳になる女の子の手術に成功。翌年、レーザーメスの製造が正式に認可された。一人でも多くの命を救いたいと願う脳外科医と町工場の技術者達の執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ リヒテルが愛した執念のピアノ
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    昭和44年。1台の日本製ピアノがヨーロッパ中の話題をさらった。美しい音色に、素晴らしい鍵盤のタッチ。18世紀イタリアで生まれ、「楽器の王様」と称されるピアノ。その300年のピアノの歴史に名を刻んだ、日本の職人たちの執念のドラマを描く。戦争の傷が未だ癒えない昭和25年。一台のコンサート用グランドピアノが、東京日比谷公会堂で発表された。作り上げたのは、浜松の楽器メーカー、ヤマハ。聴衆の期待は高まったが、結果 は、「タガのゆるんだ音」と酷評される。ピアノが誕生して以来、ピアノメーカーの雌雄を決する最高級のコンサートグランドピアノの分野は、欧米メーカーが圧倒的に優位 に立っていた。「日本人にピアノが作れるはずがない」とまで言われていた。15年後の昭和40年、ピアノ作りは大きな転機を迎える。名ピアニスト・ミケランジェリとともに来日していた、イタリア人調律師・タローネが、「東洋の日本で、これほどまでにピアノ作りに情熱を燃やしているとは」と、ピアノ作りに協力することを約束。これを機に、「もう一度世界一のピアノを目指す」プロジェクトが発足する。途方もない挑戦に燃える男たち。木工担当の鈴木辰次(36歳)は、親方田中喜三郎からたたき込まれてきた木工職人の技で、20トンに達する弦の張力に耐える強度を持ち、美しく鳴り響くピアノのボディを組み上げていく。さらに調律担当の村上輝久(37歳)は昭和41年、「理想の音」を探求するため、ヨーロッパに渡り、腕を磨いていく。昭和44年1月。完成したピアノを世界に知らしめる機会を得た。場所はイタリア・パドヴァ。演奏するのは、天才ピアニスト・リヒテル。ヤマハの技術者たちが、固唾をのんで見守る中、リヒテルは静かにピアノを弾きはじめた…。その結果は。新たな伝説の始まりだった…。西洋音楽の伝統に挑戦した、日本の職人たちの熱き戦いのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 爆発の嵐 スエズ運河を掘れ
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    地中海と紅海を結ぶスエズ運河。年間1万4千隻の船舶が通る、世界の海運の大動脈である。今から42年前、運河は時代に取り残されていた。10万トンを超える巨大タンカーが次々に建造される中、19世紀に作られた狭小な運河は5万トン以下の船しか通れなかった。1961(昭和36)年、エジプトの国家プロジェクトとして始まった運河の拡幅増深工事に挑んだのは、日本の海洋土木会社「水野組(現・五洋建設)」の技術者たちだった。工事の主役は「ポンプ船」と呼ばれる作業船。カッターで海中の土砂を削り、ポンプで吸い込んで地上に排出する。しかし、コンクリートの5倍も硬い岩盤の前に、カッターの刃先は2時間でボロボロ。1日3回交換に迫られ、作業は進まなかった。さらに狭い運河を通行する船団との衝突の危険が、プロジェクトを悩ませた。そして、1967(昭和42)年、第3次中東戦争が勃発。工事は中断を余儀なくされる。8年後、ようやく再開した工事にもう一つ難題が降りかかった。運河に残された大量の不発弾だった。ポンプ船の中で爆発、現場は騒然となった。プロジェクトの命運を賭け、日本人ダイバーらによる不発弾処理チームが組織された…。日本の海洋土木技術の威信をかけ、国際舞台に挑んだ男達の壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 地図のない国 執念の測量1500日
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    25年前、灼熱の大地アフリカで、日本人測量士が壮大なプロジェクトに挑んだ。「一国の地図をゼロから作る」。それは、4年に及ぶ、文字通り、命を賭けた壮絶な戦いだった。1950年代、次々と独立を果たしたアフリカ各国。そのなかでも最も熾烈な闘争を繰り広げた国があった。西アフリカ・ギニア共和国。「隷属による豊かさよりも、貧しさのなかの自由を選ぶ」。58年、宗主国フランスに対し一方的に独立を宣言。数百年に渡る植民地支配と決別した。しかし、フランスは反発。ギニアの公共施設を破壊し、国の重要資料のほとんどを本国に持ち去った。そのなかには、後の国づくりの要ともいえる「国土基本図(地図)」も含まれていた。地図がないため、ギニアの開発は行き詰った。道路、鉄道、農地…新たな国土開発の目処すら立たなかった。そして、まもなく世界最貧国に転落した。1977年、地球の裏側から救いの手が差し伸べられた。日本政府はODA(政府開発援助)としては異例の、総額10億円の予算を提供。ギニアの国土基本図作成に乗り出す。ベテラン測量士・本島建三(当時・52歳)を筆頭に、日本全国から腕利き測量士が集められた。しかし、その作業は困難を極めた。過酷な自然環境。摂氏40度を越す熱風が測量隊を襲った。さらに、ギニア人との深刻な文化の違い。男たちは絶体絶命の窮地に立たされた。「ギニアを豊かにしたい」という思いを胸に、アフリカの大地と格闘し、やがて現地の人々と心を通わせ一国の地図を完成させた測量士たちの冒険と挑戦のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 太平洋1万キロ 決死の海底ケーブル
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    国際電話、インターネット、双方向画像の高度医療。「海底ケーブル」は地球20周分にあたる総延長80万キロ、情報化社会を支える血脈である。1989年に開通した「TPC-3(第3次太平洋横断ケーブル)」は当時、世界最長の海底ケーブル。生まれたての技術「光通信」を駆使して、日本とアメリカ双方から敷設を開始。太平洋上でのドッキングに挑む前代未聞の巨大プロジェクトだった。ケーブルを引く敷設船「KDD丸」の乗組員は80人。リーダーはKDD(国際電信電話)の細谷辰雄だった。入社後、病に倒れたが不屈の精神で船に舞い戻ってきた。しかし、細谷達の前に黒潮が立ちはだかった。海底に数百メートルの誤差で敷設するためには黒潮の早さを計算し、緻密な操船、瞬時にケーブルを繰り出すタイミングが要求される。更に、海底には水深1万メートルの日本海溝が口をあける。ケーブルを襲う水圧は1トン。ガラス製の繊細な光ファイバーは水圧でズタズタになった。そして、サメがケーブルを襲うという驚愕の情報がプロジェクトを震え上がらせた。細谷たちはのべ134日の航海の末、ついに至難の敷設作業を達成。しかしメンバーたちを待っていたのは、アメリカ側担当の敷設船「ロングラインズ号」からの緊急連絡だった。「ケーブル損傷! 応援を頼む!」KDD丸は再び太平洋に舳先を向けた。情報の大動脈を築くため、洋上で自らの技術を尽くした男たちの知られざるドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 執念のテレビ 技術者魂30年の闘い
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    1953年(昭和28年)2月1日、日本初のテレビ本放送開始。その実現までには多くの技術者達の知られざるドラマがあった。本放送開始をさかのぼること約30年前の1926(大正15)年12月、世界を驚嘆させる実験が浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)で行われた。手書きの「イ」の字をブラウン管に映し出すというテレビ実験。成し遂げたのは若き教授、高柳健次郎(1899~1990)。全国放送という壮大な夢を持っていた。やがて高柳は、NHKに請われ、東京砧の放送技術研究所で、テレビ放送実現に向けて開発に邁進する。しかしその矢先、戦争が勃発。テレビ放送開発は中止、プロジェクトチームも解散を余儀なくされる。高柳は軍の命令でレーダー開発に従事することになった。そして終戦。「研究を再開できる」と喜ぶ高柳の元に、GHQから衝撃の報せが届く。「テレビ研究は電波兵器につながる。禁止だ」さらに高柳自身、戦争協力者だとして職を追われてしまう。日本のテレビ放送開始は遠のいたかに思えた。しかし高柳は諦めなかった。企業の壁を越えプロジェクト結成を呼びかけ、再び開発に乗り出すのだった…。テレビ本放送開始50周年記念番組として、テレビ誕生に関わった技術者達の物語を壮大なスケールで描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 海賊襲撃 マラッカ海峡の闘い
    5.0
    マレーシアとインドネシアを隔てる、マラッカ海峡。日本の貿易を支える海の大動脈である。全長1000キロの海峡は、大型船にとって、浅瀬が続く航行の難所。突然のスコールが視界を奪う。さらに、もう一つ恐ろしい敵が潜んでいる。海賊である。海賊は、漁船を装ってターゲットの船に近づき、隙をついて襲撃。時には、船をまるごと奪い、乗組員を殺害、貨物を転売する。マラッカ海峡は、世界一の海賊出没水域。魔の海峡と呼ばれる。1999(平成11)年10月。日本の貨物船アロンドラ・レインボー号が、インドネシア・スマトラ島で時価13億円のアルミ塊を積みこみ、マラッカ海峡にさしかかった時だった。海賊が、長刀と銃を振りかざし、乗り込んできた。船長の池野功とフィリピン人乗組員、計17人を縛り上げ、救命ボートに乗せて、大海に放り出した。「貨物船が消息を絶った」船会社からの通報を受け、海上保安庁と外務省が捜索に乗り出した。海上保安庁・救難課長の坂本茂宏は、巡視船「はやと」と哨戒機「ファルコン」を緊急出動させた。しかし、手がかりはつかめなかった。「海賊の仕業か。」皆、最悪の事態を思い、震撼した。マレーシアの日本大使館に出向中の、海上保安庁の技術者・楠勝浩が情報収集にかかった。楠はクアラルンプールにあるNGO「海賊情報センター」に協力を仰ぐ。沿岸諸国の港や漁業関係者に片っ端から網をかけた。しかし、舞い込む情報は、どれも偽物。海賊が捜索の攪乱を狙って流したものだった。捜索は、国境を越えた情報戦となった。日本人が巻き込まれた、初めての海賊事件。必死で捜索にあたった人々の、17日間のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 家電革命 トロンの衝撃
    3.0
    携帯電話、デジタルカメラ、カーナビゲーション。日本が世界をリードする多くの製品を動かす基本ソフトがある。トロン。世界で最も使われている基本ソフトの一つである。昭和59年、トロンを考案したのは一人の日本人学者だった。東京大学の坂村健。パソコンから家電まであらゆるもの動かせるよう設計した。「基本ソフトは情報化社会の基盤。空気や水と同じ」と考えた坂村は、トロンの仕様書をなんと全世界のメーカーに無料で公開。たちまち内外140社が集まりプロジェクトが結成された。大手メーカーは次々とトロンで動くパソコンを試作。誰でも簡単に使える分かり易さと軽快な動きで評判となった。しかし、平成元年、そこに超大国アメリカが立ちはだかった。日本に対し、小中学校で使うパソコンの規格をトロンに決めるなと迫ってきたのである。自動車やVTRで日本に圧倒され巨額の貿易赤字を抱えたアメリカは、輸入制限や報復関税の制裁措置をちらつかせていた。メーカーは次々とトロン・パソコンから撤退を余儀なくされた。まもなく世界市場を制したのはウィンドウズだった。パソコンの心臓部を握られた日本メーカーの利益率は低下し、基本ソフトを持たない弱さを痛感させられる。窮地に追い込まれたトロン・プロジェクト。しかし、坂村と技術者たちは諦めなかった。「もの作りには自由に改良できる自前の基本ソフトが欠かせない」と各地で技術者たちに訴え、トロンのバージョン・アップを重ねた。逆境の中で技術立国のもの作りの将来のために闘い続けるメンバーの情熱は、革命的な新商品との運命的な出会いを呼び込んでいく。日本発信の世界的基本ソフト・トロン。育て上げた男たちの執念の逆転劇を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 友の死を越えて青函トンネル・24年の大工事
    4.0
    24年におよぶ歴史的難工事の末、完成した「青函トンネル」。最初のパイロット坑である「先進導坑」を堀り抜いたのは、鉄建公団の若き技術者と、トンネル工事のプロ職人74人を中心としたプロジェクトだった。 複雑な地層を掘り進む海底掘削工事は、出水との戦いであった。プロジェクトは、試行錯誤の末、岩盤に細かな注入穴を空け、高圧で特殊なセメントを流し込み地層を固めて掘り進むという新技術を開発する。 しかし難工事のなかで死亡事故が続発。昭和44年には大規模な出水事故に見舞われもした。この事故を全員で乗りきったことが、その後の出水対策を飛躍的に進歩させる原動力となる。 昭和58年、仲間の遺影が見守るなか、先進導坑貫通の瞬間を迎えた。青函トンネルに人生を賭けたトンネルマン達の苦闘と情熱を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 窓際族が世界規格を作ったVHS・執念の逆転劇
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    日本人が初めて生み出した世界規格「VHS」。その快挙は、当時、弱小といわれていた家電メーカーの窓際技術者たちの「意地」の成果 だった。 昭和45年、業界8位だった日本ビクターは、当時、脚光をあびつつあったビデオ事業に乗り出したが、赤字続きだった。「1年やればクビがとぶ」とも言われた事業部長に任ぜられたのは高野鎮雄氏(47歳)。しかし高野氏は夢を捨てず、わずか3人の技術者で極秘プロジェクトを結成、本社には一切報告せずに”新型ビデオ”の開発を続けた。 そうして6年の努力の末に完成させた「VHS」の技術を、高野氏は国内外のメーカーに惜しげもなく公開する。その自社の利益を度外視した戦略が、VHSを世界規格に押し上げて行った。 短期利益を重視せざるを得ない会社の壁と闘い続け、欧米を追い越す夢を実現させた「VHS開発プロジェクト」の執念を追う。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 世界を驚かせた一台の車名社長と闘った若手社員たち
    4.0
    アメリカの「マスキー法」に定められた厳しい排ガス規制を初めてクリアし、世界をアッといわせたホンダの「CVCCエンジン」。驚異的な低公害エンジン誕生の陰には、社長・本田宗一郎氏と若き技術者たちの激しい格闘の物語があった。昭和44年、人気車種に欠陥が見つかったことから、会社存亡の危機に立たされたホンダは、20代の技術者を中心に”低公害エンジンプロジェクト”を立ち上げる。先発大企業の技術の「改良」を試みる若手に対し、独自技術の開発にこだわる社長・本田宗一郎氏。4年後、プロジェクトは、F1レースで培ってきた「ガソリンを徹底的に燃焼させる」技術を一般 エンジンに持ち込み、全く新しい方法で低公害化を実現する。「これで世界一の自動車会社になる」と喜ぶ社長に、若手は「私たちは社会のためにやっているのだ」と反発した。この言葉を聞いた本田宗一郎氏は「自分の時代は終わった」と、まもなく社長の座を降りる。試行錯誤のエンジン開発の陰で繰り広げられた、名社長と若手技術者たちの世代を越えた心の交流を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 妻へ贈ったダイニングキッチン勝負は一坪・住宅革命の秘密
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    「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年は、東京への一極集中が始まった年だった。年間30万人ずつ膨れ上がる東京の人口。国は日本住宅公団を設立し、住まいの大量供給に乗り出したが、住宅一戸当たりの建設費はおよそ70万円、床面積は13坪がギリギリであった。 「狭いながらも楽しい我が家」は造れないだろうか…。男女3人の建築家が、1センチもおろそかにせずにすむ設計に取りくむことになった。公団の初代住宅計画部課長・尚明(しょう・あきら)氏は、沖縄・琉球王朝の流れをくむ名家に育ったが、戦災で家を失い、バラック住宅での生活を続けており、北側の寒い台所で震えなから炊事をする妻・道子さんの姿を見て、南側にキッチンを作るアイデアを提案。さらに残業や早朝出勤をする都会生活者の暮らしを研究する中で、台所に椅子とテーブルで食事を取るスペースを付けたダイニングキッチンの構想が固まっていった。 都会暮らしの憩いの場として、家庭の主婦が働きやすい空間として生み出された「ダイニングキッチン」。宝くじに当たるより難しいといわれ、人気を集めた「ステンレス流し付き公団住宅」のプロジェクトと、その背景にあった夫婦愛の物語を伝える。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 巨大台風から日本を守れ富士山頂・男たちは命をかけた
    -
    20世紀を変えた電気通信技術に贈られる技術界のノーベル賞「IEEE賞」。2000年の受賞は、日本が生んだ世界最大の気象レーダー「富士山レーダー」に決まった。 日本列島を台風から守るため、富士山頂に建設された巨大レーダーは、あらゆる意味で常識破りなプロジェクトによる産物だった。入札制度を無視して強行された「気象庁の官民プロジェクト」結成、標高3700mという史上例のない高地での大規模土木工事。そして、乱気流が渦巻く世界有数の危険空域・富士山頂への“巨大レーダー”空輸など。 昭和39年8月15日、元ゼロ戦パイロットが熟練の操縦技術でヘリコプターを操り、620kgにおよぶ巨大レーダーを富士山頂に送り届けることに成功。世界最大の気象レーダー建設に情熱を傾けた、官民プロジェクトの「不可能」への挑戦を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 ガンを探し出せ 完全国産・胃カメラ開発
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    人間の体内をのぞき、ガンを早期発見したい…。医学界、積年の夢を世界に先がけて実現したのは、30代の若き日本人医師と技術者によるタッグ・チームだった。 昭和24年、東京大学附属病院の副手だった宇治達郎氏(30歳)は、死因の上位 を占める胃ガンを早期発見するため、わずか直径12ミリのカメラの開発をオリンパス光学に持ちかけた。欧米でも不可能と思われていた超小型カメラの開発――宇治医師と技術者は、常識を超えた発想で難問に挑んでいった。 レンズは顕微鏡磨きの名人に依頼、フィルムは市販の35ミリを6ミリ幅に切って利用。そして、何よりも一番難しかったのは、5ミリの電球だった。職人が何度も改良を繰り返し、ようやく完成した。 敗戦間もない日本で、斬新な発想と、何にでも挑戦しようとする町工場との連携を武器に、世界が称賛する「胃カメラ」を完成させた男たちの熱気を伝える。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 戦場にかけろ 日本橋 カンボジア・技術者と兵士の闘い
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    カンボジアの首都プノンペンに、人々からこよなく愛されている一つの巨大な橋がある。  通称、日本橋。1994年、日本の援助で作られたこの橋の完成で、ずたずたになっていたカンボジアの大動脈が復活、地元の人々にこれほど喜ばれた支援はないといわれる。 湾岸戦争の際、国際貢献の拙さで、非難の集中砲火を浴びた日本が、その汚名をすすぐために、全力を注いだカンボジアの復興支援。その最初のプロジェクトが、日本橋の建設だった。 日本の名誉を回復するため、命を賭けて戦場に巨大な橋を作った日本人技術者たちの知られざるドラマ。  大河の中に橋脚を築くために、戦火の続くカンボジアに乗り込んだ大林組の技術者の苦闘。 仕事を引きうけたのは、アジアの途上国ばかりを回ってきた技術者、40歳の田辺勝義だった。しかし、勇躍乗り込んだカンボジアは、銃声が響く、本物の戦場。内戦で技術者は殺され、作業員すらいなかった。 そこに、雇って欲しいとやってきたのが、元工兵部隊の兵士たち。壊すことには長けていても、ものを「作る」ことを知らないカンボジア兵士に、田辺は一から技術を教え始める。  文化の違いから、頻発する衝突。深まる亀裂。かつて難民として日本に逃れたカンボジア人通訳が懸命に溝を埋めようと走り回り、両者は次第に心を許しあうようになる。しかし、その途上、ポルポト派による、日本橋への攻撃予告が流れた。戦火が迫り、プロジェクトは中止の危機に立つ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 命の水 暴れ川を制圧せよ 日本最大 愛知用水・13年のドラマ
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    昭和36年、木曽川の上流から知多半島の突端まで、120キロの田畑を水が潤していった。構想から13年、総工費423億円の「愛知用水」。長年、干ばつに苦しめられてきた農民達の執念が、日本初の巨大プロジェクトを動かした。 大きな川のない知多半島。雨水を溜めた池が農民達の生活を支えていた。農家の5男に生まれた濱島辰雄。幼い頃、「池番」という見張り役を一日中続けた。池の水を引く順番は厳しく決められ、例え親戚 であっても一滴も渡せなかった。 昭和22年、大干ばつが襲った。その時、農家の久野庄太郎は、木曽川から水を引くことを思い立つ。それを新聞で知った濱島。久野の元に駆けつけ、運命の出会いを果 たす。 久野と共に、ルート作成のため半島全土を歩き、緻密な測量を行った。3ヶ月後、愛知用水の計画図が完成。半島1市25町村の代表が集まり、昭和23年「愛知用水期成会」が結成された。 濱島は高校教師を辞め、末端水路の整備にかけた。久野は親から受け継いだ田畑を全て売り払い活動費にあてた。 最初の課題は莫大な建設費。二人は首相、吉田茂に直談判。国の協力を取り付けた。 昭和32年、工事が始まった。最難関は水源となるダムの建設だった。基礎工事の最中に火山性の有毒ガスが噴出。土砂崩れや落盤など、死傷者が続出した。 「自分達が用水を望まねば、こんなことにはならなかった」 濱島と久野の2人は断腸の思いだった。犠牲者の冥福を祈り続けた。 昭和36年、壮絶な工事が終わりダムと水路が完成。9月30日、愛知用水への放水が始まった。知多半島突端の村では、住民総出で水を迎え、神棚に水を供えた。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 東京ドーム 奇跡のエアー作戦
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    昭和63年3月。日本初の屋根付き球場・東京ドームが誕生した。雨天中止がなくなったプロ野球、夢の球場に日本中が驚いた。可能にしたのは、テフロンで強化した布製の膜材を屋根に使う「膜構造建築」技術。その陰には、テント一筋に生きてきた技術者達の意地をかけた壮絶な物語があった。  昭和45年の大阪万博で、最も注目を集めた建物があった。世界初のエアドーム「アメリカ館」だった。柱を使わず、空気圧だけで膜屋根を支える。工期が短く、コストも安い。手がけたのは、戦後ミシン一台で出発したテント会社・太陽工業の技術者たちだった。しかし、万博終了後「アメリカ館」は、あえなく燃やされた。当時の建築基準法では、膜屋根は「仮設」扱い。恒久建築物には使えなかった。「所詮、俺たちはテント屋か。」技術者たちは辛酸をなめた。  それから10年。「テント屋」達に再びチャンスが巡ってきた。プロ野球の檜舞台・後楽園球場に代わる、屋根付き球場建設計画が持ち上がったのである。オイルショックによる不況、スター選手の引退。新球場は、低迷する興行成績の挽回策だった。  全体施工を担当する竹中工務店と、太陽工業とのプロジェクトが出来た。法律の壁を突破するため、実験棟を建て、台風の中、安全性を証明するデータを採った。建設省に日参し、やっと建築許可を得たものの、今度は近隣の日照権問題が発生。やむなく屋根を北側に傾斜させる前代未聞の設計となった。一枚一枚異なる布の強度。膜を支えるケーブルの微妙な張り具合。傾斜屋根は、さらに作業を複雑で困難なものにした。  そして迎えた「インフレート(空気圧で屋根を押し上げる最後の作業)」の日。一つ間違えばケーブルが大きく跳ね、膜を破ってしまう。メンバーは、厚さ0.8ミリの膜屋根の上に乗り、命がけで作業に当たった。  今や、全天候型スポーツ施設として、日本中に普及した膜構造建築。そのさきがけとなった東京ドーム誕生に賭けた人々の熱いドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 桜ロード 巨木輸送作戦
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    昭和35年、奥飛騨山中で敢行された大木の移植工事に世界中の植物学者の注目が集まった。大木はエドヒガン。繊細で幹が傷ついただけで枯れてしまう老桜。その移植は世界でも例がなかった。「絶対不可能」と囁かれた世紀の工事をやり遂げたのはダムに沈む村を思う男たちの執念だった。 合掌造りで名高い白川郷の近隣、岐阜県荘川村に、かつてその桜はあった。樹齢400年、高さ20メートルの大木。春は村人総出の花見。子供たちは桜吹雪の中で 入学式を迎えた。しかし、42年前、衝撃的な知らせが飛び込んできた。ダムの建設が決定。村は水底に沈むことになったのである。村人たちは桜の木にすがって泣いた。しかし一人あきらめられない男がいた。 高碕達之助。ダムの開発責任者。かつて満州で事業を立ち上げた高碕は敗戦で従業員の故郷を喪失させたと14年にわたり苦しみ続けていた。高碕は桜を見上げる村人を見て思った。「桜を別の場所に移して故郷を残したい」しかし専門家は冷ややかだった。「桜切る馬鹿。梅切らぬ馬鹿」桜の老木は少しでも 根や枝を傷つけただけで枯れる。移植に耐えられるはずがない、というのである。 その時、意外な助っ人が現れた。豊橋の植木職人・丹羽政光(にわまさみつ)。丹羽は弟子の植木職人たちと前代未聞の「桜移植プロジェクト」を立ち上げる。ダムに水をため始めた昭和35年11月15日、世紀の移植工事が始まった。移植先は600メートル離れた国道沿い。運搬はダム工事で使われていた最新鋭のブルドーザー。植木職人、ダム従業員総出の作業が続いた。 日本人にとって特別な花「桜」の移植工事を成し遂げた人々の奇跡の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ  男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける
    5.0
    不況の中、猛烈な勢いで売り上げを伸ばしている商品がある。デジタルカメラ。通称デジカメ。フイルムも現像も必要なし。撮ったその場ですぐに見られ、インターネットで瞬時に遠く離れた場所に送ることができる夢のカメラである。 1995年、世界で初めてデジカメを大ヒットさせたのは、カシオ計算機の末高弘之率いる若き技術者たち。1987年、最初の製品を発売。しかし、動画の撮れるカメラが流行し始めたため、全く売れなかった。残された大量の在庫と赤字。プロジェクトは解散となり、末高たちも商品に直結しない基礎研究部門に異動となった。 当時はバブルの絶頂期。楽に一攫千金できる財テクがブームとなり、地道な物作りは時代遅れと言われた。理工系の学生が給料の高い金融機関に流れるメーカー離れ現象が発生。製造業は取り残された。 そんななか末高たちは会社トップに秘密のプロジェクトを結成し、ひたむきにデジタルカメラ開発を続ける。しかし、できた試作品は重さ3キロ、特大の弁当箱並み。商品化にはほど遠かった。 苦境を乗り越えるバネになったのは、戦後の日本を支えてきた物作りへの熱い思いだった。地道な開発努力はやがて小型化に結実。パソコン時代到来を見事に読み、大ヒットへとつなげていく。 バブルに翻弄されながら、物作りの夢をあきらめず、デジカメ開発を続けた若者たちの10年におよぶ執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ  家電元年 最強営業マン立つ 勝負は洗濯機
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    昭和28年。日本人の暮らしを大きく変える製品が現れた。 日本初の噴流式洗濯機「SW53」である。頑固な汚れを7分で落とす性能。狭い日本の住宅に適したコンパクトなボディ。価格は従来の外国製洗濯機の半分。家電製品としては初めて、年間6万台を売り上げる大ヒット商品となり、家電時代の扉を開けた。 挑んだのは、三洋電機社長の井植歳男。井植は、14歳から義理の兄・松下幸之助が始めた松下電器を手伝い、大きく成長させた辣腕営業マンだった。しかし、終戦後、GHQの公職追放令で、松下を辞めた。人柄を慕う20人の部下と、自転車の発電ランプを手がける小さな会社「三洋電機」を作った。 井植には、一つの思いがあった。「家電の時代が必ず来る。その第一歩が洗濯機だ。」 当時、女性にとって洗濯は最も過酷な家事だった。道具はたらいと洗濯板だけ。一日数時間かかる過酷な手作業。5人家族で1年間に洗う洗濯物の重さは、象一頭分になった。電気洗濯機は、庶民には高嶺の花だった。 井植は琵琶湖の畔の古びた工場を買い取った。そこは、業績不振で閉鎖された元・松下金属の工場。後片づけをしていた若い技術者がいた。山下友一、27歳だった。山下たち6人の社員は、井植から電気洗濯機の開発を命じられた。 大手メーカー各社も開発にしのぎを削る中、井植は言った。「ライバルは同業他社ではない。お客の心である。」メンバーは、高性能で安価、電力事情の悪い日本の家庭でも使える洗濯機の開発をめざす。新婚の山下は、洗濯で荒れた妻の手を見て奮起した。 しかし、やっと作り上げた洗濯機は売れなかった。世間は「女性の家事に機械はいらない」とあざ笑った。「男性中心」の社会の意識が壁になっていた。その時、「伝説の営業マン」井植が、あの手この手の営業作戦に打って出た。 「お客の心」にこだわり、日本の家電時代を切り開いた男達の熱きドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 魔法のラーメン 82億食の奇跡 カップめん・どん底からの逆転劇
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    昭和46年。20世紀の食生活を劇的に変えた一つの食品が登場した。お湯を注いで3分、いつでもどこでも食べられる「魔法のラーメン」、カップめんである。高度経済成長のもと、寸暇を惜しんで働く日本人の胃袋を満たしただけでなく、世界中の飢餓や災害の現場に欠かせない貴重な食料となった。年間消費量は世界で82億食。メイドインジャパンの代表格である。 開発したのは、日清食品の若手技術者たち。当時、会社は「ラーメン戦争」と呼ばれる他社との熾烈な価格競争で業績が悪化していた。社長の思いがけない発想をもとに、自らの命運をかけたカップめん開発が始まる。 開発は困難を極めた。カップの形に合わせためんは、中まで火が通らない。一日20回にも及ぶ試食で、メンバーの体重は10キロも減った。ようやく作った試作品も、問屋から「食べ物ではない」と拒絶された。 逆境の中、食品加工技術の限界に挑んだ若者とアイデア社長の熱き闘いを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 謎のマスク 三億円犯人を追え 鑑識課指紋係・執念の大捜査
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    警察の信頼を揺るがせた東芝府中三億円強奪事件。それから18年後、再び起きた三億円事件に、鑑識課指紋係の男達が立ち上がった。昭和43年12月10日、府中市で三億円強奪事件が発生。鑑識課に配属されたばかりの塚本宇兵は、うんざりしながら指紋採取にあたっていた。その頃は物証よりも、自供に頼る捜査が優先。現場に入るのは捜査一課が一番、指紋係はニの次だった。警視庁はのべ17万人を越える捜査員を投入。しかし犯人はつかまらなかった。そして昭和50年、時効を迎えた。昭和61年11月25日、有楽町で悪夢がよみがえった。3億3千万円が4人組の男に強奪された。その時、塚本は鑑識課のキャップになっていた。捜査一課の指揮官は塚本の3つ先輩の緒方保範。最初に配属された派出所で共に「腕利きの刑事になろう」と熱く語った仲だった。その後、緒方は捜査一課のエースに。塚本は夢敗れ鑑識課に。「どっちが早く犯人をあげるか」因縁の勝負が始まった。緒方は遺留品を徹底的にあらい犯人の足取りを追う。塚本は500万件を越える膨大な指紋との照合を進めていく。長引く捜査に世間からは非難にさらされた。そして妹の死。苦難の末、浮かび上がったのは意外な犯人像だった。日の当たらない鑑識という仕事に誇りをかけ、リベンジを果たした男達のドラマ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人 商店主と塔博士の挑戦
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    大阪のシンボル、通天閣。戦時中に一度焼失したこの塔を、昭和31年に再建したのは、行政でも企業でもなく、古着屋、写真屋、ウナギ屋など、地元・新世界の商店主たちだった。 戦後、焼け野原だった大阪・新世界に、闇市が生まれた。集まったのは、裸一貫同然の男たち。意地としたたかさだけで、焼け跡を生き抜いていた。 復員して麻雀屋を始めた知里正雄。父の末吉から「焼失した通天閣を再建したい」と、夢を託された。明治45年に「東洋一のタワー」として建設された通 天閣の再建は、新世界の復興をかけた人々の願いだった。 末吉が作らせた原図をもとに、7人の商店主が立ち上がった。その挑戦は、素人ならではの大胆なもの。公園を勝手に用地に選び、口八丁で市の許可をとった。設計者には、日本一の大御所・内藤多仲を口説いた。「もし再建できたらうどんで首をつったる」とあざ笑う街の人々を説得し、資金を集めた。 焼け跡から立ち上がった庶民が、行政、専門家を巻き込み、後に大阪のシンボルとなる一本の塔を建てるまでの、意地と執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 医師たちは走った 医療革命 集団検診
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    昭和34年、信州の人口6000人の小さな村・八千穂村で、日本の医療を変えた画期的な試みが始まった。全住民を対象にした「集団検診」である。 高度成長に向かう日本の中で、農村医療は取り残されていた。過酷な暮らしで、脳卒中や結核が絶えなかった山間の村々。しかし、現金収入のない農民たちは「病気は恥だ」と我慢した。医者にかかるのは手遅れになってから。死亡診断書を書いてもらうためだった。 「農民たちを救いたい。」立ち上がった一人の医師がいた。佐久病院院長・若月俊一。信州の赤ひげと呼ばれた男だった。新米医師や看護婦、そして村人の代表も集まった。 「手遅れの患者を減らすには、病気を未然に防ぐことが必要だ。」若月たちが始めたのは、前代未聞の「全村集団検診」。農閑期の冬、医師たちは集落の公民館を回った。 しかし、幾多の困難が待ち受けていた。問診で衣食住を聞かれることに、村人は抵抗した。村議会でも不要論が出た。医師たちは、皆に足を運んでもらえるよう、手作りの芝居を上演した。検診会場で高血圧を減らすための味噌汁も作って見せた。 やがて集団検診がきっかけで、一人の糖尿病の男性の命が救われ、人々の見る目が変わった。昭和41年、ついに八千穂村の一人あたりの医療費は全国平均を大きく下回った。集団検診はその後全国に広まってゆく。 医師たちの熱い思いと、農民たちとの交流を通して、農村医療の基礎を作った姿を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 アンコールワットに誓う 師弟の絆
    5.0
    10年に及ぶ内戦が続いたカンボジア。世界遺産アンコールワットは、無残に破壊、放置された。35人いた遺跡保存官はポルポト派によって虐殺され、生き残ったのはわずか3人だった。アジアの宝は崩壊を待つばかりだった。 「亡くなった友のために、そして民族の誇りを取り戻すために、アンコールワットを修復したい。」生き残った保存官の一人、ピッ・ケオさんは、助けを日本の友に求めた。その男は戦前、カンボジアの技術者と共に、アンコールで修復に汗を流した鹿児島大学の教授(現上智大)・石澤良昭だった。 「金だけの支援はしない。一から修復技術者を育て、彼らの手でアンコールワットを蘇らせる。」石澤は、アンコール遺跡国際調査団を組織し、「石の心を読む」といわれたベテラン石職人、小杉孝行の協力を得てカンボジアへ渡った。 集まった現地の若者は20人。しかし修復への道のりは、困難を極めた。「伝統的な石職人の技を全て伝えたい。」小杉は、日本と同様、厳しい修行を始めた。しかし、生活のためと割り切って働くカンボジアの若者達に、職人の心は伝わらなかった。重い石に負けない体力を付けさせようと米や肉を持たせても、家族に食べさせてしまう貧しさが立ちはだかった。「一人前の石職人になって欲しい。」時には、手が出るほどの厳しさに耐えられず、辞めていく者が相次いだ。「アンコールワットを作り上げた君たちの祖先の仕事はいかにすごいか。」団長の石澤は、歴史を知らない若者達に必死に説き、懸命に皆をまとめた。 7年に及ぶ修行期間が終わり、今年ようやく本格的な修復作業に入ったアンコールワットの西参道。日本人とカンボジア人が、激しくぶつかり合う中で心を通わせ、一人前の石職人が誕生するまでのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 8ミリの悪魔VS特命班 最強の害虫・野菜が危ない
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    昭和47年、日本への復帰に沸く沖縄で、人々を震撼させる出来事が起きた。東南アジアから恐るべき害虫が飛来したのである。 「ウリミバエ」。体長わずか8ミリのこの虫は、カボチャ、ピーマンなどの野菜に寄生し卵を産み付ける。野菜には瞬く間にウジが沸き、腐ってしまう。世界各地で猛威を震い恐れられていた、史上最悪の害虫「8ミリの悪魔」だった。 天敵のいない沖縄の島々で、ウリミバエは大繁殖。次第に北上した。もし、本土に上陸すれば、日本の野菜全体が壊滅的な被害を受ける。日本政府は「植物防疫法」により、沖縄県からの野菜の持ち出しを厳禁した。  「沖縄全域からウリミバエを根絶しよう」沖縄県農業試験場の研究者を中心に、プロ ジェ クトチームが結成された。リーダーは与儀喜雄。農家の息子の植物防疫官だった。農家の苦しみを目の当たりにしてきた男の、必死の根絶作戦が始まった。しかし、農薬を持ってしても根絶出来ない最強の害虫を前に、プロジェクトは行き詰まった。ウリミバエは沖縄本島を席巻し、九州上陸は時間の問題となった。 「沖縄でウリミバエをくい止めろ」政府は、ウリミバエ根絶のため、思いも寄らぬ 方法を沖縄県に提案した。それは、放射線「コバルト60」をハエに照射して、生殖細胞を破壊。繁殖力を失ったハエを増殖させることで、何十年もかけて撲滅するという、気の遠くなるような作戦だった。 全てが手探りの中、沖縄の男たちと虫との壮絶な戦いが始まった。作戦が始まって 一年、二年と過ぎる中、ハエが減り始めた。 「これで、ついに撲滅出来る」プロジェクトが、そう確信した時、その行く手に、とんでもない壁が立ちはだかった。それは、沖縄在留アメリカ軍基地。「内なる国境」だった。 21年に渡る闘いの末、ウリミバエの根絶に成功。日本の食糧を守り抜いた沖縄の男たちのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 料理人たち 炎の東京オリンピック
    5.0
    昭和34年、東京オリンピックの開催決定に日本中が沸いていた。しかし、大きな問題が起きていた。選手村の食事作りである。世界90カ国以上の国々から集まる選手たち。その数、実に7000人。世界中の料理、2千種類、延べ60万食という、空前の規模の食事を作らなくてはならなかった。しかし、当時、日本の料理界の力は世界に未知数。世界各国から不安の声が挙がった。 料理作りに挑んだのが、帝国ホテルの料理人、村上信夫をリーダーとする一流ホテルのシェフたちだった。戦前から厳しい料理修行を積み、パリにも留学、最高のフランス料理を極めようとしていた村上。このプロジェクトに、料理人の誇りをかけて挑むことになった。 村上らは、世界各国の料理メニューを作るべく奮闘する。問題は、知識の全くない、アジア・アフリカ・中南米などの料理。村上は、在日大使館に赴き、大使の妻などに、料理法を学び続けた。更に大きな問題が立ちはだかった。膨大な量となる食材の確保である。唯一の対策方法は冷凍食材を使うこと。しかし、当時の料理界の常識は「冷凍食材は味が落ちる」。村上たちは、冷凍食材をものにしようと、懸命な努力を続ける。 そしてオリンピックの開幕。膨大な食事を作るため、村上の元に、300人の若手料理人が全国から集められる。街の大衆食堂からやってきた者もいた。北海道からは23人の若者が集まった。札幌、釧路、稚内などからやってきた彼らは、「ふるさとの代表として恥ずかしくない仕事をしよう」と誓い合う。 しかし、その時、各国選手団が連れてきた自国のエリートシェフたちが厨房に登場。更に、オリンピック開催中、料理人たちの身に、事件が襲いかかる。果たして、日本人料理人の食事を世界の選手は満足してくれるのか。東京オリンピックを支えた料理人たちの、知られざる料理作りを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 赤いメロン 北の大地の20年戦争
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    北海道夕張市。農協の耐火金庫に、大切に保管されているものがある。メロンの種である。品種名「夕張キング」。美しいネット、甘く香り高い、赤い果肉。夕張のメロンは、今や高級ブランドの代名詞である。その誕生の裏には、地域の生き残りをかけた農家の壮絶な格闘があった。 昭和25年、夕張は燃えていた。朝鮮戦争の特需をうけ、第2次石炭ブームに沸いていた。人口10万人、町には人があふれ、豊かな町の中心部は、夜でも明かりが消えることはなかった。一方、中心街から10キロ離れた沼ノ沢地区。農家は貧しさの極致にあった。周囲を夕張山系に囲まれた盆地で、寒暖の差が激しい。さらにやせた火山灰の土。穫れる作物は、長いも、アスパラとわずかな夏野菜だけだった。 このままでは夕張の農家は全滅する。その時、農業改良普及員の杉目直行が言った。「メロンはどうか」。夕張でわずかに生産されていたスパイシー・カンタローブ。香りがよく、赤肉が特徴のメロンだった。しかし甘みがなく、砂糖をかけて食べなければならない代物だった。「これを改良して、新たな品種を作れないか」昭和35年、17戸の農家が立ち上がった。 農家の豊田祐一たちは、交配するための種子を求め、全国を飛び回った。他のメロン産地の農家に土下座して、やっと手に入れた別品種と交配。しかし、栽培は困難を極めた。季節はずれの大雪に、突風。ビニルハウスを壊した。温度管理を間違うと、たちまち枯れた。農家はハウスに寝泊まりし、苗を見守り続けた。 昭和45年、やっと育て上げたメロンを東京市場に出荷。しかし重大な問題があった。赤肉のメロンに、市場関係者は言い放った。「こんなカボチャメロンは売れない」。さらにメロンは、日持ちしなかった。東京に着いたコンテナから出されたメロンは、腐っていた。トラック、鉄道、空輸。あの手この手の輸送作戦を試みた。そして昭和54年、産地直送システムを確立。夕張のメロンは全国の家庭で味わえるようになった。 徹底した品質管理と「産地直送」の先駆けとなった農業技術。地域の存亡をかけてメロン作りに執念を燃やした農民たちのプロジェクトを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 勝負の警備システム 作動せよ
    4.0
    安全神話が崩壊しつつある日本で、なくてはならない警備産業。市場規模は年間2兆4千億円。約1万社が参入し、40万人の雇用を生んでいる。初めて警備会社が産声を上げたのは、今から40年前。「水と安全はタダ」といわれる中で新たな市場を築くには、若者達の知られざる格闘があった。 昭和36年。酒屋の倉庫で在庫整理に追われる若者がいた。飯田亮、28歳。東京・日本橋の酒屋の五男坊。大学卒業後、老舗を手伝っていたが、仕事は全て兄たちに指図された。大学時代の親友の戸田寿一と酒をくすねては我が身を憂いていた。当時、商店や企業を狙った窃盗が横行。「プロの警備員を養成すればビジネスになる」飯田は、戸田と2人で日本初の警備会社「日本警備保障(現セコム)」を立ち上げる。 しかし、拳銃も逮捕権も無い。許されたのは警棒だけ。「お前達に何が出来る」仕事は取れなかった。転機が訪れたのは、昭和39年の東京オリンピック。選手村の建設現場の警備を依頼された。会社がモデルとなった「ザ・ガードマン」というドラマが大人気。仕事の依頼が殺到し、会社は急成長した。その時、とんでもない事件が起きた。なんとガードマンがデパートを巡回中、600万円の宝石を盗んだ。 会社の信用は地に落ちた。飯田と戸田はガードマンの行動マニュアルを作り、徹底的に研修を実施。更に警備の信頼度を上げようと、社運をかけ日本初の機械警備システムを作り上げた。契約先のドアや窓に取りつけたセンサーが異常を感知すると、管制センターに通報。ガードマンが急行する仕組みだった。しかし、誤報が相次ぎ、ほとんど普及しなかった。 昭和43年10月、衝撃的なニュースが伝わった。東京のホテルで、他社のガードマンがピストルで射殺された。更に、京都でも警備中のガードマンが殺された。そして翌年4月深夜、機械警備システムを導入していた新宿の専門学校からの警報が発せられた。駆けつけたのは新人ガードマンの中谷利美。そこに、あの連続殺人犯がいた・・・ 新しいビジネスを切り開き、命がけで犯罪に立ち向かった男達の熱きドラマ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 救命救急 ER誕生 日本初 衝撃の最前線
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    昭和41年、大阪は万博開催を4年後に控え、道路が拡張。事故の発生率が全国一となり「交通戦争」と呼ばれた。しかし、重症患者を治療できる病院は少なく「たらい回し」が社会問題となった。 大阪府は大阪大学付属病院に24時間重症患者を受け入れる施設の設置を要請。昭和42年8月、日本初の「特殊救急部」が誕生した。リーダーは、34歳の杉本侃(つよし)。メンバーは皆20代から30代若者だった。 第一号の患者は、入れ墨の男。抗争事件で腹を刺されていた。「人殺しを助けるのか」と学内から揶揄(やゆ)された。患者の多くは「指を切った」「目にゴミが入った」など軽傷者。メンバーの気持ちはなえていく。 ある日、交通事故で全身傷だらけになった「多発外傷」の患者が訪れる。メンバーは頭や内臓など懸命に処置。しかし、全く傷のない肺の機能が低下し、患者は亡くなった。理由が分からなかった。以来「多発外傷」との闘いが始まる。 血の海、緊迫した声が飛び交う医療の最前線。修羅場の中で、若き医師達は次第に自分の専門分野を磨いていく。そして、再び「多発外傷」の患者が運び込まれて来た。杉本以下、メンバーは総力を挙げ、消えゆく患者の命と向きあった。そして運命の一瞬。 日本初の救急医療に挑んだ若き医師達の壮絶な闘いのドラマ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 革命トイレ 市場を制す
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    今や日本のトイレのほぼ2軒に1軒の割合で設置されている「温水洗浄便座」。心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす。古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。清潔志向の高まりから、不況の中でも売り上げを伸ばすヒット商品でもある。その開発の影には、ひたむきにトイレと向き合い続けた技術者たちの姿があった。 昭和36年、北九州の街に降り立った男がいた。本村久。早稲田大学理工学部を卒業、就職したのは東洋陶器(現TOTO)。戦前から続く国内最大手のトイレメーカーだった。 折からの建築ブームの波に乗る住宅産業界。しかし、当時、まだ下水道整備が行き届いていない日本のトイレは「不浄なもの」の代名詞。水洗トイレの金具を設計する部署に配属された本村も、その技術を甘く見ていた。 しかしある日、本村は上司から一喝される。「トイレは人々の暮らしを豊かにする商品だ。ひとつひとつの商品に魂を打ち込め」。金具の鬼と言われた杉原との出会いによって、本村は技術者の誇りに目覚める。 その矢先だった。二度のオイルショックの波が会社に襲いかかる。「新しい柱となる商品を開発せよ」。本村たち若手技術者に社運を賭けた指令が下る。任されたのは、痔の患者などの医療用に細々と売られていた「洗浄便座」。これを一般向けに全て設計し直し、新しい需要を掘り起こす。 その開発は困難を極めた。人にとって心地よいお湯の温度は何度か。汚れを完全に落とすには水は何リットル必要なのか。男達は自ら実験台となり試作を繰り返す。さらに、微妙な温度を制御するには最新式の電子回路技術が必要だった。しかし、感電の可能性のある電子回路の使用は危険な賭けだった。 そして運命の発売日。「トイレ」「おしり」の文字は当時のメディアでは「タブー」。宣伝もままならないなか、営業マンたちは全国を走り回った。さらに、追い打ちをかけるように殺到したクレームの嵐。プロジェクトは夜を徹して商品の改良に当たる。そして温水洗浄便座「ウォシュレット」が完成。男達は一人の天才コピーライターとともに誇りをかけた、一か八かの大勝負に打って出た。 数々の困難を克服し、「不潔なトイレ」のイメージを覆した「トイレ革命」を成し遂げた男たちの逆転のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 運命の最終テスト ワープロ・日本語に挑んだ若者たち
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    日本語。48字のひらがなと5万もの漢字がおりなす世界に冠たる美しい言葉。しかし戦後、日本語はその複雑さゆえ、経済復興の足かせとなった。 昭和40年代、高度成長期の日本は企業間の取引が増大。サラリーマン達は契約書の作成に追われていた。欧米の企業は26文字のアルファベットを駆使、誰もがタイプライターで契約書を作った。一方、日本では数少ない和文タイピストに依頼するしかなかった。誤字があれば、また打ち直し。公の文書を作るコストは、欧米の3倍と言われた。「誰もが使える日本語ワードプロセッサー、ワープロを作ろう」立ち上がったのは、東芝の若き技術者と、どん底にあえいだ工場の男達。ひらがなを漢字に変換する、不可能と言われた技術に挑んだ。しかし、日本語の壁が立ちはだかった。 同音異義語、同じ発音の言葉を機械は区別できない。「貴社の記者は汽車で帰社する」どうやったら正しく変換できるのか。また、変換するのに20秒以上かかる言葉もあった。そして突然、商品化を決定する事業部長から開発中止命令が下った。 絶体絶命に陥ったプロジェクトは、一度限りのワープロの性能テストに全てをかけた。リーダーの森は、機械の操作を一人の女性に託した。タイピストではなく、総務の事務員。「素人でも使えなければ意味が無い」大ばくちに出た。 累計3千万台を売り上げ、国民的商品となったワープロの執念の開発物語を描く。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 田中健一郎 ホテル総料理長 名門の味は、気持ちでつくる
    4.0
    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■名門の味は、気持ちでつくる 田中健一郎(ホテル総料理長) 東京・日比谷の一等地に建つホテルは、すで開業から1世紀を超える歴史を刻む、老舗中の老舗のホテルだ。田中健一郎はこのホテルの総料理長。師匠は伝説の名シェフ・村上信夫で、田中はその村上から48歳という若さで後継者に抜擢された。400人の料理人を率い、「味を守り」「人を育て」「名門に磨きをかける」。重い責任を背負う田中の日常を追いながらその職業意識の源を探る。 田中健一郎(たなか・けんいちろう) 1950年、東京都生まれ。1969年、帝国ホテル入社。97年、調理部長に就任。99年、東京料理長兼調理部長。2002年、取締役総料理長兼調理部長に就任。同年、財団法人日本食生活文化財団の食生活文化賞金賞を受賞。また、2005年にはフランス共和国農事功労章シュバリエ受章。現在、フランス料理アカデミー協会理事、社団法人エスコフィエ協会理事。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 美濃邉惠一 鬼師 人事を尽くして、鬼になる
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■人事を尽くして、鬼になる 美濃邉惠一(鬼師) 建物を悪霊から守る特別な瓦を「鬼瓦」という。古より伝わる建物の守り神だ。その鬼瓦をつくる職人を「鬼師」と呼ぶ。鬼師・美濃邉恵一は、歳月を経て、ひび割れ、朽ちてしまった古の鬼瓦を引き継ぎ、未来へとつなげる。その際、美濃邉 は、古の瓦に対して、手掛けた職人の気質にまで思いをめぐらせる。「魂を写し取る」―-それが美濃邉の信念。その信念はどのようにして生まれたのか。 美濃邉惠一(みのべ・けいいち) 1951年、滋賀県生まれ。1969年、高校卒業後、実家である「美濃邉鬼瓦工房」で働きはじめる。78年、京都の「株式会社大佛」で、鬼師として働く。81年、実家の工房の三代目を継ぎ、京都府を中心に鬼瓦を製作。主な仕事に、京都では、清水寺の経堂・大講堂、高台寺(こうだいじ)の鬼瓦席(茶室)、金閣寺の客殿(きやくでん)、銀閣寺の方丈、東寺の八幡社(まちまんしや)、西本願寺の御影堂、京都御所の建春門・月華門(げつかもん)、妙心寺の涅槃堂・位牌堂など多数。東京都では浅草寺の影向堂などがある。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 幕内雅敏 外科医 三六五日二四時間、医者であれ
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■がんと闘いつづける男 三六五日二四時間、医者であれ 幕内雅敏(外科医) 肝臓は、血管が複雑に入り組み、最も手術が難しい臓器の一つ。その手術において世界に名をとどろかせているのが幕内雅敏だ。幕内が独自に開発した手術法は、肝臓がんの根治率を上げ、世界を驚かせた。そんな幕内を支えるのは、30年以上にわたって、自らが手掛けてきた手術を詳細に記録しつづけていることからもうかがえる「圧倒的な勉強量」だ。「学びつづけることでしか、人の命は救えない」という幕内の信念の深奥に迫る。 幕内雅敏(まくうち・まさとし) 1946年、東京都生まれ。1973年、東京大学医学部卒業。卒業後、同大医学部付属病院第二外科で勤務。88年、国立がんセンター病院外来部外科医長。89年、同病院手術部長。90年、信州大学医学部第一外科教授。94年、東京大学医学部第二外科教授。97年、同大大学院医学系研究科肝胆膵外科、人工臓器、移植外科教授。2007年、同大を退官、日本赤十字社医療センター病院長に就任。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 佐藤陽一 ソムリエ 熟成の向こうに、極上がある
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■熟成の向こうに、極上がある 佐藤陽一(ソムリエ) 東京・六本木にある瀟洒なレストランのオーナー・佐藤陽一。客に気さくに接する佐藤だが、世界最優秀ソムリエコンクールに日本代表として出場し、世界にその名を知られる「ソムリエ」でもある。ともすれば気難しく思われがちなソムリエという仕事を、実に軽やかにこなす佐藤には信念がある。「ソムリエの仕事は、ワインを語ることではない。ワインで客を幸せにすることだ」。その信念はどのようにして生まれたのか。 佐藤陽一(さとう・よういち) 1962年、大阪府生まれ。1987年、渡仏してソムリエという職業の面白さに目覚める。90年、世界最優秀ソムリエのフィリップ・フォール・ブラックの「ビストロ・ドュ・ソムリエ」で研修。91年、帰国後、東京の「エノテーカピンキオーリ」、「タイユバン・ロブション(現ジョエル・ロブション)」などを経て、2000年、「マクシヴァン」をオープン。2005年、全日本最優秀ソムリエコンクール優勝。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 菊池恭二 宮大工 棟梁の器は、人生の深さ
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■その匠、一〇〇〇年先を見通す 菊池恭二(宮大工) 棟梁の器は、人生の深さ 昭和の名工と呼ばれた宮大工・西岡常一の最後の弟子と言われる木造建築の匠・菊池恭二。西岡から受け継いだ伝統の技で古の建築美を現代によみがえらせてきた。菊池は言う。「仕事を決めるのは『読み』、『読み』を決めるのは『人生の深さ』だ」と。宮大工として木と関わり続けて40年近く、宮大工の真髄を、「木の心を読み、技で組み上げる」と語る菊池の職人魂に迫る。 菊池恭二(きくち・きょうじ) 1952年、岩手県生まれ。1968年、遠野中学校卒業後、住宅建築大工・千葉三平に見習い入門。73年、法隆寺の昭和大修理の際、棟梁を務めた宮大工・西岡常一に社寺建築見習い入門。79年、初めて棟梁として福泉寺多宝塔の新築工事を手がける。90年、「社寺工舎」を創業。以来、多くの社寺の新築、修理を手がける。2000年、岩手県卓越技能章受章。2006年、卓越技能厚生労働大臣表彰。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 吉田都 バレリーナ 自分を信じる強さを持て
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■自分を信じる強さを持て 吉田都(バレリーナ) 世界三大バレエ団の一つ、「英国ロイヤルバレエ団」に所属する日本人プリンシパル・吉田都。高速のターン、ジャンプ、複雑なステップ……、バレエは過酷な芸術だ。必然的に、20代が中心のバレエ界にあって、しかし40代の吉田はトップを走りつづける。「いつも崖っぷち。精神的に追い詰められている感じ」という吉田は、それでもいつも自分を信じて闘いつづける。その強い信念の源に迫る。 吉田都(よしだ・みやこ) 1965年、東京都生まれ。9歳でバレエを始める。1983年、ローザンヌ国際バレエコンクールでローザンヌ賞を受賞、スカラシップを受けて英国ロイヤルバレエスクールに留学。84年、日本人で初めてサドラーズ・ウェルズ・ロイヤルバレエ団(現バーミンガム・ロイヤルバレエ団)に入団、88年にはプリンシパルとなる。91年、英国のダンス雑誌「Dance & Dancers」でダンサー・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。95年、英国ロイヤルバレエ団にプリンシパルとして移籍。2000年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2003年、橘秋子特別賞受賞。2006年に熊川哲也主宰のKバレエカンパニーに移籍。2007年、英国批評家協会から最優秀女性ダンサー賞を受賞。同年、紫綬褒章受章。現在、英国ロイヤルバレエ団・ゲストプリンシパル、Kバレエカンパニー・ゲストプリンシパル。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 多和田悟 盲導犬訓練士 イヌは人生のパートナー
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■イヌは人生のパートナー 多和田悟(盲導犬訓練士) ベストセラー小説で、後に映画やドラマにもなった『盲導犬クイールの一生』。多和田悟は、その主人公・クイールを育てた盲導犬訓練士だ。多和田は、まるで犬と会話するように、自由自在に犬を操る。犬の気持ちになって考えることがすべての基本だと多和田は言う。「褒めることは、育てること」――そんな多和田の流儀はどのようにして生まれ、どのように活かされているのか 多和田悟(たわだ・さとる) 1952年、滋賀県生まれ。青山学院大学を中退し、1974年、日本盲導犬協会の小金井訓練センターに入る。82年、関西盲導犬協会の訓練部長。この年渡英、英国盲導犬協会の訓練センターを訪問、見学して帰国。87年、「クイール」を訓練する。のちに『クイールを育てた訓練士』(文藝春秋社)がベストセラーに。95年、オーストラリアのクイーンズランド盲導犬協会に招聘される。2001年、関西盲導犬協会シニア・コーディネーター。2004年より日本盲導犬協会訓練士学校教務長。現在、国際盲導犬連盟の査察員を務める。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 高野進 陸上コーチ ゴールにいるのは、新しい自分
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■新しい自分に出会うために 高野進(陸上コーチ) ゴールにいるのは、新しい自分 自らもバルセロナ五輪の400メートルで決勝に残った名アスリートでもあった高野進は、いま、日本短距離界のエース・末續慎吾をはじめ、有望な選手を世界レベルに引き上げている陸上コーチとして名を成している。その指導法には、孤高のアスリートならではの経験と魂が込められている。高野が選手たちに語りかける「めざすゴールの向こうには、新しい自分が、待っている」という言葉はどこから生まれたのか。その背景に迫る。 高野 進(たかの・すすむ) 1961年 静岡県生まれ/1980年 東海大学入学。本格的に四〇〇メートルに取り組む/1984年 ロサンゼルス・オリンピック出場。準決勝まで進出/1988年 ソウル・オリンピック出場。日本人初の四四秒台突入ながら、決勝進出はならず/1991年 日本選手権で四四秒七八の日本記録を樹立。世界陸上四〇〇メートルで七位/1992年 バルセロナ・オリンピック四〇〇メートルで決勝進出。八位入賞/1994年 アメリカのアリゾナ大学に一年間コーチングの研究のため留学/1995年 東海大学陸上部短距離ブロックコーチ着任/2003年 教え子の末續慎吾がパリ世界陸上二〇〇メートルで日本人初の銅メダル獲得

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 輿水精一  ウイスキーブレンダー 優等生では面白くない
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■個性を響き合わせる 輿水精一(ウイスキーブレンダー) 優等生では面白くない 2006年、ウイスキーの世界大会で、欧米のメーカーを制し最高の賞を勝ち取った日本のウイスキーがある。そのウイスキーの味と香りをつくり上げた男が、ウイスキーブレンダ―の輿水精一だ。ときには、わずか1滴の違いで全体の味のバランスが崩れてしまうといわれるほど、繊細で難しいウイスキーのブレンドに対して、常に「個性」を求める輿水は、「優等生では面白くない」という。その哲学の背景に迫る。 輿水精一(こしみず・せいいち) 1949年 山梨県甲府市生まれ/1973年 山梨大学工学部発酵生産学科卒業/    『サントリー株式会社』入社/1976年 同社研究センターで、ウイスキーの貯蔵、熟成の研究に携わる/1985年 同社山崎蒸溜所で、品質管理、貯蔵を担当/1991年 ブレンダー室課長/1996年 主席ブレンダー/1999年 ブレンダー室長兼チーフブレンダー/2004年 「響21年」がこの年より三年連続「International Spirits Challenge (ISC)」で、金賞受賞/    「響30年」がISCで最高賞のトロフィーを受賞/    ISCの審査員となる/2007年 「ジャパニーズ・アイコン・オブ・ウイスキー2007」でウイスキー大使として表彰される

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 寺門嘉之 海上保安官 冷静に、心を燃やす
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■実録「海猿」 寺門嘉之(海上保安官) 冷静に、心を燃やす 映画・漫画の大ヒット作「海猿」がモデルにした、海上保安庁の潜水士たち。そのなかから選び抜かれたエキスパート集団が、「特殊救難隊」である。その隊長を務める寺門嘉之は、これまで、危険な海難現場から100人近い人命を救出してきた。寺門たちの仕事に欠かせないのは「救いたい」という強い信念。しかし、思いだけでは海難現場の修羅場はくぐれない。「冷静に、心を燃やす」――寺門の流儀はそうしたなかから必然的に生まれた。その仕事の深奥に迫る。 寺門嘉之(てらかど・よしゆき) 1970年 埼玉県生まれ/1988年 日本体育大学体育学部社会体育学科入学。ライフセービング部入部/1992年 海上保安庁入庁/1995年 羽田特殊救難基地・特殊救難隊所属/2006年 第六特殊救難隊長

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 横井昭裕 玩具企画開発 ヒットの秘密は“トゲ”にあり
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■ヒットの秘密は“トゲ”にあり 横井昭裕(玩具企画開発) 1996年、歴史的ヒットをとばした奇抜な玩具が誕生した。小さなたまご型をした電子ペットの育成ゲーム「たまごっち」だ。発売後2年間で世界中で4000万個を売り上げ、社会現象とまでいわれた。発売元は『バンダイ』。しかし仕掛け人は企画・開発会社を率いる横井昭裕という男だ。横井は、メーカーに商品の企画を売り、会社を切り盛りする、生粋の“企画屋”にして業界の常識を破るヒットメーカーだ。「企画の命は、トゲにある」という横井の信念はどこから生まれたのか。 横井昭裕(よこい・あきひろ) 1955 東京都生まれ/1977 中央大学経済学部国際経済学科卒業 『バンダイ』入社/1985 「猫ニャン棒」発売/1986 玩具企画会社『ウイズ(現・ウィズ)』設立/1996 「たまごっち」をバンダイより発売/1997 「デジタルモンスター」シリーズをバンダイより発売開始/1999 「デジタルモンスター」がアニメ化される しゃべる人形「プリモプエル」シリーズをバンダイより発売開始/2001 「クラッシュギア」シリーズをバンダイより発売開始/2004 アニメ『ふたりはプリキュア』(ABC・東映アニメーション)と同時展開で「カードコミューン」をバンダイより発売。以降シリーズ化/2005 ジャスダック証券取引所に上場

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 新浪剛史 コンビニエンスストアチェーン経営者 さらけ出して熱く語れ
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■さらけ出して 熱く語れ 新浪剛史(コンビニエンスストアチェーン経営者) 誕生から30年、今も成長を続けるのがコンビニ業界。同業他社が多数存在するなか、その競争は激しくなるばかりだ。変革に対する恐怖はあるものの、他社に先駆けて変わらなければ、生き残れないのがこの業界といえる。そんななか社員16万人を率いる熱き経営者がいる。ローソンの代表取締役・新浪剛史だ。トップダウンを嫌う新浪は言う。「考えるのは、社員の仕事。社長なんて使えばいいんだ」。改革の先頭に立つ男は今日も現場で熱い檄を飛ばす。 新浪剛史(にいなみ・たけし) 1959 神奈川県生まれ/1981 慶應義塾大学経済学部卒業 『三菱商事』入社/1991 ハーバード大学経営大学院でMBA取得/1995 『ソデックスコーポレーション(現・レオックジャパン)』へ代表取締役として出向。給食事業を展開する/2000 三菱商事ローソンプロジェクト統括室長兼外食事業室長/2002 『ローソン』代表取締役社長CEO/2005 (財)経済広報センター主催「第21回企業広報経営者賞」受賞

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 石原正康 編集者 ベストセラーはこうして生まれる
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■ベストセラーはこうして生まれる 石原正康(編集者) 村上龍『13歳のハローワーク』120万部、五木寛之『大河の一滴』253万部……など、ベストセラーを連発する編集者がいる。出版社『幻冬舎』の常務取締役でもある石原正康だ。これまで手がけた本は100冊余り。5万部でヒットといわれる書籍の世界で、石原が関わった本は平均10万部という驚異的な売れ行きを誇る。並みいる作家から絶大な信頼を得て、ベストセラーを生み出しつづける石原の仕事の流儀に迫った。 石原正康(いしはら・まさやす) 1962 新潟県生まれ/1985 法政大学在学中より、『角川書店』で、アルバイトとして編集に携わる/1986 法政大学卒業/1987 編集者として関わった山田詠美の『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』が直木賞を受賞/1993 見城徹氏らと『幻冬舎』設立に参加。常務取締役に就任。以後も、一貫して編集業務に携わる

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 上田義彦 写真家 心動かす広告命宿す写真
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■心動かす広告 命宿す写真 上田義彦(写真家) あふれ返る広告写真群の中で、ひときわ強い印象を残す写真に出会うことがある。写真家・上田義彦の作品はその代表といえる。現在は、写真にとどまらずテレビCMの撮影や演出も手がけ、上田の作品を見ない日はないといわれるほどの人気ぶりだ。なぜ、上田の手がけるものは人々の心に残るのか。写真と向き合う上田の流儀から、その秘密を探る。 上田義彦(うえだ・よしひこ) 1957 兵庫県生まれ/1980 ビジュアルアーツ専門学校卒業 福田匡伸氏に師事/1981 有田泰而氏に師事/1982 上田義彦写真事務所を設立。ファッション写真を撮りはじめる/1985 広告写真で、ドイツ文学者・高橋義孝氏のポートレート撮影/1987 ニューヨークADC賞受賞/1989 東京ADC賞受賞/1992 東京ADC賞受賞/1993 カンヌグラフィック銀賞受賞/1994 東京ADC賞受賞/1995 東京ADC賞受賞/1996 ニューヨークADC金賞受賞/2000 東京ADC賞受賞/2003 写真展「Photographs」(東京都写真美術館)/2005 東京ADC最高賞受賞、ACC撮影最高賞受賞/主な写真集に「INTO THE SILENT LAND」(91年)、「QUINAULT」(93年)、「AMAGATSU」(95年)、「FLOWERS」(97年)、「FRANK LLOYD WRIGHT」「PORTRAIT」(ともに03年)、「at Home」「CHAMBER of CURIOSITIES」(ともに06年)

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 上山博康 脳神経外科医 医者は人生を手術する
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■医者は人生を手術する 上山博康(脳神経外科医) 脳動脈瘤の手術で、全国にその名を知られる外科医が北海道・旭川にいる。脳神経外科医・上山博康。手がける脳外科手術は年間300を超え、その腕を頼って全国から患者が集まってくる。患者は人生を懸けて医師のもとにやってくる。だから上山は、医師として揺るぎない信念を持って患者と向き合う。上山は言う。「医者は人生を手術する」と。「命を託され、命を懸ける」――そんな上山の仕事の流儀に迫る。 上山博康(かみやま・ひろやす) 1948 青森県生まれ/1973 北海道大学医学部医学科卒業 同大病院脳神経外科の医師となる/1981 日本脳神経外科学会専門医認定/1994 旭川赤十字病院第一脳神経外科部長/2001 同病院脳卒中センター長

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 田尻悟郎 中学校英語教師 楽しんで学べ傷ついて育て
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■楽しんで学べ 傷ついて育て 田尻悟郎(中学校英語教師) “マジシャン”と呼ばれる中学校の英語教師がいる。島根県出雲町立出雲中学校の田尻悟朗だ。2001年、英語教育界最高の栄誉とされる「パーマー賞」を受賞した田尻に対して、その授業の秘密を知ろうと全国から現役教師が押し寄せる。教師たちは「これまで、自分は何を教えていたのか」と、その斬新な授業に衝撃を受ける。子どものやる気を魔法のように引き出す田尻の授業方法はどのようにして生まれたのか。その背景に迫る。 田尻悟郎(たじり・ごろう) 1958 島根県に生まれる/1981 島根大学卒業後、神戸市の公立中学校の英語教師となる(9年間で2校に勤務)/1990 島根県に戻り、島根県の公立中学校の英語教師となる(15年間で4校に勤務)/2001 「パーマー賞」を受賞/2005 島根県東出雲町立東出雲中学校へ赴任

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 植村比呂志 ゲームメーカー開発部長 現場に出ろ、答えはそこにある
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■ゲーム業界の常識を「塗り替えた」サラリーマン 植村比呂志(ゲームメーカー開発部長) ゲーム業界の常識を塗り替えたサラリーマンがいる。大ヒットゲーム「甲虫王者ムシキング」をプロデュースした『セガ』の植村比呂志だ。植村は70人の部下を率いる開発部長という立場でありながら、週末になるとショッピングセンターなどで行われる子ども向けのショーに、自らゲームのキャラクターに扮して出演する。そんな植村の「現場にこそ商品開発の答えがある」という信念の根源や、人材育成術に迫る。 植村比呂志(うえむら・ひろし) 1965年 福島県生まれ/1989年 武蔵工業大学工学部卒業後、『セガ・エンタープライゼス(現・セガ)』入社。子ども向け乗り物開発に携わる/1996年 『東京ジョイポリス』オープンアトラクション「ハーフパイプキャニオン」稼動/2001年 CG図鑑「タッチであそぼ!!」発表/2003年 「甲虫王者ムシキング」展開開始/    未来研究開発部部長/2004年 「オシャレ魔女ラブandベリー」展開開始/    ファミリーエンタテインメント研究開発部部長/2006年 R&Dクリエイティブオフィサー

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 大瀧雅良 高校教師 サッカー部監督 勝つことよりも大事なことがある
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■名選手を育てる驚異の指導 大瀧雅良(高校教師・サッカー部監督) 勝つことよりも大事なことがある 清水商業高校サッカー部。高校サッカーファンでその名を知らない人はほとんどいないだろう。大瀧雅良は同校サッカー部の監督を30年務める教師だ。30年の教師生活で育てた日本代表選手は13人に上る。名選手を次々と育てる驚異の指導者は、しかし「優秀なサッカー選手を育てる」ことよりも、「一人前の人間を育てる」ことをモットーとする。「勝つことよりも、大事なことがある」という大瀧の指導者哲学に迫る。 大瀧雅良(おおたき・まさよし) 1951年 静岡県清水市(現・静岡市清水区)生まれ。/1966年 清水市立(現・静岡市立)清水商業高校入学/1969年 サッカー部主将として出場した全国総体で準優勝。全国選手権出場/1970年 拓殖大学入学/1974年 母校・清水商業に教諭として赴任。同じくサッカー部監督に就任/1985年 全国選手権初優勝。以降88年、93年と計三回優勝/1989年 高校総体(インターハイ)初優勝。以降90年、94年、96年と計四回優勝/1990年 全日本ユース初優勝。以降93年、94年、95年、00年と計五回優勝

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 塚本こなみ 樹木医 藤の老木に命を教わる
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■樹木の声を聞く 塚本こなみ(樹木医) 藤の老木に命を教わる 栃木県足利市にある「あしかがフラワーパーク」は、毎年ゴールデンウィーク前後に満開を迎える290本の藤の花で有名な、日本一の入場者数を誇る植物園だ。樹木医の塚本こなみはこの植物園の園長でもある。造園業を営む夫に嫁いだ当初、樹木の名前すらわからなかった塚本は、猛勉強の末、43歳で女性初の樹木医となった。いま、365日、木々と向き合い、樹木の病と闘いつづける塚本の日常を通して樹木医の仕事の深奥に迫る。 塚本こなみ(つかもと・こなみ) 1949年 静岡県に生まれる/1971年 造園家と結婚/1985年 『グリーンメンテナンス』を設立/1992年 女性で初めての樹木医となる/1993年 『環境緑化研究所』設立/1996年 『あしかがフラワーパーク』の大藤の移植を手がける/1999年 同パークの園長に就任

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 吉岡徳仁  デザイナー 暗中模索、未来創造
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■その手から未来が生まれる 吉岡徳仁(デザイナー) 暗中模索、未来創造 携帯電話からインテリアまで……、多岐にわたるデザインを手掛ける男・吉岡徳仁。いま、吉岡のデザインは、その「発想の斬新さ」ゆえに世界中から注目されている。吉岡自身が心がけているのは「未来の定番をつくる」こと。納得がいくまでとことん悩み、考える現場は試行錯誤の連続となる。そんな吉岡の考える「気持ちをデザインする」という流儀はどのようにして生まれたのか。その背景を探る。 吉岡徳仁(よしおか・とくじん) 1967年、佐賀県生まれ。1986年桑沢デザイン研究所卒業後、倉俣史朗、三宅一生のもとでデザインを学ぶ。2000年、吉岡徳仁デザイン研究所設立。三宅デザイン事務所在籍時より20年にわたって「ISSEY MIYAKE」と多くのプロジェクトをコラボレートし、世界的に高い評価を得る。「HERMES」「LEXUS」「BMW」の空間デザインや、国内外のメーカーの家具や照明器具のデザインを手がけ、その作品は多くの美術館のパーマネントコレクションに認定されている。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 藤澤和雄  競馬調教師 未来を見すえる者が勝つ
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■一勝より、一生 藤澤和雄(競馬調教師) 未来を見すえる者が勝つ 藤澤和雄は、年間最多勝10回、有馬記念3連覇、海外G1制覇など、断トツの実績を持つ競馬調教師だ。馬主から預かった馬を訓練し、レースで勝たせることを求められる調教師の仕事。当然のことながら常に各方面からプレッシャーがかかる。そんななか、藤澤は常に笑顔を絶やさず、淡々と仕事をこなしているように見える。その「笑顔」の秘密、そして「勝利に近道はない」という藤澤の信念の背景に迫る。 藤澤和雄(ふじさわ・かずお) 1951年、北海道生まれ。大学卒業後、父の友人の牧場を手伝う。その後イギリスの名門厩舎で4年間厩務員として働く。1977年、美浦トレーニングセンターの菊池一雄厩舎にて調教助手。87年にJRA調教師免許を取得。翌年3月、美浦トレーニングセンターに藤澤厩舎を開業。93年に初の最多勝利調教師賞を受賞。以後、同賞に加え、最優秀調教師賞、最多賞金獲得調教師賞などを多数獲得。2006年度には優秀調教師賞(関東)第一位となった。

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 徳岡邦夫  料理人 変える勇気変えない勇気
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■新しい日本料理のクリエーター 徳岡邦夫(料理人) 変える勇気 変えない勇気 京都、嵐山の高級料亭で総料理長を務める徳岡邦夫。有名料亭の三代目でありながら、伝統にとらわれない斬新な料理は「日本料理のアバンギャルド」とも呼ばれる。バブル崩壊後、どん底の苦しみの中、伝統に縛られるよりも客の要望に耳を傾けることで時代にあった料理を考案し、店を盛り立ててきた徳岡。その信条は、「伝統を守り、伝統を壊す」。客をもてなすことに心を砕く、その挑戦の日々に迫る。 徳岡邦夫(とくおか・くにお) 1960年 『吉兆』創業者・湯木貞一の孫として、大阪市に生まれる/1975年 大阪高麗橋吉兆で修業開始/1987年 京都吉兆嵐山本店へ/1995年 京都吉兆嵐山本店総料理長就任/2005年 世界のトップシェフが集まる「第3回インターナショナル・サミット・オブ・ガストロノミー」に日本料理界で初参加

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 羽生善治  棋士 直感は経験で磨く
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■新たな地平を切り開く勝負師 羽生善治(棋士) 直感は経験で磨く 将棋界のトップを走り続ける棋士・羽生善治。25歳の若さで、史上初のタイトル七冠を制覇するなど「早熟の天才」のイメージが強いが、実はその後タイトルを徐々に失い、一冠にまで落ち込んだ時期もある。30歳を過ぎ、経験を重ねて戦術の選択肢が増える一方、迷いや恐れも出てくるようになった、と話す羽生。同時に、経験から培った「対局の流れを掴む力」を生かして勝負に臨む。年齢を重ね、新たな境地で将棋に向き合う姿に迫る。 羽生善治(はぶ・よしはる) 1970年 埼玉県生まれ/1982年 二上達也門下生となる/1985年 中学三年で四段に昇段/1988年 五段に昇段/1994年 九段に昇段/1996年 史上初七冠制覇 内閣総理大臣顕彰/1999年 将棋栄誉賞(通算六〇〇勝達成/2003年 将棋栄誉敢闘賞(通算八〇〇勝達成/2006年 現在、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王の称号を持つ

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 奥山清行  カーデザイナー 新しいものは「衝突」から生まれる
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■世界最先端の「戦場」で闘う男 奥山清行(カーデザイナー) 新しいものは「衝突」から生まれる ドイツ、アメリカ、イタリアなどで、誰もが憧れる車のデザインを手がけてきた奥山清行。トリノの名門デザインスタジオで、イタリア人以外では初めてデザイン部門の最高責任者を務める奥山は、精鋭ぞろいの部下達に正面からぶつかり、衝突しながらもギリギリまで追い込んで最高のデザインを引き出していく。弱肉強食のデザイナーの世界を生き抜き、「たった一枚のデザイン」を求めて走り続ける、そのエネルギッシュな仕事ぶりに迫る。 奥山清行(おくやま・きよゆき) 1959年 山形県生まれ/1982年 武蔵野美術大学卒業/1985年 アート・センター・カレッジ・オブ・デザイン(米)卒業 卒業後、『GM』(米)、『ポルシェ』(独)でチーフデザイナーを務める/1995年 『ピニンファリーナ』(伊)入社/1998年 『ピニンファリーナ』でチーフデザイナーを務める/2002年 「エンツォフェラーリ」発表 『山形工房』代表/2004年 『ピニンファリーナ』でデザインディレクターを務める/2006年 個人事務所設立

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 内原智史  ライティングデザイナー 光よ、深きものを照らせ
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■光よ、深きものを照らせ 内原智史(ライティングデザイナー) 光と影を操り、夜の街を演出するライティングデザイナー、内原智史。表参道ヒルズや羽田空港、京都の寺院、都心の高層マンション、そして地方の町おこしまで、その現場は多岐にわたる。照明を施すときに内原が心がけるのは「建物を照らすのではなく『本質』を照らす」こと。周囲の環境や、スペースの役割を突き詰め、本質を見極めて明かりを選ぶ。驚くほど表情豊かな照明を生み出していく内原の、デザイナーとしての哲学とは。 内原智史(うちはら・さとし) 1958年 京都府生まれ/1982年 多摩美術大学デザイン科立体デザイン卒業/『石井幹子デザイン事務所』入社/1992年 同事務所退社/1993年 内原智史デザイン事務所設立/1994年 京都の寺院などのライティングを手がける/1995年 北米照明学会国際照明デザイン賞・特別賞受賞 以降、同賞において多数受賞歴あり/1997年 東京アークヒルズ景観照明計画/2001年 ジャパンエキスポ・イン福島「うつくしま未来博」景観照明計画/2004年 羽田空港第二旅客ターミナルのライティングを手がける/2005年 「表参道ヒルズ」のライティングを手がける ほか、多数のプロジェクトに参加

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 加藤博義  テストドライバー 修羅場でこそ笑ってみせる
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■修羅場でこそ 笑ってみせる 加藤博義(テストドライバー) 自動車メーカーにとって、優れた新車の開発は会社の将来を賭けた真剣勝負である。最高機密とされる試作車の、試乗を受け持つのがテストドライバー。加藤博義はテストドライバーとして日本でただ一人「現代の名工」に選ばれた職人である。機械では測れない微妙な「乗り味」を判断するため、時速200キロの極限状態で車を操り運動性能を確かめる。車というマシンに感性で命を吹き込む、研ぎ澄まされた感覚の秘密に迫る。 加藤博義(かとう・ひろよし) 1957年 秋田県に生まれる/1976年 日産工業専門学校卒業後、『日産自動車』に入社/1988年 テストドライバーとして“スカイライン”の開発に携わる/1999年 “Z33型フェアレディZ”の開発に携わる/2003年 厚生労働省が認定する「現代の名工」にテストドライバーとして初めて選出される

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 秋山咲恵  ベンチャー企業経営者 夫と会社はこう育てる
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■夫と会社はこう育てる 秋山咲恵(ベンチャー企業経営者) 社員60人という規模でありながら、大手電機メーカーと検査機械の世界シェアトップを争う。そんなベンチャー企業の社長として注目を集める秋山咲恵。起業のきっかけは技術者である夫に活躍の場を与えたいという一念だった。設立当初の苦境を夫とともに乗り越え、会社を驚異的に成長させてきた秋山。部門間の壁を徹底して取り払い、スピードを何より重視する手法で走り続ける経営者の姿を追った。 秋山咲恵(あきやま・さきえ) 1962年 奈良県に生まれる/1987年 京都大学法学部卒業後、『アンダーセン・コンサルティング(現・アクセンチュア)』入社/1987年 エンジニアの秋山吉宏と結婚/1994年 有限会社(現・株式会社)『サキコーポレーション』設立/2003年 政府税制調査会委員就任/2005年 『日経WOMAN』主催「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2006」受賞

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 竹岡広信  塾・予備校 英語講師 “なにくそ!”負けたらあかん
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■“なにくそ!”負けたらあかん 竹岡広信(塾・予備校英語講師) 人気漫画「ドラゴン桜」に登場する英語講師には実在のモデルがいる。予備校や自らが主催する塾で教壇に立つ、竹岡広信である。書いた参考書は10万部を売り上げ、生徒を募集すれば一日で定員オーバー。そんな竹岡が目指すのは、「英語を好きにさせる授業」。本当に興味を持てば、ひとは進んで勉強し、自分で伸びていく。そんな信条をもとに、レッテルを貼らず、劣等生を作らず、真剣勝負で生徒に向かっていく。塾生たちと挑んだ受験シーズン、その結果は。 竹岡広信(たけおか・ひろのぶ) 1961年 京都府亀岡市に生まれる/1980年 京都大学工学部入学。在籍中に、父・信男さんが塾長を務める塾で英語講師となる/1984年 京都大学工学部卒業後、文学部に編入/1986年 大学を休学し、塾の英語指導に専念/1990年 文学部卒業。以降、主宰する『竹岡塾』のほか、『駿台予備学校』(京都、名古屋、福岡)、洛南高等学校などで教壇に立ち、人気講師となる/2002年 『センター試験英語が面白いほど解ける本』出版。以降、受験英語を中心とした著書を多数出版/2003年 漫画『ドラゴン桜』が「週刊モーニング」に連載され、竹岡の指導法がモデルになる/2005年 著書『ドラゴンイングリッシュ 基本英文100』が大ベストセラーに

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 挾土秀平  左官職人 不安の中に成功がある
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■不安の中に成功がある 挾土秀平(左官職人) 天然の土から独創的な壁を生み出す、左官職人、挟土秀平。添加物や着色料を使わず、土という素材にこだわって仕事を続ける、現代の匠である。その仕事は大胆かつ繊細。しかし現場に立つ挟土は驚くほど慎重だ。土や天気といった予測不能な自然を相手にする限り、上手くいく保証はない、と挟土はいう。「臆病であれ」、「追い込まれたら一度逃げる」。カリスマ職人としては意外とも思える、その持論の奥にある体験に迫る。 挾土秀平(はさど・しゅうへい) 1962年 岐阜県飛騨高山(現・高山市)に、左官業『挾土組』の長男として生まれる/1981年 高校卒業後、熊本の左官業者に弟子入り/1983年 「技能五輪」全国大会優勝/2001年 『挾土組』を退社後、『職人社秀平組』を設立/2006年 日本建築仕上学会賞受賞

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  • プロフェッショナル 仕事の流儀 進藤奈邦子  WHOメディカルオフィサー 鳥インフルエンザを封じ込めろ
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    時代の最前線にいる「プロフェッショナル」はどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。どんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。NHKの人気番組 『プロフェッショナル 仕事の流儀』より、本気で「仕事」を考え、取り組もうとするすべての人にお届けする、待望の電子書籍シリーズ! ■鳥インフルエンザを封じ込めろ 進藤奈邦子(WHOメディカルオフィサー) 世界中を不安に陥れた鳥インフルエンザ。これら新種の病原体の感染爆発を食い止める闘いの最前線に、一人の日本人医師がいる。世界保健機関(WHO)の医務官、進藤奈邦子である。原因不明の感染症が報告されるたび、進藤はただちに現地に向かう。感染ルートを確認し、病人を隔離、感染拡大を防ぐには現地の政府を巻き込む交渉力も必要だ。感染すればみずからも死に至る危険な現場で、目に見えない病原菌と戦い続ける勇気の源とは。 進藤奈邦子(しんどう・なほこ) 1963年 大阪府大阪市に生まれる/1990年 東京慈恵会医科大学を卒業。同大附属病院脳外科、英国セントトーマス病院、オックスフォード大ラディクリフ病院にて臨床研修/1997年 国立感染症研究所感染症情報センター勤務/1999年 同センター主任研究官に就任/2002年 厚生労働省よりWHO(世界保健機関)に派遣

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