『ルックバック』レビュー
藤野と京本、2人の関係性は、正直ちょっとしたサンドバッグの打ち合いみたいだ。京本が才能のパンチを繰り出し、それを受けて藤野が「私も!」と必死に反撃する。でも、試合が終わった後に「やっぱり京本には敵わないや」と藤野がリングの隅っこでしょんぼりしている、そんな図が頭に浮かぶ。創作って、こういう痛みを伴うものなんだろう。
藤野がランドセルを背負ってスキップするシーンは、まるで子どもがクリスマスプレゼントをもらった瞬間みたいだった。光が反射する水たまり、風に揺れる髪、そのすべてが「私の人生、これでいける!」と叫んでいるようだった。この感情の振り幅はアニメならではで、そんな「喜び」が爆発する瞬間こそが創作の原動力なんだろうなと思う。
京本にとって藤野は「外の世界」だった。それまで引きこもっていた彼女が、藤野という名の観覧車に乗せられて「こんなに広い景色があるのか」と驚く。そしてその観覧車を降りた先に、人生という遊園地が広がっていた。引きこもりだった京本を外の世界に引っ張り出した藤野は、彼女にとってまさに神様だったに違いない。
でも、藤野にとっての京本はどうだったのか?京本があまりにも絵が上手いせいで、藤野は「私なんて」と自分を否定する。それでも、京本と一緒に漫画を描く時間は藤野にとって何よりも特別だった。「背負うもの」だった京本との時間が、最終的には「抱くもの」になったというのは、映画で特に強調されていたと思う。人間関係って、こんな風に変わるものなのかも。
このマンガを語る上で、京アニ事件の影響を無視するのは不可能だ。美大襲撃事件は、現実の悲劇に対するレクイエムとして描かれているように感じた。京本を襲った悲劇は、「創作が持つ影の側面」を否応なく思い出させる。創作が他者に与える影響力って、時に想像を超えてしまう。
『ルックバック』は、創作の苦しさと喜び、その両方を描き切った作品だった。藤野と京本の関係性を通じて、「なんで描いてるの?」という問いを観客にも突きつけてくる。この問いに対する明確な答えはない。でも、それでも続ける理由が、あのラストの藤野の背中に詰まっているように思う。
観る人それぞれが、自分の背中を振り返りながら、この映画をどう受け取るかが問われている。『ルックバック』は、観終わった後にも自分の中で会話が続いていく、そんなマンガだった。