【感想・ネタバレ】「自己否定感」怖れと不安からの解放のレビュー

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Posted by ブクログ

著者は、昨今の学校や会社では激しい競争状態が作られ、恐れと不安を刺激して「自己否定感」が強化されていると危惧する。さらにはこの恐れを掘り下げると死の恐怖に繋がっており、これらの「自己否定感」は「抑圧されたネガティヴな衝動」でもある。

これらの衝動による不快感が意識レベルに上がってくると、その存在理由を自分の外側に捏造し、逃れようとするのが人間の習性とのこと。例えば、他者にそれを投影して、その他者を激しく責める行動を取ったりする。だから、人は自分の醜い部分を持っている他者を忌み嫌い、必要以上に否定しようとする。

では、この決して健全と言えない状況から、どう脱却するのか。著者は、強い戦士として突っ張るのではく、感情が揺れ動き、弱く、欠点だらけの、ありのままの自分の姿を晒すことの重要性を説く。別の言い方をすれば、「情動の蓋を開ける」ということ。

もし、取り返しがつかないほど評判が落ちるのではないか、後ろ指を刺されるのではないか、という強い恐怖心を持っているとするなら、そこから1歩踏み込み、その「恐れ」を抱いている対象事象そのものを体験してみると良い。往々にして、元々の予想に反して大したことにはならないということに気づく。

平気で自分を晒すことができるようになれば、「自己否定感」は小さくなっていく。同時に自身が所属する組織に「安心・安全な場」ができ、周りの人間も同じように鎧を脱ぎ始めるという好循環が生まれてくる。

まずは、自分のみっともなさを、勢いよく晒して見よう。

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2021年07月17日

Posted by ブクログ

著者の土井利忠氏はソニーの元役員。ソニー在籍中から使用しているペンネームである「天下伺朗」は、1970年代の手塚治虫の名作漫画(怪作?)の「奇子」の登場人物名であり手塚氏本人からの承諾を得て使用しているらしい。

奇子という作品は、手塚作品としては珍しくエログロが明確に描かれている大人向けの作品。戦後のゴタゴタ期から作品執筆当時(1972年)までの東北の豪農ファミリーを舞台とした業の深い話だ。伺朗という人物は、兄の殺人事件を告発しようとする正義感が強い人物なのだが、異母妹(作品タイトル名でもある奇子)との近親相関に悩むという屈折したキャラクターだ。土井氏がどうしてこのペンネームを使用しているかについては不明。

数か月前に妻がこの本を読みだした時、「なんて悪趣味なペンネームの作家がいるもんだ」と思って眺めていたのだが、手に取って読んでみたところ、とても面白い。

人はみな深層意識にある自己否定感をエンジンとしているということを議論の出発点としつつ、「常に天敵を作る」タイプの人の分析へと進む。土井氏(天外氏)がソニー時代に、当時の同社CEO出井氏と大喧嘩をしたエピソードを紹介し、彼が出井氏を「敵」と位置付けたのは彼自身の心の問題と振り返っているのは面白い。(それでも、彼が出井氏をいかに嫌っているかということは良くわかる。)

私は、「あの人が嫌い」「あの人と話すとムカついて自分の気持ちが落ちてくる」という人や、自分の領域が侵食されたと感じたとたんに激昂するタイプの人の心理メカニズムが理解できないのだが、この本を読んでそういう人たちの心のステイタスが少し理解できた気がした。

漫談のようにチャプターことに色々な話が紹介されているのだが、Open Space Technologyという組織や会合の運営の考え方が興味深かった。これは、お茶してだべるだけの「蝶」と、あちこちの議論に顔をつっこむ「蜂」の存在により組織が活性化するという話。

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2022年01月21日

Posted by ブクログ

ネタバレ

深層心理学やら、トランスパーソナル心理学、各種宗教の理論を網羅的に整理して紹介している本。
自己否定感に基づき、不安、恐怖に駆られた努力、成長から解放されて、実存的変容を遂げると次はティールになるとのこと。ティール組織の本が、メジャーになる中で、実際この様な流れはあるのかも。
実存的変容を遂げる前の実存的危機『自分は何者で、人生の目的は何か』という段階は、ミッドライフクライシスやら、キャリアコンサルタントの話にも似ていると感じた。こう言う、心理学とかの世界では、共通認識なのかもしれない。
自我の発達モデルというのは、悟りを開くという流れとも似ているので、分かりやすいが、その先の神秘体験やら、チャネリングの話が出てくると少し胡散臭く感じて警戒する自分がいる。そしてまた、そうした自我の発達と、社会モデルを関連付けて、社会の発展モデルまで示されると、社会は一方向的に発展するという観念が言われている様で、何方かが遅れている社会と言っている様にも感じて嫌気がさす。途上国の社会も、伝統的なコミュニティにも其々良いところはあり、多様性と其々の価値を見出す文化人類学的な視点とぶつかる様な印象を覚えたが、これは穿った見方だろうか?そして、私は実存的危機に悩んでるから、そこから脱する方向としてこの理論に基づく自己変容を目指していくことなるのだろうけれども、皆んなが皆、悟ることで社会が発達するよというのは、なんとも気持ちの悪い感じがする。

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2021年08月23日

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