あらすじ
七十歳を過ぎた稀代の思想家が、自らのこととして死と向き合った。欧米の「生命尊重主義」では、とてもじゃないが穏やかに死ねない。ヒントは古からの日本人の死生観にあるにちがいない。自然信仰を探り、日本仏教の「死と生」の関係を見る。西洋とは全く違う「死にかた」を知った時、私たちは少しばかり安心して旅立てる。
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第8章「死」とは最後の「生」である
214頁から215頁で、佐伯啓思氏が伝えたかったことが書いてあります。
それを紹介します。
本書で私が提起した問題。つまり、現代人の死に方、という問題について、本書は何かしらの結論めいたものを提出したわけではない。
ただ、「死生観」という観念からこの問題の困難さを洗い出し焦点をしぼろうとしただけである。
あるいは、現代人の死の困難の背後には「死生観」という問題がある、といいたかっただけである。
そして、死生観は、倫理観と同様に、多くの場合、論理的に導出できるようなものではなく、その国の歴史が積み上げてきた文化のなかに何層にもわたって重なりあい、また点在しているものであろう。
現代に生きるわれわれは、その表層にある近代主義的な合理性だけで生死を捉えてはならない。
そのもっと深いところにある死生観を掘り起こす必要がある、近代的な合理主義の背後には、もうひとつ、われわれは日本的な死生観を配置するべきであろう。
仏教や伝統的な日本の死生観が、安楽死のような今日の問題に対して、ある回答を直接に与えるものとはいえないであろう。
だがしかし、その見地からすれば、現代においてわれわれが関わっている死と生への態度は、あまりにも窮屈で閉ざされたものであり、自らをそこに縛り付けていることがみえてくるだろう。
生と死は、人間の根源的な問題であるが、その根源的な問題が、現代において再び火急の課題として浮上し、われわれの共通の関心になりつつある。
もちろん、生も死も徹底して個人的な事柄なので、誰もが自分なりの死生観をもてばよいということもできるが、現実にはそういうわけに、いかない。
生や死についての個人的な「覚悟」を決めるとしても、われわれは、先人の経験から学ぶほかはなく、文化のなかに伝えられてきた「目にはみえない価値観」にまずは寄りかかる以外にないからだ。
本書は、私自身の死生観を模索する試行錯誤の足跡といってもよいが、また、仏教を中心とする日本人の死生観を振り返ることが、一人一人の死生観の支えになればという思いもある。
われわれの精神の構えを未来へと拓くためには、それをまた過去へと開かなければならないであろう。
その対話の中から、少しでも現代の「死に方」についての手掛かりが得られれば暁光としなければならないであろう。
ということでした。
で、佐伯啓思さんの「死生観」の掘り下げ方として、第1章から第8章までで纏められています。
第1章 安楽死という難問
第2章 安楽死と「あいましさ」
第3章 「死」が「生」を支える
第4章 日本人の「魂」の行方
第5章 仏教の死生観とは何か
第6章 道元の「仏性」論
第7章 「生と死の間」にあるもの
第8章 「死」とは最後の「生」である
最近、私は医師の立場からの「死」に対する考え方として、近藤誠先生、和田秀樹先生、養老孟司先生の考え方について一定の情報を得た。
今回、ギリシア・ヨーロッパ、キリスト、ユダヤに対する見識をお持ちの佐伯啓思氏の考え方、そして、最近仏教への関心も深められた氏の情報もこの本で知り得た。
後は、この本で紹介された本を読むことなどを行いながら、自分自身の「死生観」を深めていけるいいきっかけとなった本であった。
Posted by ブクログ
現代の日本人は死ぬことに対してどの様な心構えを持てば良いのか、について考えるヒントを提示している。古来からの思想と仏教伝来以後の思想、特に大乗仏教の死生観を顧みながら、生死一如と考えれば良いと提案している。非常に参考になったし、評論として優れた文章だと思った。
Posted by ブクログ
「死んだ人が化けて出る」という発想は、地上に留まる霊的存在を基本的に認めないキリスト教や、死者の魂が現世に戻るという考えを否定するイスラム教においてはあり得ないのではないか。本書で書かれるわけではないが、読みながら、ふと思った。しかし、ゴーストという言葉がある。日本人が怖がる幽霊に相当するものが彼らにはあるのか。あるとすれば、彼らは一体どのように解釈して恐怖するのだろう。
調べると、教義的には否定される「幽霊」だが、宗教とは異なる所で民間伝承として存在するのだという。いや、幽霊なので存在はしないかもしれないが、少なくとも想念としては否定されないという。
で、本書は死生観に関する本だ。宗教や国によって、死んだ後にどうなるのかというプロセスは異なる。<輪廻転生プラン、天国か地獄かプラン、霊としてこの世界に残るプラン、無に帰すプラン>の概ね4つくらいではないか。この辺が想像力の限界だ。
この本は宗教や哲学が扱う死生観などを取り上げて考察していく内容だが、どんなプランを選ぶにせよ、道徳や戒律による「査定」とセットで人生を評価されるようなパッケージである。「死にかた論」というのは結局、その対策や心がまえをレクチャーするという事なのかもしれない。デフォルメ化すれば、これも結局は「自己保身」や「死の恐怖からの解放」のように、想像力を働かせた実用的な分野なのである。現状、死後の世界は科学で踏み込めてはいないので、宗教に残された仕事領域という事になる。
そして、信仰にとっては神聖さも重要であるため茶化してはならないのだが、不確かな将来に対し“受験対策としての塾のような宗教“がある。現世における出世のアナロジーでもあるが、この「競争社会において自らの保護を希求する」という事が人間の根源なのだろう。群れの中で捕食されないように他者よりも先に逃げる競争、というのが人類の価値観の原型であるという話だが(最近のお気に入りの理論)、何もかもがそこから抜け出せないままに、様々な形の物語になっているだけなのかもしれない。
天国に行きたいし、高級な生命体に生まれ変わりたいし、子孫に崇められる霊でありたいし…と、これは、金持ちになりたいし、名誉は欲しいしと変わらない。
さて、どのプランを選択して、「傾向と対策」を立てるべきだろうか。
Posted by ブクログ
人生の後半戦に突入した自分の今後を考える参考になれば、と思い手に取る。著者が冒頭で述べている通り、「これ」という結論が容易に出せる問いではないが、末尾で述べている通り、解を模索する試行錯誤の過程を辿ることで、いろいろと考えさせられた。
西洋的な近代合理主義では、二律背反となってしまう「死に方の自己決定」について、古代日本あるいは日本仏教の中に解の手がかりを求めようとすることは、やはり日本人である自分には響いた。
特に心に残った箇所は以下の通り。
●「人格」とは、人を社会的存在として形成する接着剤であり、結節点である。人は相互に、それぞれの「人」の「格」を測定し、評価し、それによって、様々な共感のレベルを作り出し、多様な層をもった社会を生み出す。(中略)社会的存在としての他者に対する共感があってはじめて他者を「人格」として尊重できるのである。(P.51-52)
●われわれは常に「いずれ死ぬ」と思っている。しかし、よくよく考えてみれば、われわれは常に「いつでも死ぬ」可能性に取り囲まれている。だからこの一瞬の生は、常にその奥底に死をもっているというべきであろう。「生」は「死」によって支えられてある、といってよい。(P.79)
●「死」とは、最後の「生」であり、「生」の頂点であり、その到達点ともいえる。「よい生」にこだわる者が、「よい死に方」へと生の最後の精神の緊張を向けるのは当然のことであった。「生の尊重」というなら「死に方」も尊重されなければならない。(P.196)
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佐伯啓思(1949年~)は、東大経済学部卒、東大大学院経済学研究科博士課程単位取得退学、滋賀大学経済学部教授、京大大学院人間・環境学研究科教授等を経て、京大名誉教授。京大こころの未来研究センター特任教授。専攻は社会経済学、社会思想史。一般向けを含めて多数の著書あり。
本書は、月刊誌『新潮45』に連載された「反・幸福論」(2018年6~9月)(同誌はその後廃刊)に、書下ろしを加えて出版されたもの。同連載は、2010年12月から、その時々の時流を勘案したテーマを論じ、いずれも後に書籍化されているが、死生観的な論考がまとまっているのは『反・幸福論』(2012年)、『死と生』(2018年)で、本書はその続編になる。(私は『死と生』は読んだ)
本書は、「安楽死」を導入に、日本的死生観、特に仏教に関わる死生観がメインに書かれているが、著者の他の著書同様、古今東西の先人の思想や著書が引用されており、本書をきっかけに思考を広めるのに大変役に立つ。
「死」、「死にかた」について様々な示唆を与えてくれる一冊である。
(2021年6月了)