あらすじ
一人ひとりが〈私〉意識を強く持ち,他人とは違う自分らしさを追い求める現代.分断された〈私〉と〈私〉を結びつけ,〈私たち〉の問題を解決するデモクラシーを発展させることは可能なのか.人々の平等意識の変容と新しい個人主義の出現を踏まえた上で,〈私〉と政治の関係をとらえなおし,これからのデモクラシーを構想する.
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Posted by ブクログ
ちょうど同著者の『民主主義とは何か』を読み終えたところで、およそ3年ぶりに再読。せっかくなのでここ数年の間に流行したAdoの『うっせぇわ』と簡単に絡めてみる。
「私が俗に言う天才です」と自分は特別であると思おうとすると同時に、「私も大概だけど」と心のどこかでは他人と何ら変わらないことを感じている。そして「ちっちゃな頃から優等生」「社会人じゃ当然のルールです」と押し付けられる理想や自己犠牲に強い不平等感を感じるのである。
「でも遊び足りない/何か足りない」と満たされない思い。それを「困っちまうのは誰かのせい」として、自分の生きづらさを外部のせいにし、「うっせぇわ」と排除しようとするのである。「何か足りない」のは社会における自分の位置や役割、他者から自分へのリスペクトなのかもしれない。
特別でありたいけれども、他者と何ら変わりのない〈私〉。不平等を感じ、不満をもつ〈私〉。そんな〈私〉時代に必要なのは、「うっせぇわ」と他者を遠ざけることではなく、むしろ対話、即ちデモクラシーなのだ。
Posted by ブクログ
現代の日本人、特に若者の抱えているもやもやとした感情や思いを、社会学としてトクヴィルの平等理論を柱に用いて説明。
・〈私〉であることを強く求めるようになっており、そのため〈私たち〉というデモクラシーを起こす事が難しくなってしまっている。社会の中で以前は機能していた、公私をつなぐ中間の存在が、企業など、役割を縮小していることが一因
・一方で、〈私〉であろうとするには、社会が機能していなければならない。なぜなら、〈私〉であるためにはどうしても他との比較が必要であり、かつ、〈私〉でいてもよいという承認機能を持つのは社会であるから。
など。
他、印象に残ったこと。
・社会問題が個人問題として現出する。
・ノブレスオブリージュや名誉、といった概念は階層がある、つまり不平等を前提にした社会において成り立っていた
・グローバリゼーションにより、国家は「美観」を気にするようになり社会との差異を生んでいる。美観を気にする事により、そこについてくる事の出来ない国民を気にかけている余裕がなくなっている
Posted by ブクログ
〈私〉が唯一の価値基準となった現代にデモクラシーを取り戻すことを論じた本。
現代では〈私〉のことは〈私〉が決めることが前提となっていますが、〈私〉だけでは解決できないことも当然ある。そこで、〈私たち〉の意志で問題を解決すること(=デモクラシー)が必要となる。
興味深いのは、現代は「前のめり」の社会になっているという論。全ての人がその仕事の”プロ”であることが求められ。待つことを許さない社会。その中では、今までと異なり、人生の見通しが立たないまま自己コントロールだけが求められる。
そして、こうなった経緯には20世紀から福祉国家化が進み、家族の中でも個人化が進んだため、前提なしの状態で自分の生き方を決める必要性が出てきたため。
ハージの「パラノイア・ナショナリズム」や「人間は希望する主体」といった論も面白い。前者は小熊英二『”癒し”のナショナリズム』で示されたような、”憂慮する市民”が不当に厚遇されているとされる人々(在日永住外国人など)に憤りを示す行為に見られる新たのナショナリズムの潮流。そして後者は、人間を希望する主体であるとし、社会は希望と社会的機会を与えるために存在するという論。もともと、国家と社会は単なる〈強制、被強制〉だけでなく、相互補完的な一面もある。
現代人は自己に閉じこもり、政治や公共について無関心だが、他者の影響を受けやすいという論(リースマンの”他者志向”)がある。この背景には現代人が「自分は然るべきリスペクト(日本語の”尊敬”と異なり、リスペクトする側とされる側の立場が対等の場合でも用いる)」を受けていないと考えているためだとされます。そこで、著者は自己へのこだわりと他者との比較を「共感」で繋ぐ必要があると主張する。
何だか、分かったような分からなかったようで消化不良。もう一度時間をおいて読みたい。全体的には同意できる内容だった。