あらすじ
こころの 疲れを じわじわ癒そう
落語は観て聞いて楽しむだけのものではない。私たちが抱える人生の悩みを改善してくれる効用も持っている。人とうまく付き合うには? ストレスを感じずに暮らすには? 自分に合った働き方を実践していくには? いま最も本が売れている落語家が、「落語流・こころを整えていく方法」を伝授。同時に、「落語はいつ生まれ、どのように発展したのか」「どんな落語家がどんな噺を受け継いできたのか」「有名な噺のエッセンス」など、これだけは知っておきたい落語の基礎も身につく、一石二鳥の1冊。
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立川 談慶
落語家。1965年、長野県上田市生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業後、株式会社ワコールに入社。3年間のサラリーマン体験を経て、1991年に立川談志18番目の弟子として入門。前座名は「立川ワコール」。2000年に二ツ目昇進を機に、立川談志師匠に「立川談慶」と命名される。2005年、真打ち昇進。慶應大学卒業の初めての真打ちとなる。著書に『大事なことはすべて立川談志に教わった』(ベストセラーズ)『いつも同じお題なのに、なぜ落語家の話は面白いのか』(大和書房)『人生を味わう古典落語の名文句』(PHP文庫)『ビジネスエリートがなぜか身につけている教養としての落語』(サンマーク出版)など多数。
落語はこころの処方箋 NHK出版 学びのきほん
by 立川 談慶
談志の偉業の一つが、落語を「人間の業の肯定」と定義したことです。簡単に言いますと、「業」とは、人間のダメな部分ですね。「酒を飲むな」と言われても飲んでしまう。「 博打 をするな」と言われてもやってしまう。落語には、そういうダメな奴ばかり出てきます。
談志自身は、「業の肯定」を「世の常識に対するその逆の非常識を認めてやること」(『本』二〇〇三年四月号) と言っています。世の常識からすれば、しくじった奴、ダメな奴でも、「しょうがねえなあ」と笑いにしてくれるのが落語の世界です。失敗しても、「まあ、そういうもんだよ人間って」と認めてくれるので、落語を聞くと、なんとなくほっこりした気分になれるもんです。だから今、世の中に落語が求められているんじゃあないでしょうか。
こうして仏教から派生した落語は、今も仏教と重なる部分が多くあります。談志は落語を「人間の業の肯定」と言いましたが、仏教も実は同じです。人間の弱さを許し、手を差し伸べるのが仏様の慈悲深さですよね。落語の噺も、仏教の説法も、訴えていることは一緒であり、兄弟みたいなもんです。できの良い堅物の兄が仏教で、やんちゃな弟が落語と思っていただければよろしいかと。
演者の言葉、表情、上半身の動きだけで、「今、八っつぁんのところに、 熊 さんが来たんだな」「熊さんは怒っているけど、ありゃあ内心笑っているな」などと、お客さんが想像して間を補ってくださるからこそ、落語が成り立ちます。江戸っ子は「忖度気質」が強かったからこそ、落語を聞くセンスに 長けていたのではないでしょうか。
落語と同じく、江戸時代に人気を得た話芸に「講談」があります。「パンパンパパンパン!」と 張り扇 で 釈台 を叩きながら、独特の調子をつけて軍記物などを語るアレですね。題材は、源平合戦や戦国武将の武勇伝などの歴史物語、名工や名医、力士などの偉人伝。落語がほぼ会話で構成されているのに対して、講談はストーリーに注釈をつけながら一人語りをするのが特徴です。
講談というのは、講談師が張り扇で釈台をパンパンと叩いて、自分のしゃべりに調子をつけます。あの音で「私はしゃべる人」「あなた方は聞く人」と、かっちり分断しているような感じがしませんか。私はするんです。 セパレートするのが講談ならば、お客さんとの「共感ありき」が落語。この落語の共感力が、現代の私たちに求められる力だったりするのですが、この話はあとのお楽しみということで。
それは、古典落語が作品として完成度が高く、普遍性があるからです。落語家は、その名作を自分なりにアレンジして、オリジナルの話芸に昇華させて 披露 します。だから、同じ噺でも人によって、時によって違う作品として楽しめる。これも落語の特徴ですな。
「宵越しの銭は持たねえ」は、江戸っ子の潔さを象徴する、まさに博打的な気質です。本当は江戸っ子だって、「ちゃんと貯金をして落ち着いた暮らしをしたい」と思っていたでしょう。でも、貯め込んでいることを知られたら、「アイツは江戸っ子の 風上 にも置けねえ奴だ」と言われますから、「てやんでえ、こちとら江戸っ子でえ!」と、博打的に生きなくてはなりません。前章でお話ししましたように、長屋暮らしの連中は周りの目を常に気にしていますから、精一杯カッコつけていたんでしょう。これはこれで、大変だったでしょうな。
そんな見栄っ張りな江戸っ子気質から、「宵越しの銭は持たねえ」というポリシーが生まれ、お金を使い果たした結果、江戸の経済が回り続けたという面もありました。江戸時代は、何度か大不況もあり、米騒動なんかもありましたが、政権を 覆すような暴動は長らく起きませんでした。それは、江戸っ子が宵越しの金を持たず、経済を回していたからかもしれません。
人とは違う自分の居場所を見つけて、そこで頑張っていれば、何しろ、比べる相手がいませんからね。良い意味で「お山の大将」になれるわけです。 人との差が気になって仕方がない人は、自分の居場所を見つけて、自分だけの山に登ればいいのではないでしょうか。みんなが登る山に登っても、「上だ下だ」と比べて疲れますし、他人に決められた頂上にたどり着いたら降りるしかありません。 みんなが「自分だけの山」に登って、「自分のお山の大将」になればいい。そうすれば、「勝ち負け主義」から「引き分け主義」に変われます。自分だけの山には、頂上がなく、いつまでも登り続けることができます。なんと言っても、自分だけの山に必死で登っていれば、悪口言ってる 暇 なんてないですからね。
日本では、休みなく働くことが長らく美徳とされてきました。働くことが社会貢献、働かないのは何もしていないダメな奴、という価値観が根強くあったわけです。いわば「働くこと」の正当性を追求しすぎて、社会が息苦しくなっているのではないでしょうか。 そんな現代日本の病理とも言える「働くこと」への 呪縛 を見直す、そのヒントとなるのが、これまた落語なのです。 落語の舞台である江戸時代には、当たり前ですが、正規雇用とか非正規雇用とかいう概念がありませんでした。あとで詳しくお話ししますが、「働く」という概念が今とは違い、「働く・働かない」を明確に分けていなかったのではないかと思います。
そして落語に出てくるのは「人間の業」ですから、誰もが「そうそう、人間ってダメなんだよね」と共感できます。だから落語を聞いていると、自然と共感力が身に付くんです。 共感力は、分散力でもあります。何か困ったことがあっても、共感すれば分散できます。「今日は暑いですねえ」「暑いねえ」「ホント、暑いよねえ」と言い合うことで、暑さが 和らぐことってありますよね。共感し合うことで、困難も分散して、やり過ごせるんです。そういうやり過ごし方、折り合いのつけ方を、落語は語り続けてまいりました。
今の世の中は、SNSを見てもわかるとおり、「俺が、俺が」という自己主張があふれています。まあ、SNSは自己アピールの場ですから、「俺が、俺が」が当たり前です。しかし、それがギスギスしたマウントのとり合いになることは、先にも述べたとおりです。
一方、江戸の町というのは、薄っぺらい壁の長屋がぎゅうぎゅうにひしめき合っておりまして、「俺が、俺が」なんて自己主張をしていたら、「お前、ちょっと黙ってろ」と怒られてしまいます。そこで、自己主張するよりも、「世間様」の顔色を見て、「お互い様」と譲り合って、ぶつかり合いを避ける知恵が必要だったのではないでしょうか。
前にも述べましたが、談志は「与太郎はバカじゃない。非生産的な奴だ」と言いました。確かに、自己主張をせず、周りの言うことを素直に受け入れ、結果的に助けられているのは、ある意味、非常に「賢い」振る舞いです。「俺が、俺が」と主張するのではなく、「呼ばれたら行く」というしなやかさは、周りと調和するための高度な 叡智 とも言えましょう。
ついでに言えば、与太郎は怒ることがありません。江戸っ子というのは短気で、落語にも誰かが怒る場面がよくありますが、与太郎に関して言うと、どの噺を聞いても、怒っているシーンが見当たらない。それほど優しい男だからこそ、みんなに愛されていたんでしょう。
与太郎も同じです。バカの強みで、目の前のことを一生懸命、愚直に行います。ひたすら愚直に親孝行していたら、町奉行の目に留まりました。そして、無茶ぶりをされても、愚直に唄って飴を売り歩いていたら、その飴が大ヒット商品となりました。 おそらく与太郎は、周利槃特のように雨の日も風の日も、ひたすらコツコツと飴を売り歩いていたと思います。そんなことしても、売れるかどうかわからないのにもかかわらず。売れるかどうかは天に任せて、一生懸命、囃されたら踊るのが与太郎の才能です。
この「愚直にコツコツ」という姿勢も、江戸にあって現代にないものでしょう。その対極にあるのが、現代の「コスパ」という言葉です。この言葉が頻繁に聞かれるようになってから、日本はさらに世知辛くなったように思うのですが、どうでしょう?
つまり、落語は時代を超越しているのです。設定は古くとも、そこには現代が表現されているだけではなく、未来が予言されているとも言えるのです。 未来の人間も酒でしくじったり、女性で失敗したり、賭け事に狂ったり、知ったかぶりして恥をかいたり、そそっかしいミスをして謝ったりと、きっと過去や現在と同じようなパターンでつまずくはずです。
Posted by ブクログ
ひょい、と。
ときどき一緒に落語に行く同僚が、「読んでみ」と渡してきた。
ゆる〜い生き方を進める立川談慶さんのエッセイ。
落語の魅力、共感させる力、勝ち負けではない、働かない人もそれなりに近所と共存していた江戸時代の人々と気質、人情•••。
いいなぁ。
ここ数ヶ月、落語のYouTubeを子守唄代わりにしている僕。
効率を重視し過ぎて、近年、仕事もプライベートも息が詰まりそうだもんな。
ありがとう、とてもいい本だったよ、とても面白かったよ。
礼を言って同僚に本を返すと、
同僚は、「私はそんなにいいとは思わなかったけど•••」
なぜ、そんな本を推してきた?
共感さえもないオチやんか。
でも、僕には心に響くエッセイだったな。
Posted by ブクログ
このシリーズの「役に立つ古典」で、「俳諧」が笑いを表すものだと知った。そこから笑いは日本の文化に根差した奥深い何かがありそうだと、本書を手に取った。
「落語とは人間の業の肯定である」
落語家立川談志のこの言葉は落語の本質をついていると筆者は言う。
人間は業の塊で、落語はその人間のだめなところ、弱さを明るくテンポよく伝えてくれる。それをみた観客は「自分にもそういうことがあったなあ」「誰でもだめなところはあるよなあ」と弱さを受け入れてくれる落語を聴いて安心する。勝ち負けの二元論が蔓延り失敗できない窮屈な社会にいるわたしたちを、リラックスさせてくれる。だから落語の笑いはほっとした笑いなんだそう。
自分を受け入れてくれる場があることで自尊心が高まり、相手と比べることのない自分らしい道を歩むことができる。そんな力が落語にはあったのだと読み進めるにつれ感激した。落語のようなほっと一息つくような場がこの時代には必要だ。
私も自分より頭がよかったり活動的な人をみて自尊心が損なわれることがある。でも他人と比べてばかりでは仕方がない。やはり、週に一度は課題も仕事もしない日を確保し、自分の山を登り続けること、自分らしさを磨き続けることを人生の軸にしたい。
落語の作品を紹介しながら今の日本人が学ぶべきテーマについても書かれており、助け合いが当たり前だった長屋の地域コミュニティについて特に関心を抱いた。人が地域の人に甘えられるにはどうしたらいいだろう?
Posted by ブクログ
話し言葉で書かれているからスラスラ読めるし、落語家さんだからその言葉も面白くてあっという間に読んでしまった!
落語に出てくる江戸時代の江戸っ子みたいにテキトーに暮らしたら、だいぶハッピーに生きられそうな気がする。
Posted by ブクログ
談志のお弟子さんの談慶さんが落語の基礎知識、江戸時代の心持ち(人生、負けてもいい、あくせく働かなくていい、心のあそび、しなやかさ)の紹介を通じて、現代人のための心の処方箋を書いてくれています。
Posted by ブクログ
落語の世界=江戸時代の町人の暮らしと現代の生活を対比させながら、現代で失われてしまった大切なものは、落語の世界に見つけることができるのではないかと、筆者は主張する。
だから、落語を聞いて価値観をシフトチェンジさせることで、息が詰まる現代も、より楽に生きていくことができる、つまり、落語は「こころの処方箋」になると提言している。
筆者の視点は鋭く、それでいて全体を通して噺家特有の柔らかい口調で語られているので、読みやすく、かつ気付きがたくさんあった。
特に、落語は「人間の業の肯定」であるという定義がとても印象的だった。(噛み砕くと"ダメなやつでも、しょうがねえなあと許容する世界"だろうか)
現代の"コスパ至上主義"や、「成功/失敗」の二元論で片付けがちな価値観によって失われたおおらかさのようなものは、落語の世界を知ることで回復させることができる、という筆者の考えはとても新鮮で、そういう視点を持って落語を聞いてみたいと思った。
これまで僕にとって落語は、「興味はあるけれどどこか高尚な気がして、どこから入ればわからない」ものだったが、この本を読むことで、落語の世界に一歩踏み込んでいけそうな気がしている。
落語の世界への架け橋となる、とてもいい一冊だと思う。
Posted by ブクログ
江戸のようにはいかないことも多々あるな…と読んでいて思った。(それが過去にだめだったから今は変わったんだろうな、と。)
物騒なことが増えたから人は必要以上にコミュニケーションをとらなくなってしまったのだろうな。
少子化になって、日本の人口が減ったらまた近くの人と助け合って生きられるようになるのかしら。
「愚直にコツコツ続ける」ことを肯定してもらった気がして嬉しかった。
たしかに、コツコツ続けられることだって立派な才能だよねぇ。
Posted by ブクログ
落語はCDで入ろうとして挫折したんだけど、やっぱりまず、動きまで含めた動画なりライブなりを体験しないといけませんわな。本書で語られるように、その噺自体に気付きがあるのかもしれないけど、なら読書でも良くないか?って思っちゃう。それはともかく、本書で取り上げられた題目の数々は、少なくとも一度聞いてみたいなって思える内容のが多かった。