あらすじ
――私は野球を憎んでいます。
その年最高の投手に与えられる特別賞「沢村賞」に名を遺す沢村栄治。
職業野球選手一期生として活躍し、太平洋戦争中に兵士として27歳で命を散らした男は、死の直前そう書き残しました。
六大学野球が全盛の時代に、職業野球(プロ野球)は、スタート直後世間の蔑視に晒されていました。
中学の野球部で指導を受けた監督の縁があった慶応大学への進学を夢見た沢村栄治は、家庭の経済状況から果たせず、中学を中退して出来てまもないプロ野球の世界に。
その後は親族が無軌道に膨らませていく借金に拘束されて、学業に戻ることも叶わず、その結果、戦争の状況が悪化すると、沢村には徴兵猶予の特典もなく、戦死するまで繰り返し兵役へ駆り出されました。
日米戦ではベーブルースと対峙し、アメリカにも二度渡ってその名を轟かせた沢村栄治の軌跡と、波乱にみちた職業野球の誕生の物語を自身も東大で六大学野球をプレイした作家が描きます。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
戦前の日本プロ野球における伝説の名投手、沢村栄治。わずか17歳にして日本代表に選ばれ、ベーブ・ルース率いる全米選抜チームと対戦。日米には圧倒的な実力差がある中で、ピッチャーの彼だけが互角に渡り合う。その翌年、日本プロ野球選手によるリーグ戦が開幕し、巨人のエースとして沢村は活躍。3度のノーヒットノーランなど、圧倒的な実力を見せつける。
しかし、沢村栄治が活躍したのは17歳から20歳にかけての短い期間。今のようにプロ野球選手が世間の尊敬を集めることはなく、選手不足による過度な負担、3度の徴兵、親族の借金肩代わりなど、彼の野球人生は決してめぐまれていたとは言えない。青春時代を野球に捧げたことについて、「野球を憎んでいます」と記した手紙も残されている。
それでも彼は野球に頼るしかなかった。野球選手であることが彼の誇りでもあった。が、徴兵されるたびに野球選手としての実力を失い、ついにはチームから解雇される。そして、わずかな結婚生活を経て、3度目の出征直後に戦死する。
プロ野球というシステムが試行錯誤されていた時代、一人だけ突出した才能を持ったことは、彼の名を後世に残したが、彼の幸福を妨げるものだった。
Posted by ブクログ
沢村栄治が今の整った環境で野球をしたら、どのくらいの記録を残したのだろう。すごく見たい!
しかし、昔のピッチャーは投げすぎだなあ。そりゃ選手生命短くなるわ。
Posted by ブクログ
戦時中のことは詳しくわからないが、出征して復員してまた出征してを3回も繰り返すという人生はなんと過酷なものだろう。まだ20歳台前半から後半の人だから、とはいえおそらく今の日本の同年代よりははるかに精神修養がされていたのだろうが、それでもよく生きようとしたものだ。
たった2年、いやもちろん、現役時代はもう少し長かったのだろうが、光輝いた時間は本当に刹那的で短く、されど、非常に眩しく輝いたのだろう。
残念ながら、ウォーミングアップのような投球しか、YouTubeを見ても出てこないのは残念だけど、この目で間近に見てみたかったな、その華麗なフォームを。そしてキレのある球を切る音を。
Posted by ブクログ
日本がどうやって愚かな戦争に関わったのか、そして二度と再び過ちを犯してはいけないかを強く考えさせられる伝記です。と同時に「昭和」のスポ根がいかに不条理であったか(「楽しんで!」ってのは嫌いですが)日本の国技プロ野球。ありがとうございました。
Posted by ブクログ
プロ野球投手最高の栄誉のひとつ、「沢村賞」に名を残す沢村栄治。あのベーブルースをも打ち取った彼の全盛期はほんの2年弱だった。親族の巨額の借金、3度の徴兵、そして巨人からの非常な解雇。なぜ?沢村栄治は「私は野球を憎んでいます。」と書き残したのか???
Posted by ブクログ
伝説の名投手沢村栄治。華々しい活躍の影。「私は野球を憎んでいます」。27歳で戦場に散った大エースの生涯。
「沢村賞」に名を残す伝説の名投手沢村栄治。全盛期は17から20歳までのほんの2年弱。六大学野球に憧れながら貧しい家庭事情から当時地位の低かった職業野球入り。三度の出征。大エースの好記録の影、哀しい男の生涯が描かれる。
永久欠番、野球殿堂などの華やかな部分だけだでなく、本書は出征から復帰後、肩を痛めた投手の残酷な現実と巨人軍からの解雇など負の面も多く記述。救いはファンの令嬢との恋愛結婚と4か月しか一緒に過ごせなかったが愛娘の存在か。
筆者は東大野球部で六大学野球の経験もある方。沢村の最速の球速の推測など技術面が光る。
巨人軍の負の歴史も言える面、戦前の職業野球の歴史としても面白い。
Posted by ブクログ
沢村栄治がホップする球を投げていたと言われる理由 「速い縦スピンのある球は、大きな揚力を得ると同時に初速と終速の差が小さくなる。つまり英治のボールは、百二十キロ程度のお辞儀するボールの軌道を見慣れた打者から見ると、おそらく数十センチは浮き上がりながら伸びて加速してくるように感じただろう」
フォームもしなやかで、スピードも、身体と球場のコンディションが悪い中で、150キロ代後半のスピードがあったと推定される(映像から)。
大投手でありながら、時代と実家の貧しさに翻弄された短い人生。
戦争さえなければ、どれだけの活躍をしただろうと惜しまれるとともに、二度と全体主義的な国家・社会を出現させてはならず、二度と戦争をしてはならないと、強く思う。