あらすじ
『法華経』は、釈尊入滅から約五百年後、紀元一世紀末から三世紀初頭のインド北西部で誕生したとされる。日本には六世紀半ばに伝わり、『法華秀句』を著した最澄や「法華経の行者」を自任した日蓮から、松尾芭蕉、宮沢賢治に至るまで、後世に広く影響を与えた。本書では、サンスクリット原典の徹底的な精読を通じて、「諸経の王」とも称される仏典の全体像を描き、平等な人間観に貫かれた教えの普遍性と現代的意義を示す。
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法華経にある火事や出戻り息子の話をただの教訓話的なものにしか考えていなかったが深い意図があることが分かった。仏教の成り立ちからなぜ法華経が出てきたのかどのような内容なのかが書いてあり正直いうと植木先生のサンスクリット版法華経そのものよりもこちらのほうが読みやすかった。
本書の意図とはずれるだろうが植木先生の言葉1つも疎かにしない追及心に感動した。
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上座部≒小乗仏教もゴータマ死後、「ブッダ絶対視・唯一無二論≒『神格化』」「女性差別」「教団維持の自己目的化」などの在世当時からの逸脱をしていた。
「大乗興起」とは、ブッダの真意に立ち還れという教団の内部変革運動であったことが法華経原文から読み取れる、とする。
なぜ紀元前5世紀頃の「枢軸時代」に相次いで現代までつづく「世界宗教(土着・民族宗教を超えて)」が複数、生まれたか?同時期に物々交換から経済は“貨幣”=moneyに移行し最初のグローバリズムが芽生えた。長者窮子・衣裏宝珠の譬など商業資本の台頭を想わせる。シャカの死後、教団の統制のため二百五十、五百戎が定められ、女性差別人種差別が横行し、原点への回帰運動が大乗興起であったと、サンスクリット原典の解釈から論証する。
近代文明の合理主義が処理できないものは人間の死。それをカバーする宗教は不滅だが時代によって千変万化
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法華経がどういうものなのか初めて知った。法華経の教えの概要はもちろんのこと、法華経が小乗仏教・大乗仏教の分裂や対立の中で釈尊本来の教えに返るべきことを説くものとして成立した歴史的背景、そしてその教えには平等の精神など現代的意義があることなど色々学びがあった前から思ってたけど釈尊は宗教家というより哲学者っぽいですよね。ただ信者は宗教を求めてるので宗教的に派生・進化した。その経緯や融合が面白い。
法華経の正しい教えを伝えるのには必要な記述なのだと思うけど、過去の法華経研究者の誤訳を執拗に指摘する件が続く冒頭は読んでてだいぶ滅入る。
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サンスクリット原典から独自に翻訳を果たした著者が「原始仏教に還れ」というメッセージを旨とする法華経の思想を解説。
法華経がどんな内容かということにとどまらず、本来の仏教とはいかなるものかということについて、実に示唆深い内容だった。人間を超越した仏を崇拝するのではなく、人間として自らが善い行いをして仏になるというのが本来の仏教の教えなのだと理解した。
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法華経は名前はよく聞いても中身はそんなに知らなかった。この本は仏教の研究者が法華経について成り立ちや人々に与えた影響、概略の中身などについてまとめたもの。法華経が書かれた当時の仏教思想などについても触れられており、そもそものブッダの教えやインドでの仏教というものについても知ることができた。
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執拗にこれまでの誤訳を指摘している。
法華経が生まれた歴史的背景についても詳しく、法華経の論理を一貫した視点から説いている。
『シンガーラの教え』の「夫は妻に五つのことで奉仕せよ」に感動した:1.妻の自立を認めよ。2.妻を尊敬せよ。3.妻に宝飾品を買い与えよ。(財産を持たせろ)4.妻を軽蔑するな。5.道に外れたことをするな。
不軽品の詳細な解説に認識を新たにした。
Posted by ブクログ
自分の家の宗派が日蓮宗のため、「南無妙法蓮華経」のお題目として、『法華経』のことは知っていた。言い方を変えると、タイトルしか知らず、中身については、まったく知らなかったわけなのだが、指導改善研修の一貫で、禅について勉強をしている流れで、『法華経』についても勉強をしておかなくては、と思い、読むことにした。
まず、第一印象として、『法華経』の内容が、思っていたのとまったく違っていた。お経といえば、葬式のときにお坊さんが唱えているイメージしかなかったので、てっきりその内容は、一種の呪文のようなものか、はたまた哲学書のような思想の解説か何かかと思っていたのだが、冒頭から釈尊が出てきて、何やら弟子たちに向かって語りかけ始めたので驚いた。お経というのは、一種の寓話になっていて、釈尊の言行が、物語の形で伝えられているものだったのである。そのため、本書の大部分を占めている『法華経』本文の解説は、当初期待していたような内容とは、まったく違っていた。
そうした読む前の心構えとのずれもあって、はっきり言って、肝心の『法華経』の中身については、まったく記憶に残っていない。類書も読んで、色々な文脈で触れない限り、なかなか内容の理解には至らなさそうである。
大雑把に掴めたのは、とにかく『法華経』の目指すことが、原始仏教への原点回帰であるという点だ。釈尊が在世中には、本人が生きていたこともあって、その教えはきちんと守られていた。しかし、釈尊滅後、時代がくだるにつれて仏教は権威化し、本来、万人が成仏できるはずであるとされた平等思想は、男性出家者だけが救われるとされる差別思想へと変化を遂げてしまう。
こうした思想は、一部の人間しか救われないという皮肉を込めて「小乗仏教」と呼ばれるようになる。そこに対するアンチテーゼとして生まれたのが、三世紀ごろに成立する、「大乗仏教」であり、その最後に生まれた経典が、『法華経』だった。
『法華経』の内容については、あまり掴めなかったが、その歴史的位置付けについては、非常によく分かった。というのも、この本では、『法華経』成立以前のインド仏教の実態について、かなり詳しく説明をしてくれているからである。
仏教の歴史について明るくない自分としては、この第二章のパートは、非常にありがたかった。「上座部」とか「大衆部」とか、「小乗」とか「大乗」とか、昔、歴史の授業で聞いた覚えがある程度の知識しかない仏教の諸派について、かなり整理して理解することができる。特に、釈尊在世中の「原始仏教」から、釈尊滅後の「部派仏教」にかけて、仏教が様々な側面で権威化していくというストーリーラインを理解することができたのは、仏教の解説をするときに、非常に有効な補助線になってくれそうで、有意義だった。
最終章の、「法華経の人間主義」も面白かった。「自帰依」と「法帰依」の二つの言葉で説明されていたが、「原始仏教」において、釈尊は、成仏に向けた仏道修行の拠り所として、自らを拠り所とすることと、善く生きるための理法としての「法」を拠り所とすることを重視していた。それにより、男女の如何、在家か出家かの違いに関わらず、誰もが成仏することができるとするのが、釈尊の教えだったとされる。
しかし、後世に至って、この教えは形骸化し、ストゥーパのような偶像が崇拝されるようになり、釈尊は、特別な存在として非人間化され、信仰の対象となっていく。挙句、男性であることと、出家者であることが特権化され、女性や在家の人々の地位は、不当に貶められていくことになる。
このことを象徴する出来事として、「法身」という言葉の意味が変化していくことが語られているところが面白かった。本来、「法身」という言葉は、「法の集まり」程度の意味しか持っておらず、釈尊が残した善く生きるための生活の理法という意味の「法」を指していた。しかし、のちにこれが、「永遠の仏」というような意味に解されて、釈尊が滅することなく現在も生きているといった解釈までなされるようになる。
このことは、一般大衆たちが、何か神聖で超越的なものを信仰したいという欲望を持っていたことを意味するだろう。誰しも、面倒な修行によって自分が仏になれるというよりも、仏という特別な存在になった何かを、崇めるだけで救われたいのだろう。
『法華経』の後半の六章は、原文にはなく、時代の要請に従って、後世に付け加えられたものなのだと考えられているそうだ。というのも、そこには、釈尊が嫌ったとされる陀羅尼であったり、原始仏教には見られない焼身供養の記述があったりと、その思想からは、必ずしも出てこない内容が出てくるからである。
これらは、仏教の教えを大衆に広めるあたって、大衆の欲望を叶える形で付け加えられたものではないかと分析されているようである。ある意味、俗化していった小乗仏教に対する批判として現れたはずの大乗仏教の経典が、その最後に、また、一つの俗化の傾向を表していることは、皮肉なことである。
『法華経』が現れてきた歴史を見ることで、宗教というものが、どのようにして変化していってしまうものであるのかといったことや、多くの大衆が宗教に何を求めるのかということが、見えてくる。一つの経典について学ぶという以上に、一つの宗教の成り行きを理解することのできる本として、この本は、非常に優秀だと思う。『法華経』を知りたいという人もそうだが、仏教全般の歴史について、その大まかな流れが知りたいという人にも、おすすめできる本だと思う。