あらすじ
日本が緒戦の勝利に酔っている頃、アメリカはすでに対日占領政策の立案を始めていた!
「真珠湾」から半年余、わが国が緒戦の戦勝気分に酔っていた頃、米国ではすでに対日占領政策の検討に着手していた。そして終戦。3年の歳月を要した米国による戦後日本再建の見取り図はどう描かれ、それを日本はどう受け止めたか。またそれを通じ、どう変わっていったか。米国の占領政策が戦後日本の歴史に占める意味を鳥瞰する。吉田茂賞受賞作。
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Posted by ブクログ
この本のメインはアメリカ国内の知日派の動きによって、アメリカの対日占領政策がどのように変わっていったのかを中心に説明する。それは第一次世界大戦の講和への準備不足の反省に立っていたと言う。そこから欧州で戦争が始まった時にアメリカは戦後秩序の構想を始め、日本が緒戦の「勝利」にわいている時に、対日占領政策を始め戦後のあらゆる問題への対応が始まった。
当時のアメリカ国内の感情を反映し、ルーズベルト大統領も無条件降伏を求めており、終戦二ヶ月前のアメリカ政府の決定は軍政の直接統治だった。しかし、アメリカ国内にいた、わずか数十人の知日派が政策に加わり、対日占領の性質が日本の「無力化」(当初は本土戦を想定、その後直接統治による政府の解体を想定)から、「安定と復興」にシフトしていく様は、アメリカ政治の通気性の良さと優秀なスタッフに驚く。知日派と言われる人々は立場に差はありながらも、戦前の穏健派(具体的には若槻、浜口、幣原などロンドン軍縮条約時の主導者を評価している)を挙げながら、日本人自身の手で民主化を実現させ事は可能で、それを占領政策はそれを誘導するものとすべきだと主張した。読者はその過程で知日派の働きで、東京の空襲で皇居が外された事、皇室が残された事、原爆の対象に京都が外された事などを知る事が出来る。(一方で宮家の大幅な削減がなされているが)
それと比して、日本の政策決定の遅さと政治指導者のセクショナリズムに目に余る内容だ。グルーはソ連とのヤルタ協定を知り反発し、また原爆の完成、投下を懸念し、対日降伏を早急に引き出すべく天皇制の存続を保証すべく奮闘するが、ポツダム宣言ので天皇制の保証はなされなかった。ポツダム宣言の意図を正しく解釈し、国体護持のみを条件に降伏すべきと主張する外相に対し、広島に原爆が落とされた後も、上記に加え戦争犯罪者、武装解除、占領のあり方を条件にし、広島への原爆投下の後も、アメリカの原爆は一つかもしれないという軍部の主張には、唖然とする。また、広島に原爆が落ちた後、3日経った最高戦争指導会議開催に筆者は「犯罪的な緩慢さ」であるといい、ソ連対日参戦と二個目の原爆は防げたかもしれないと示唆している。
読後感として、3,11以後の危機対応に同じものを感じる。政治指導者のリーダーシップの欠如などと言われるが、明治憲法における政策決定過程と、現行憲法には制度上は雲泥の差がある。しかし党派問わず今の政治にも国民生命への危機感及び責任感は感じられず、官僚の保身的セクショナリズムも変わってはいない。知日派の思いとは裏腹に手続き的な制度だけを輸入しても日本人のエートスはあのころのままなのだろう。
終戦への過程で天皇が自ら語らざるを得なかった。「…人民を破局より救い、世界人類の幸福のために…」と仰せ、再度、「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」と口にした。この事は慣習を破った事を意味したが、緊急事態における政府停止の故のものであった。今まさに、国難のさなか、声明を出し被災地へ向かう姿に、被災者の高齢の方々は感銘をうけただろう。国難に際し政治が希望を与えられない時、国民へ語る天皇は、「封建制の残滓」ではなく、日本人の琴線に触れる存在となる。