【感想・ネタバレ】諏訪式。のレビュー

あらすじ

神秘と技術と才能が生まれる場所、諏訪。
——多くの仕事や人が、どうしてこの地から生まれたのか?


長野県の諏訪は、諏訪湖を中心に八ヶ岳や霧ヶ峰も含む広大な地域。
諏訪湖は中央構造線とフォッサマグナが交わるところ。

まわりには縄文の時代から人が暮らし、諏訪信仰がいまも息づく。
江戸時代の繰越汐による新田開発、近代に入ると片倉製糸が栄華を極め、その後、東洋のスイスと言われるほど、精密機械の会社が数多く興った。

セイコーエプソン、ハリウッド化粧品、ヨドバシカメラ、すかいらーく、ポテトチップスの湖池屋、岩波茂雄、島木赤彦、新田次郎、武井武雄、伊東豊雄…… 。
多くの仕事や人は、どのように生まれたのだろうか。


ただならぬ場所、諏訪の地力を、丹念な取材で掘り起こす歴史ノンフィクション。


【目次】
第一章 シルクエンペラーと東洋のスイス——近代ものづくり編
第二章 ゴタたちが編んだ出版ネットワーク——近代人づくり編
第三章 〝空〟なる諏訪湖の求心力——土地となりわい編
第四章 人と風土が織りなす地平——科学と風土編

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Posted by ブクログ

ネタバレ

著者の諏訪推しが強すぎてちょっと偏った印象を受けるけれども、自分が長野にもルーツの一部を持っているからなのか、共感できるいいこといっぱい書いてある。背負って運べる軽くて小さなモノづくり、なるほど。

また、しばしば著者の生まれ育った宮前区土橋との比較が取り上げられるのだが、著者と世代が近く同様に多摩丘陵が切り拓かれた住宅地で育った自分には著者が見た風景や感じることがすごくよくわかる。
丘の斜面には地方から出てきた教育熱心なサラリーマン家庭の住宅が行儀よく並んでいたが、まだむき出しの造成地もあって、低地には沼がありかやぶき屋根の農家もいくつか残っていた。新住民の子は夏休みはみんな「田舎」に行き、農家の子は勉強はからっきしダメでろくすっぽしゃべれもしないのだが運動神経は抜群、体育の時間はびゅんびゅんバク転していたのを覚えている。


P007 無自覚に、外からやってくる目新しいものをありがたがっているうちに、「町は誰かが作るもの」という他人任せな気分が支配し、地域の主体性、ひいては自分自身の主体性をも明け渡してしまっていた。

P055 「人が背負う」姿に、諏訪の人たちはひとしおの思いを持っている・・という気さえする。【中略】諏訪のモノ作りが得意とする「軽くて小さなもの」。そこには「人が背負う」という感覚がDNAに刻まれ、モノづくりに反映されているように思うのだ。

P073 諏訪では「山浦」という言葉をよく耳にする。【中略】「山浦の人は、田畑に出るにも本を持っていくような人たちでね・・・」という言葉には深い憧憬が込められているように感じた。つまり、田畑に立つ頑健な体と、向学の精神を持ち合わせているということだろうか。

P096 少なくとも明治生まれの人は、自分自身あるいは両親を通じて風土に呼応しはぐくまれてきた「江戸の身体」をもちあわせていたことは間違いない。それは「江戸以前」の遥か昔に連なる身体でもある。

P101 諏訪人は「なんとかやってみよう」と取り組み始めると「なんとかやり遂げてしまう」のである。【中略】ド根性で力に任せてやり遂げるというのではなく「手を変える」「目先を変える」「考え方を変える」という柔軟な思考と繊細なアプローチ、そのうえでの「やりぬく精神力」に鍵がありそうなのだ。

P117 生まれ変わった我が街(宮前区土橋)に移り住んできた人の多くは「通勤に便利」という理由でやってきた。そんな彼らが住む「コンクリートとアスファルトの上」からは「旧住民」の私たちが築いてきた地域の文化や暮らしは、目に映ることがなかった。大多数を占めるようになった彼らの「目に映らないということが、旧住民の意識にも大きな影響を与えた。【中略】手放すべき「因習」と共有すべき「軸足」の見極めは難しい。

P196 諏訪湖は岡谷市、下諏訪町、諏訪市の三つの地域にまたがっている。かつては、茅野、富士見のほうまで諏訪湖が広がっていたと考えれば、諏訪湖を取り囲むように人は円座しているようにも見える。【中略】人間だけが集う場所には上下が生まれ、利害が生じる。しかし、諏訪湖に意識を向けて、神や仏を宿らせることで諏訪は結び合ってきたのではないか。諏訪湖は中央構造線とフォッサマグナの交わるところであり・・・日本列島のへそであり、”空”でもあるのだ。

P229 (三澤勝衛は)スライドによる視聴覚教育のはじめだったろうと言い・・・また板書をノートに写すことを許さなかったというのは有名な話だ。

P230 「こら、人の言ったことを書いて何になる。自分で考えろ」
「渇したところへ水をやること。まず聴講者なり、被教育者なりの咽の乾くのを待って、あるいは盛んに空腹を訴えるようになったところへ、水なり、飯なり、その要求するものをやる」「将来必要だからこれを覚えておけ、あれもやっておけと、まだ食欲も出ないうちから、食物を与えるから、いわゆる詰込み主義の教育という変態的なものができるのである。」

P248 「風土に働いてもらう。風土を産業の要素に織り込んで働いてもらうことこそ大切なのです」
その土地(風土)が天然自然に持つ力「天恵」を最大限に引き出す農業や産業を望ましいと三澤は考えていた。

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2022年07月20日

Posted by ブクログ

ネタバレ

新作映画のロケで諏訪を訪れた著者が、諏訪に何か恩返しをしたいという思いでまとめたのが本書である。著者を魅了する諏訪とはどのような土地なのか、何がそこまで著者を惹きつけるのか。諏訪の企業や人、風土について諏訪への愛情あふれる筆致で描き出している。

「土地にしっかりと根をはり、自らのバックボーンを力として生きている人びと」を著者は「軸足のある人」と呼ぶ。諏訪人は著者のいう「軸足のある人」なのである。軸足のある人によるものづくりは風土に馴染む。「諏訪にあるもの」を主軸に据えているので、諏訪の企業や産業には「ものづくりのDNA」が受け継がれている。その一方で気候環境の厳しい諏訪では、人びとが「自分で考え工夫する力」が求められてきた。熱心に勉強し、創造性を発揮しながら「なんとかやってみよう」とする。3代目武居代次郎が発明した「諏訪式繰糸機」はまさしく勤勉性と創造性の産物で、諏訪の製糸業が地位を向上する契機となった。諏訪のものづくりには「諏訪にないもの」である外来の技術を取り込んでうまく利用するという特徴があるという。この「合わせ技」こそが「諏訪式」なのである。山田正彦が出向で居合わせた小川憲二郎を誘って興した三協精機(オルゴール)や、「諏訪人の熱意と疎開組の技術力」が生んだ諏訪精工舎(腕時計)は合わせ技の威力を物語っている。

合わせ技を成功させるには当事者に強い信念と並々ならぬエネルギーが必要だっただろう。そうでなければ合わせ技は簡単に返されてしまい、地元企業は外来企業にのみ込まれてしまったに違いない。こうした人たちのなかに著者は「ゴタっ小僧」の面影を見出す。ゴタにはやんちゃとかきかん坊といった意味があり、確かにゴタは芯の強さと表裏一体と言える。著者が本書で注目したのは岩波書店創業者の岩波茂雄とアララギ派詩人の島木赤彦という2人のゴタである。頑固な面がある一方で筋道を通すゴタには信頼を置きやすいだろう。とすれば諏訪の地を離れても諏訪人がお互いを重宝して交流を深めるのも自然な成り行きである。信州人の出版ネットワークもこうした交流が土台にあると著者は見る。もちろん諏訪人や信州人ならば誰でも信頼できるというわけではないし、信頼する仲間の紹介を通じて他所の出身者が交流に加わることもある。こうして出来上がった人脈こそが「信州人にとって最も確かな宝」だという著者の指摘は誠に的を得ている。

本書の後半は諏訪人を生んだ諏訪の風土を描き出す。諏訪の地は山に囲まれた盆地になっていて、中心には諏訪湖がある。杖突峠から諏訪を眺めた著者は「ただごとでない風土」を感じたという。古代、奈良の都から蝦夷地へと続く東山道が通る杖突峠でヤマトタケルの東征に思いが至るのは、神話に材を取った映画の作り手である著者らしい。本は諏訪の地形から環境や気候、信仰、風土へと話が続いていく。「繰越汐」や「寒天づくり」などの風景を目の前にして、著者はそれらが風土に馴染んでいて懐かしいと感じるという。心の原風景とも言える光景を数多く諏訪の地に発見したことが、ヨソモノであるはずの著者が諏訪について1冊の本を書き上げるに至った理由なのだろう。風土を生かすことの重要性を説いた三澤勝衛の「風土学」の一端を引きながら本書は締めくくられる。

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2021年04月28日

Posted by ブクログ

ネタバレ

<目次>
第1章  シルクエンペラーと東洋のスイス~近代ものづくり編
第2章  ゴタたちが編んだ出版ネットワーク~近代人づくり編
第3章  ”空”なる諏訪湖の求心力~土地となりわい編
第4章  人と風土が織りなす地平~科学と風土編

<内容>>
確かに三協精機もセイコーエプソンも諏訪湖周辺にある。岩波文庫のルーツも筑摩書房(これは名前が入っている)も信濃にルーツだ。その原因とかを人とかのネットワークや地質、地政学的に位置づけで確認していく。こうした本は面白いんだよね。そしてそこに行きたくなる。

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2022年07月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

●→引用

●山田正彦は1914(大正3)年に生まれ、蚕糸学校を出て北澤工業(後の東洋バルブ)に務めた。当時、諏訪に疎開していた諏訪精工舎から北澤工業に出向していた優秀な技術者である小川憲二郎を誘い、弟の六一とともに三協精機興したという。(略)山田が蚕糸学校や北澤工業で培った基礎と、外来の優秀な技術者との「合わせ技」が、功を奏したといえるのだろう。「諏訪にあるもの」と「諏訪にないもの」の融合。この時、「諏訪にあるもの」の側に重心を置くことで「主体性」が保たれた。私はそこに諏訪のDNAを感じるのだ。
●当然ながら、天然自然の産物である蚕は、その種(卵)や産地、気候条件などによって繭の大きさ、色、糸の太さなどまちまちで、二つと同じものはない。近代製糸業において、その個体差は「ばらつき」とされ、それを均一にすることが「品質管理」:であり、市場に対応するための大きな問題だった。蚕は「蚕種」「養蚕」「製糸」のそれぞれの工程で人手がかかり、生糸となる。製糸業は、蚕の生態に人が寄り添う「農的」な側面と、人間の欲求・欲望を原動力とする市場経済に則った「商工業的」側面という、二つを持ち合わせている。つまり「自然と人工」という、相反する原理を抱え込む中で「品質管理」という概念が生まれていった。そして諏訪では、それが後の精密機械産業を支える土台ともなったという。
●諏訪の製糸業あるいは精密機械産業は、町の女性たちや半農半工のお百姓が支えていたことを…。学問を身に付ける以前に、諏訪人は「なんとかやってみよう」取り組み始めると「なんとかやり遂げてしまう」のである。(略)つまり、「ど根性」で力の任せてやり遂げるというのではなく、「手を換える」「目先を換える」「考え方を変える」という柔軟な思考と繊細アプローチ、その上での「やり抜く精神力」にカギがありそうなのだ。それは対象をよく観察することから導き出されてくるものらしい。(略)与えられた課題を体よく「こなす」ことが「勉強」であり「仕事」だと考えていた私は、このベクトルの違いに愕然とした。自らの発露を持たず、常に人の指図に従う、いわゆる「指示待ち人間」」は、諏訪人の対極にあるものなのだ。この「自力で考え工夫する力」こそが、諏訪人の真骨頂だろう。
●古代から外来者と渡り合い、その力をひきよせて、みずからの土地を活かしてきた、あるいは、上京してもなお、諏訪の風土をその身に宿す諏訪人の姿だった。ここで私は、このように土地にしっかりと根をはり、自らのバックボーンを力として生きている人々を「軸足のある人」と定義したいと思う。(略)自文化を「過去の遺物」としか見られず、そこに何の価値も見出すことができなければ、それは地に着いた自分の「軸足」を放棄するに等しいことなのではないだろうか。土地に根ざした自分たちの文化や、ものの見方を失い、一方に同化、吸収されることを意味するのではないか。逆説的なようだが、それは文化や価値観の違う人たちと、しっかり向き合い、「違い」こえて本当の意味でわかり合い、新たな道をひらく可能性を失うことにもなるのだ。手放すべき「因習」と、共有すべき「軸足」のみきわめは難しい。その手がかりは何なのか。諏訪には、風土と人の営みが交わる諏訪湖と、人が容易に立ち入れない峻厳な山々が人々の暮らしの芯にある。そこではヨソモノであっても土地の暮らしが目に写り、その変化とその意味・意図を解することができるのだ。
●今後、新型コロナウイルスの蔓延を機に、都市に集中してきた暮らし方に変化が現れるかもしれない。テレワークを通じて地方に住むということも大いにあり得る。そんな時、都市の価値観をそのまま地方に持ち込むことには慎重になってほしいと願っている。そこは無住のフロンティアではない。都市の人には見えなくても、そこには土地の人が営々と紡いできた暮らしがあり、文化がある。都市の人にとって、取るに足らないもの、時代遅れの因習と映っても、そこには必ず風土との向き合い方が宿されている。見知らぬ土地に足を踏み入れる時、三澤勝衛の「風土学」は見方になってくれるはずだ。ぜひ、「風土に馴染む佇まい」を醸す人、建物、手仕事に出会ったら、心を寄せてみてほしい。

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2021年02月07日

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