著者の諏訪推しが強すぎてちょっと偏った印象を受けるけれども、自分が長野にもルーツの一部を持っているからなのか、共感できるいいこといっぱい書いてある。背負って運べる軽くて小さなモノづくり、なるほど。
また、しばしば著者の生まれ育った宮前区土橋との比較が取り上げられるのだが、著者と世代が近く同様に多摩丘陵が切り拓かれた住宅地で育った自分には著者が見た風景や感じることがすごくよくわかる。
丘の斜面には地方から出てきた教育熱心なサラリーマン家庭の住宅が行儀よく並んでいたが、まだむき出しの造成地もあって、低地には沼がありかやぶき屋根の農家もいくつか残っていた。新住民の子は夏休みはみんな「田舎」に行き、農家の子は勉強はからっきしダメでろくすっぽしゃべれもしないのだが運動神経は抜群、体育の時間はびゅんびゅんバク転していたのを覚えている。
P007 無自覚に、外からやってくる目新しいものをありがたがっているうちに、「町は誰かが作るもの」という他人任せな気分が支配し、地域の主体性、ひいては自分自身の主体性をも明け渡してしまっていた。
P055 「人が背負う」姿に、諏訪の人たちはひとしおの思いを持っている・・という気さえする。【中略】諏訪のモノ作りが得意とする「軽くて小さなもの」。そこには「人が背負う」という感覚がDNAに刻まれ、モノづくりに反映されているように思うのだ。
P073 諏訪では「山浦」という言葉をよく耳にする。【中略】「山浦の人は、田畑に出るにも本を持っていくような人たちでね・・・」という言葉には深い憧憬が込められているように感じた。つまり、田畑に立つ頑健な体と、向学の精神を持ち合わせているということだろうか。
P096 少なくとも明治生まれの人は、自分自身あるいは両親を通じて風土に呼応しはぐくまれてきた「江戸の身体」をもちあわせていたことは間違いない。それは「江戸以前」の遥か昔に連なる身体でもある。
P101 諏訪人は「なんとかやってみよう」と取り組み始めると「なんとかやり遂げてしまう」のである。【中略】ド根性で力に任せてやり遂げるというのではなく「手を変える」「目先を変える」「考え方を変える」という柔軟な思考と繊細なアプローチ、そのうえでの「やりぬく精神力」に鍵がありそうなのだ。
P117 生まれ変わった我が街(宮前区土橋)に移り住んできた人の多くは「通勤に便利」という理由でやってきた。そんな彼らが住む「コンクリートとアスファルトの上」からは「旧住民」の私たちが築いてきた地域の文化や暮らしは、目に映ることがなかった。大多数を占めるようになった彼らの「目に映らないということが、旧住民の意識にも大きな影響を与えた。【中略】手放すべき「因習」と共有すべき「軸足」の見極めは難しい。
P196 諏訪湖は岡谷市、下諏訪町、諏訪市の三つの地域にまたがっている。かつては、茅野、富士見のほうまで諏訪湖が広がっていたと考えれば、諏訪湖を取り囲むように人は円座しているようにも見える。【中略】人間だけが集う場所には上下が生まれ、利害が生じる。しかし、諏訪湖に意識を向けて、神や仏を宿らせることで諏訪は結び合ってきたのではないか。諏訪湖は中央構造線とフォッサマグナの交わるところであり・・・日本列島のへそであり、”空”でもあるのだ。
P229 (三澤勝衛は)スライドによる視聴覚教育のはじめだったろうと言い・・・また板書をノートに写すことを許さなかったというのは有名な話だ。
P230 「こら、人の言ったことを書いて何になる。自分で考えろ」
「渇したところへ水をやること。まず聴講者なり、被教育者なりの咽の乾くのを待って、あるいは盛んに空腹を訴えるようになったところへ、水なり、飯なり、その要求するものをやる」「将来必要だからこれを覚えておけ、あれもやっておけと、まだ食欲も出ないうちから、食物を与えるから、いわゆる詰込み主義の教育という変態的なものができるのである。」
P248 「風土に働いてもらう。風土を産業の要素に織り込んで働いてもらうことこそ大切なのです」
その土地(風土)が天然自然に持つ力「天恵」を最大限に引き出す農業や産業を望ましいと三澤は考えていた。