あらすじ
川端康成の『眠れる美女』は、高齢男性の性を扱った。
それから60年。川端を敬愛する台湾の第一線女性作家が正反対の方向からタブーに挑んだ。
すなわち、高齢女性の性に正面から挑んだのである――
元外交官の妻として裕福な生活を送る殷殷は、行きつけのフィットネスジムのインストラクター、パンに惹かれていく。
少数民族の出身で、眉目秀麗な彼―パンの、色白の肌の下に潜んだしなやかな筋肉に直接触れたいという欲望を、殷殷は抑えきれないでいた。
そしてある夜、パンを別荘に招いた殷殷は、彼に眠り薬を盛るのだった……
〈本書は長くタブーだった高齢女性のエロティシズムを扱った、きわめて挑戦的な作品だ〉(上野千鶴子・東京大学名誉教授)
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Posted by ブクログ
過日、川端康成が描いた『眠れる美女』のオマージュとして、高齢女性の性を描く意欲作と書かれれば、それは読みたい気もしてしまう。ただ、2020年の作品とはいえ、どことなくストーリーの古臭さや、手垢のついたテーマだと感じてしまうのは、慣れない翻訳文体だからなのか、台湾というお国柄の違いなのか、または時代の移り変わりの目まぐるしさからなのか。
作中ヒロインの殷殷夫人が思い悩むあれこれというのは、現代日本では(個人的な差はもちろんあるが)もっと能動的に、あるいはもっとあっけらかんと、乗り越えられている現状があるのではないか、なんてことを思ったりもした。
(もしや、文学だけがこの分野から取り残されてきただけなの?!)
□ 老いし殷殷の悩み―高齢女性が性を語るうえで憚られるもの
作中ヒロインの殷殷夫人は、家柄の良い出自や地位の高い職に就く夫を持ち、自身も作家として成功している、「洗練された女性像」として描かれている。家父長制の強いアジア圏において比較的リベラルな思想を持ち、自立した女性の代表格ともいえるかもしれない。
そういった彼女も、歳を重ねることで、体の(主に見た目の)衰えを感じている。ジムに通いプロポーションを保つ努力を続け、そこで出会った年若き「小鮮肉」(いわゆるイケメン)パンへの恋心を抱くに至る。
若き肉体への欲望をタブーとして、その思いや高揚感、喪失感を仏教観や輪廻などのアジア的思想をこねくり回しながらどうにか自らを納得させようと翻弄される姿こそが、おそらくこの小説の読みどころなのかもしれない。その逡巡や道筋のつけ方が、仏教観念に疎い自分にはあまりピンとこなかった部分でもあり、昨今の韓国フェミニズム文学とも少し毛色の違うところだなと感じた。
これほど奔放で自由を許された存在である殷殷夫人でさえ、恋焦がれる若き男性の肉体へのアクセスはかくも憚られるものなのか。なんなら、殷殷への好意があるように思えるパンならば言葉巧みに籠絡することもできたのではないか。最終的に、パンに眠り薬を盛るに至った経緯が今一つ納得できなかったが、その独りよがりのエロスさえも、川端の時代などには(キモがられながらも)男性だけに許された(ように見える)特権であり、その独りよがりのエロスを女性も……という点に新規性があるのかもな、などとムリヤリ飲み込んだ。
一方で日本の現状はどうか。知り合いの50代女性は女性用風俗(女風)に足繁く通い、心の穴を埋める術を金銭を代償に得ている例がある。身なりに自信のある既婚子持ち女性の友人も、年若い男性とのワンナイトを多少の後ろめたさを公言しながらも楽しんでいる。ママ活という例も片手で足りないほど、身近にあったりもする。いずれも自由恋愛や運命の恋などとは毛色は異なるかもしれないが、若い肉体へのアクセスという意味では、日本は台湾よりずっと先を行っている(ブレーキが壊れている気もしなくはない)のかもしれない。そういう例を多く見ていたなかで、この小説を差し出されたときに自分が感じたのは「え、今ここ?」だった。
□ 眉目秀麗なパンの魅力
先述した「小鮮肉」という言葉について、本書にも細やかな注釈がある。(二十歳前後の美少年)と簡単に書かれてはいるが、日本の「イケメン」とは趣を異にする語義があるように感じた。「イケメン」が顔の美醜に焦点を当てているとすれば、「小鮮肉」には筋肉など身体を含めたセクシーさを包含しているように思う。おそらく「ぽっちゃり系イケメン」やガリガリな「不摂生イケメン」、フェミニンなかわいさを売りにした男子などは、顔がよくてもこの範疇には入らないのではなかろうか。まさに顔の造形だけでなく肉体の新鮮さを含めて美を見出す感覚は、欧米の感覚にも近いのかもしれない。
殷殷が最初に体の関係を交わす、トビーという「小鮮肉」の描写もまさに肉体についての記述がほとんどだ。黒シャツの下に存在感を見せる胸筋の張り、片手には収まらない逸物の存在感。それはパンに対しても同じであり、顔の美しさよりも身体の力強さ、雄々しさも相まって彼女は惹かれていく。この点は、作中でも言及されているように、中国古典作品の「書生」などには見出されない価値観の変化であり、昨今の日本の「推しのビジュがいい」とも少し異なる、雄々しさの讃美という点で興味深く感じた。
筋骨隆々だけでは「阿呆」と一刀される一方で、精神世界にのみ秀でた「書生」の魅力だけでは現代女性には物足りない。トビーはおそらく肉体面では及第点だったが精神面が欠落した「阿呆」として描かれており、その両者を兼ね備えたパンこそが殷殷の理想の男性像だったのかもしれない。
「小鮮肉」とは異なる概念として「小狼狗」(P.43)という表現もある。「わかいつばめ」とルビが振ってあるが、これを囲う感覚は嘲笑されるべきものとして扱われている。このあたりの感覚の違いがとても興味深いと感じた。先述した女風通いの女性や若い男の体を楽しむ不貞妻たちは「小狼狗」を漁っているだけなのだろうか。
□ 意外に描かれてきた、年下男性との官能世界
高齢女性が抱く年下男性への肉欲のタブーというが、なんとなく既視感を覚えたのはなぜなのか。おそらく、男性視点のエロスのジャンルとしては、繰り返し描かれてきたからではないかと思う。「熟女モノ」「団地妻モノ」といったジャンルは手を変え品を変えつくられ続けており、女性主導で若き肉体へアクセスしていく性の描かれ方というのは、質的な差(男性の願望に塗れたものばかり)という点はあれど、そこまで目新しくは感じないものだった。
さらに昨今では、女性主体の性を描く作品が多く生まれているなかで、「高齢女性」の性という分野もそこに包含されて、自分の既視感に繋がっている気もする。さすがに70代・80代の女性の躍動的なセックスストーリーはあまり見かけないが、50代・60代などは「美魔女」などという言葉も持て囃されたように、中年女性とそこまで大差なく描かれることも多くなってきているのではないか、とも思う。世代を細かく分けて解像度をどこまで高めるか、という話になってくるのかもしれないが、20代後半の女性が熟女キャバクラで働く現代において、殷殷夫人のような(おそらく)60代女性の恋愛を40代・50代の恋愛と切り分けて考える必要性がそんなに見えてこないなと思ったりもした。もちろん、自分がその年齢に達したときに、考え方は変わってくるのかもしれない。
一方で、本書の翻訳文体がなかなか馴染めなかったのはなぜなのだろう。冒頭でちょっと揶揄してしまったが、(~なのか?!)という「?!」文の多用や、中国古典の引用の多さについていけなかったからかもしれない。もちろん知らない世界について書かれた文章はとても興味深く、自分で調べながらなんとか理解しようと試みるのだが、それでもちょっともう少し噛み砕いてわかりやすく仕上げてほしかったという、スマホネイティブの甘えを自覚せざるを得ない一冊だったように思う。
とはいえ、筆致の確かさを感じる表現もとても多く、筆者の視点や海外文学を読む面白さを感じる部分もかなり多くあった。メッセージのやりとりでは、殷殷夫人が言葉を巧みに操り思いを表現する一方で、パンは動画や画像などビジュアルを切り取り送ることで思いを仮託する。「歳は漬物のようなもの」(P.52)「もはやバストと下半身だけが愛欲のありかではない」(P.71)「セックスとは、完璧なものでなくとも、顔の皺を弛めてくれる」(P.73)など、恋愛に対する金言が各章に散りばめられており、読後に付箋を貼った箇所を再読するだけでも楽しい。
□ カバー写真の美しさ
今回この本を手にしたきっかけは、ジャケ買いであった。テーマにももちろん興味はあったが、カバー写真の静かな魅力に惹かれたところが大きい。
調べると、カメラマンのJörgen Axelvall氏の作品であるようだ。被写体としての男性の美しさというのは、やはり「小鮮肉」の感覚に近いのかもしれない。作品テーマとカバーの作りのリンクになるほどなぁと思った。